亜細亜大観/02
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永慶寺の佛像 (金州)
金州の地は唐の太宗時代から史上に現はれてゐて、大和尚山頂に蜿蜒として殘つてゐる古城壁はその頃高勾驪征伐の遺趾だと傳へられる、金州が特に衞城の地となつたのは明朝時代で、倭寇防備の首城となつてから特に著名になつたが、從つて今なほ城北の永慶寺其他には明碑が保存せられてゐる、これは同寺の有名な佛像である。 -
小白山の山神 (吉林)
吉林の南方十支里に小白山と云ふのがあつて山上に淸の雍正十一年に建立した望祭殿がある、長白山の山靈を祭る處である、吉林は山紫水明の境、北邊の重鎭であつて而かも淸朝發祥の地である、淸代には春秋二季、地方官を派して祭祀を怠らなかつた、其處には今なほ昔望祭の犠牲としてゐた神鹿の群れが無心に遊び戯れてゐる。 -
洮南の城壘 (蒙古)
洮南は元來蒙古平沙中の交易場であつて、それが漸次商業的に發達した都市であるから所謂政治的の都市が有するが如き城壁を持つてゐない、寧ろそうしたものゝ無いのは洮南が如何に新興の商業都市であるかを雄辯に物語るものである、寫眞の城壘の如きは支那邊境によく見る土賊を防ぐ一種の防備施設と見れば差支えない。 -
新興の洮南 (蒙古)
四平街から洮南に達する全長約二百三十哩の鐵路、それは日本が滿蒙に借款權を獲た五鐵道の一つであつて既に完成開通してゐるのは諸氏の知る如くであるが、哲里木盟の大平野に最近洮南が倨然として一大發展を見せたのは何と云つても鐵道の竣工が一大因をなすのは否まれまい、此の如きは誠に鐵道の眞使命の完成と謂ひ度い。 -
喇嘛塔 (蒙古洮南)
洮南の西北五里、荒涼たる平野のたゞ中に落寞として二基の喇嘛塔が殘つてゐる、四五の老樹徒らに繁るにまかせ、荒草斷煙、全くの廢墟である、土人はこれを双塔寺と稱してゐるが、昔しは此處に壯大な寺院があつたものと思はれる、その彫刻に殘る古代美術の面影、經文を刻してゐるらしい西藏文字、古の榮華が偲ばれる。 -
一望の綠野 (蒙古)
一望の綠野、その視界は地平線を限りとして圓形を畫くと云ふのが蒙古の實景である、しかもその視野の中にたまになだらかな小丘が波打つて視界に消え行く姿を發見するのはまたとない雄大な氣分を與へられる、殊に靑草もゆる六七月の頃、百の野花燎爛として咲き亂れる姿は蒙古の平原ならでは味はれない情趣である。 -
松花江の漁獵 (吉林)
吉林は北支那には珍らしい水の都である、淸の初祖愛親覺羅は長白山中に產れ、その米菓發祥の靈地長白山から發する松花江に臨んでゐる吉林は、まことに山水の美に惠まれてゐるとも謂える、大江悠々の趣は無いが、淸澄の水は背景の山容と相待つて吉林の都雅を稱せしめる、夕日に土人が四つ手網を細流に操つる情趣も面白い。 -
洗濯の女 (滿洲風俗)
滿洲一圓の風俗としてかういふ情景はしばしば見る處である、無論細民の群れであつて手籠にはなにがしかの洗濯物を盛り別に木片を携へる、そして石に衣をうつて用をたすのであるが水流の淸濁は必ずしも彼等の選ぶ處ではない、彼等には洗濯は布を洒らすといふ意圖はなく、たゞ衣にしみてゐる汗と垢とを落せばよいらしい。 -
龍潭山 (吉林)
龍潭山は吉林市街の北方十二支里、松花江を船で渡つた江岸に姿優しく立つてゐる低い山である、四時涸れたことも無ければ溢れたこともないと謂はれる龍潭の碧水を中腹に抱いて、春の花、秋の霜葉、その幽邃の風色は吉林都人士唯一の行樂地とせられる、昔この池中に大龍が住んだ傳說がある。 -
魁星樓の廢墟 (長春)
長春は約五十年前までは一寒村に過ぎなかつた、けれども其位置は北滿道路の湊合地點であつて、軍事政治商業何れの方面から見ても重要地點である、遼代に於て創始せられた長春城は金以後數百年間比較的閑視されてゐたけれど、淸朝以後は如上の理由で頗る重視せせられてゐた、長春城北廓の魁星樓趾は當時の榮燿を語つてゐる。 -
老爺洞 (金州)
金州城の西北二里餘の所にあつて山頂に濶さ十數人を容るゝに足る一の洞窟がある。内に洞内の巖石を彫塑したる一座の佛がある、古色蒼然として數百年の昔名工が妙手を奮ひし苦心の跡が今も尚偲ばれて尊崇の念にうたるゝものがある、故に支那人の參詣する者が非常に多い。 -
烽火臺 (石河)
石河驛の全面即ち其東方、臺子山頂に在り全部石築にて其構造古墳の石槨と同一形狀に造れるを以て考古學者に知られて居る、其位置は南々東に一小谷を隔て小黑山と相接し、又北西に近く海灣を望み、遠くは普蘭店方面をも目睫の間に聚め實に屈強の場所である、昔時頻々たる和寇の襲來に備ふる為め造られたもので、其後土匪に備へ今日に至る、中央小祠内には金花娘々敎主之位と記せる神位を奉安してある。 -
(解説文なし)
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克魯倫河 (蒙古)
河源は外蒙古庫倫より發し車臣汗部の中央を橫斷し黑龍江省界に入り呼倫湖に注ぐ斯の如く長流なれども河底淺く流水常に少いがこれは中間沙漠地帶を通過する際に過半砂中に暗流となり上流より下流は水量少き觀がある其の湖水に入る前には五條に別れ著しく廣き面積を占めゐるが平時は僅に水を湛へ居るに過ぎない故に河口の現狀を見ては數百里の流れとは何人も想像が出來ない。然し水は非常に冷たいが魚族多く下流は漁業が盛んである -
滿洲里の風景 (北滿)
東支鐵道の西の終點興安嶺の高原に一望の沃野雄渾の風景が得られる其處に市街がある街の東部の小高い丘に聳へ立つ風車それは露國人で市の名物男助役君が經營して居る製粉工場である、幾度修繕を加へても此の土地の風力強き為め被壞さるのみで使用出來ず今は滿洲里の一名物となつて飾物たるに過ぎない -
萬壽山の銅牛 (北京)
萬壽山昆明湖畔にある靑銅牛である、精巧を極めたもので一見恰も生けるが如く、其臺石の如きも總て大理石を以て作られ且つ美麗なる彫刻が施されてあつて淸朝隆盛の頃さては西太后の榮華の跡が偲ばれる、萬壽山を見物する程の人は必ず見逃してはならぬものゝ一である。 -
牛糞の採集 (蒙古)
彼等の如き樹木なき曠原の生活者にとつては牛糞は唯一の燃料で最も大切なものである其良く乾けるものは容易に燃へ火力も極めて強く彼等は此火にて炊事は素より諸種の鐵器をも製作する、試みに鐵棒の一端を火中に置けば忽ちにして白閃を放つに至る、之に依ても如何に其火力が強烈であるかを知る事が出來る。故に彼等は仕事の餘暇は必ず牛車を引き曠原を彼方此方と集めて行くそして乾燥して貯藏するのである、此の役目はおもに婦人や子供の任務となつて居る。 -
牛糞の山 (蒙古)
女や小供によつて集められた牛糞は一定の場所に山と積まれる、之は冬期結氷時彼等は小山の中腹に陽あたり好き所を撰で定居するので其間に燃料を供する為である、冬期山腹に定居する理由は雪の為平地が掩はれて牧草なき時でも山上の日向は牧草を求める事が出來、飯料に供し得るが為である、故に牛糞の山は概ね此冬期定居すべき山の附近に築かれるのである。 -
巴爾虎族 (蒙古)
遊牧民は各旗界内に在つては自己の好む場所に移動して行くのは自由である。彼等は必ず水草の便利なる處を選ぶを常とするが然し何時にても水草の潤澤なる處は成るべく殘し置き雨の後は日頃水なき土地も水草の潤ふ故に其の邊に移動して行く斯くして旱天續くと亦た水の豐かなる處に向つて行くのである、之れは克魯倫河附近を移動し行く處である。 -
牛乳搾取 (蒙古)
蒙古人は牛乳を食用に供すること實に巧である、されど生乳は下痢を釀すの恐れありとて之を用ゆる事は稀れである、搾取の時期は野草の靑々たる時であつておもに婦人專ら搾取に任じて居る之れを三四升入の鍋に入れてから暫く煮て上部に凝集する脂肪分を兩三回除き之れを別に貯へ殘餘を桶に移し斯の如く貯へたる脂肪分は之れを奶皮子と曰ひ其上部を茶に混じて飲用とす、其の奶皮子は牛乳中の精であつて慈養に富みまた牛酪等に造るのである。 -
萬里の長城 (八達嶺)
萬里の長城は甘肅省嘉峪關より起つて直隸省の山海關に至る連旦實に日本里程にして約千七百餘里に及べる城塞である、今日の時代から觀て其の有用的價值を斷ずる事は出來ないが兎に角世界第一の建造物たる事に相違はない、城壁の高さは十五尺乃至三十尺、壁上の廣さは十五尺乃至二十尺、壁上殆ど一定の距離(三百六十尺と稱す)を置て烽火臺を構へてある、築材には磚瓦と石とを用ゐ極めて堅牢である、八達嶺は北京よりの長城見物に最も便利な處で汽車に依り容易に行ける處である -
萬壽山の景
万寿山は一名頤和園とも云ひ、北京西直門外約十キロの西北に在る。|山下に昆明湖があり汪洋として玉泉を湛へ、又園内には勤政殿、怡春堂を始め輪奐の美を極めた数多の殿閣があり、全く名実共に北京第一の名園である。 -
萬壽山の石船 (北京)
萬壽山下昆明湖の中に恰も大なる屋形船を泛べたるが如く設へてあるもの、大部分大理石を以て造られ壯麗を極めて居る、其昔西太后在世の時は常に此の船内で遊宴を催された相で有名なものではあるが年遷星變淸朝は滅亡し今は只前代榮華の記念物として水にうつる影さへ淋しく昔を物語つて居る。 -
駱駝 (北京)
駱駝の行列は北京名物の一つである、薪炭、穀物、其の他重い物をよく運搬し、一頭二百四十瓩(四百斤)位迄は負荷し、歩行は恰も牛の如く鈍いが、それでも一日五十粁(十二三里)位は行くと云ふ、馬夫ならぬ駱駝夫一人で、七頭の駱駝を率ゆるのが普通であると。 -
水賣り (北京)
北京には水道の設備がなく皆掘井戸の水を用ゆ、中には良い水もあるが、不透明で稍鹹味を有するのが多い、市民は良い水を甜水[テンスイ]、惡い水を苦水[クスイ]と呼んで居る、中流以上の家庭では甜水を買つてゞも飲むが、下流の者は水錢の安い苦水を沸して用ゐて居る。|寫眞は今水賣りに出かけ樣とするところ。 -
文廟石皷の一部 (北京)
文廟は孔子の靈を祀れる祠であつて、孔子廟とも云ふ、北京孔子廟の大成門內左右の柵內に安置されてある、高さ二尺餘、徑一尺二寸餘のもの、總てゞ十箇ある、この石鼓は東國時代即今より約三千餘年前周の宜王の時代のもので碑文の種類中最古のものである。 -
北淸戰役記年碑 (天津)
一部の支那人の間に無暗に排外熱が高まりそれが蔓延し勢を加へ遂に暴動團と化して、凡ての外國の施設及人命に對し害惡暴行を加ふるに至つたが淸國自ら之を鎭壓する事が出來なかつたので各國が聯合して之と戰つて鎭定したのが我明治で三十三年の北淸戰役、當時最も勇敢に働いたのは勿論我日本軍であつた。|年往き星遷り今はこの天津日本租界の公園に建てられてある一基の碑によつてのみ紀念せらるゝに過ぎない。 -
李公祠 (天津)
李公嗣[リークンソウ]は前淸光緒時代の偉人李鴻章を祀れるところ、光緒三十一年清國皇帝の建てられたものである。|規模の宏壯なること、よく偉人の功績の大なりしを表徵す。 -
李公祠の祭門 (天津)
李公祠の多くの社殿皆宏壯にして結構なるが、就中この祭門は最も美麗にして實に歎美に値するものがある。|樓柱、蘭干、花臺等、其彫工裝飾の精巧を極めたる、眞に一門よく支那の近世美術の粹を以て成るかの觀がある。 -
宴席
之は支那料理店に於ける支那人の酒宴の光景である。ボーイに案内されて室に入ると、夏冬に拘らず熱湯から絞りたてのタオルを呉れる、之れで顔や手を拭ひ西瓜子か南瓜子を食ひ乍ら茶を飲み料理を待つ、宴会では大概一桌子幾円と値段を決める、値段の高い程料理の量も多く、種類も多いわけである、芸者は特に呼ばなくても他の室に来て居るのが廻て来て酌をして呉れる。 -
牧羊 (蒙古)
克魯倫河附近一帶は牧畜が非常に盛んであるが主として羊牧である、之れは此の土地に叢生する牧草が最も羊の食用に適する為めである、故に英國糧食會社が牧羊場を設けて居る程であるまた蒙古人も附近一般に遊牧して居るので從つて蒙古苞も多く散點し、之れを遠く望めば宛然地上に降下したる氣球の如くである殊に炎熱燒くが如き夏の日に怪雲去來する時蒙古人が悍馬に跨りつゝ數千の羊群を逐つて曠原を橫斷する有樣は恰も一輻の繪そのものである。 -
蒙古苞(其一) (蒙古)
夏季は各々其の屬する疆城內に於て牧草繁茂の地を撰んで移住するも移住の區域は自から略一定して居つて其種族の部内にて水草と共に良好な土地を求めて移轉して行くのである苞には固定式と移轉式と二つあつて之れは移轉式の部である。此の式の苞が如何に移動に便利であるかは其の組立にも解體にも僅かに二十分位で足りるを見ても如何に重寳に作られて居るかゞ知られるであらう。 -
新巴爾虎族 (蒙古)
此の種族は皆外蒙古克魯倫河附近及び呼倫池の邊に水草を逐つて遊牧して居るが、昔日は外興安嶺の北麓に住まつて居つた。淸の嘉慶年間に至つて南方に轉移した、そして依然として遊牧を業として居る、言語は陳巴爾虎と通ずる故に巴爾虎と名けて旗中に編入したのである。但し編入の時期が新しい故に新名を附したのである、既婚の婦人は銀製の大きな扇形の耳飾を着け處女は一般に只頭髪を組んで後に垂れて居るのみである。 -
克魯倫河漁場 (蒙古)
此の附近は最も漁業の隆盛な土地である、主に露支人の經營であつて日本人は僅に一名支那人名義のもとに漁業を營んで居る。其の收益は實に莫大に上るとのこと、此は夕陽の傾く頃土民が漁獵に從事して居る處、網は日本のそれとあまりかはりはない。一日何回となく網を曳き多き時は一網數百尾の漁獲がある、魚族はおもに鯉、鮒、鯰等である。 -
タルバカン (蒙古)
タルバカンは支那語で旱獺子と稱し、栗鼠科に屬して其形態は野兎と栗鼠との中間で大さは大概大猫位のものである主に沙漠の南面せる緩斜の芝生地に棲み其巢は數米の地下に曲折せる數條の穴を掘り倉庫、住宅、便所等を作り人間に似た生活をして居る、毛皮は乾燥して盛に歐米に輸出され年額百萬元に達して居る、面白いのは蒙古人間の傳說では此動物は不義密通した人間が對手に呪はれて獸に化身したものであると云ふて居る。 -
ホツプの栽培 (北滿)
吉林省一面坡に於て某會社の後援の下に濱口由二郎氏か栽培せるポツプ畑である、未だ試作中であつて多量產出せざるも非常に好成績で充分成算の見込があると云ふ、若し邦人が之に着目して北滿に於て資を投じ之に從事して多量生產する樣になれば東洋に於ける麥酒釀造業者は非常な利益を享くる事が出來得ると共に滿洲の特產物を更に一つ増す事が出來るわけである。 -
ホツプ (北滿)
ホツプは麥酒釀造に要する必需原料であつて尚菓子麵麭等の製造にも使用せられていて其需要は可成大なるものである歐米では古から栽培せられて居る事は周知のことであるが東洋に於ては未だ試作中に止まり生產するに至らない、然るに近年ホツプの需要年を逐ふて増加し輸入高年額約五百萬圓を下らない有樣である、之を北滿に於て全部產出するに至らば益する所大なるものがあらう。 -
海拉爾 (北滿)
廣茫千里さすがに北滿の天地は廣濶である土地も肥へ農產物も豐饒でありとても南滿の比でない、殊に此の地は呼倫貝爾特別區域の首腦地であつて蒙古政廳の所在地であるまた物產の集散期には頗る殷賑を極める、此の郊外には滿洲には珍らしい鬱蒼たる松林相連り香味ある茸を產す、昔蒙古王の北京參朝の時淸廷に御土產としたと云ふ程の名高い珍品である、寫眞は附近の小丘から望んだ市街の遠望である。 -
苺畑 (北滿)
北滿東淸線を東すると山裾に野苺がはびこつて居るのを見る。此寫眞は東部線の終點ポグラニチナヤで露人の經營してゐる苺畑である。まだ若き露西亞の乙女等が三々伍々相携へて採實する情況を見ると實に悠長な氣分に浸される、こうした苺は此の邊で多量に產する蜂蜜で煮きジヤムを製して市場に賣り出すのであるが其の風味は實に賞讃に値ひする。 -
娘々祭 (大石橋)
大石橋驛の西南三十餘町の迷鎭山に海雲寺の古刹があつて其裡に娘々の三神を祀つた一廟がある、三神とは趙公明の三妹雲宵、避宵、瓊宵の三體で古く神仙の西王母が能く人壽を保ち又子女を授くると云ふ傳說があるが為今日に至るも參詣人多く毎年舊曆四月十六、七、八の三日間の會式には遠近から參籠するもの堵を作り、人と露天小屋と飲食店とで全山を埋め其盛なる事驚くばかりである。 -
蒙古の婦人 (外蒙古)
純牧地方の婦人は其性頗る單純快活にて無邪氣なる事恰も小兒の如く然してよく働く事全く感嘆の外なく家事一切を果たして尚餘暇あれば馬に跨り曠野に出でて家畜を監視して日も尚足らざる有樣である、從て其馬を馭する事男子に劣らず鞍上人なく鞍下馬なきの感がある、眞紅の夕日沙丘の彼方に沒せんとする頃牛馬羊等の大群が逐て包に歸り行く彼女達を見る時に涙ぐましい樣な雄々しさを感ずる。 -
呼倫池 (蒙古)
呼倫池は蒙古語にて達賴諾爾[ダライノール](大海の意)と云ひ滿洲里の南方沙漠中にある長さ十五里幅二里乃至三里の東南に長き楕圓形の湖である、四時濁水を湛へ水深は概して淺きも魚族多く四季を通じて漁業盛で年額八十萬圓と稱せられて居る、此湖は氣象の變化多く時々黑雲湖水を捲き揚げ恰も繪にある昇龍の如き光景を呈し其壯觀言語に絕すと云ふ。 -
一望千里 (蒙古)
四平街を發し四洮鐵路にて旅すれば窓外の眺望只曠茫たる沃野の無限に連り果は地平線の彼方に沒するのを見るであらう、之は同鐵路開通以來滿漢人の移住者に依て開拓せられたものであるが尚洮南附近一帶洮兒河の流域には地味の耕作に適せる一望千里無限の平原は天涯に連り東帝國の開墾者の來るを待て居る、目下敷設中の洮齊鐵路開通の曉には此平原も日ならずして耕作地となる事であらう。 -
雨の傳家甸埠頭 (ハルピン)
北滿の大都市ハルピンの繁榮は街に沿て流るゝ松花江の水運に待つ處が多い、此傅家甸埠頭は後に傅家甸の歐風市街を控へ前に松花江の鐵橋を望み船舶の出入繁く荷物の積卸乘降客の出入多く殆ど世界各國人の姿を見る事が出來る、殊に雨の埠頭は捨て難き情趣ありて旅愁をそゝり詩情湧くを覺ゆ。 -
街上所見 (ハルピン)
哀れな兒童達を保護して下さい、そして肌着や靴を惠んで下さい。之が此箱に書いてある露西亞語の總てである、ハルピンの或町の街路樹の蔭に彼女達は斯ふして同情者を求めて居た、箱の上に竝べられた數々の塑像其中には有名なレーニン氏の姿も交つて居る、兒童國有の露西亞を之を透して眺めるのも面白い、右端小さな商品には大阪とした商標も見江る。 -
佛像と靑獅 (蒙古)
之は洮南附近の喇嘛廟にあつたもので、右端は歡喜佛即ち陰陽佛で男女佛の抱擁せるもの、中央後方は三尊大佛即ち釋迦、如來、牟尼の内の一佛で前方の二體は普通喇嘛佛と稱し顔及び腹の細い佛像である、左端は靑獅で普通石若くは靑磁にて作られ偉人の像の左右には必ず白象と共に置かれるものである、之等は必ずしも蒙古特有のものではなく滿洲にても見る事がある。 -
ポクラニーチナヤ (北滿)
吉林省の東部と露領沿海州烏蘇里地方と相接する所、山紫水明の山峽に美しい街がある、之がポクラニーチナヤである、東支鐵道の終點に當り人口約二萬内日本人四十人)と稱せられ外に國境守備の支那兵約一萬駐屯して居るが他地方と連絡する交通路を持たない此街は商工業的には餘り振はない、支那が稅關を設けてあるに拘らず酒、煙草、砂糖等の蜜輸出入が盛に行はるゝを以て其意味で名高い。 -
木材の引揚 (吉林)
筏夫の歌悠々と松花江を下て來た筏は大概此處で解體される、之は其巨材を陸に引揚る光景である、數頭の馬を配した馬車を水中に引入れ鎖を以て材木を之に縛りつけ馬子は馬上に立て長鞭を振ひつゝ馬を馭するのであるが其術の巧みなる事全く手足を動かす如く馬子と馬と同一體かと思はるゝ計りである、由來滿洲人は家畜を馴らす術に長けて居てとても我邦人の及ぶ所でない。 -
木材の集積 (吉林)
松花江から引揚げられた木材は寫眞の如く河岸に山積せられ賣買せらるゝのであるが實に木材は吉林の生命で其何國人たるを問はず直接に或は間接に之に依て生活して居ると云ても過言ではない、最近一箇年間の輸出高は約三十萬噸四百萬圓に上ると云ふ現今不況時代に於ける此數字より見て將來好況時の盛況が想像される 圖中左方の小屋は筏の上に組立てられた筏夫の小屋である。 -
沙漠に於ける露國商人 (蒙古)
克魯倫河附近を旅行すると天幕や蒙古包の上部高く英米の國旗の翻て居るのを見るが之は主に牛皮、羊毛等の買入に出張して居る露西亞商人の住居である、彼等は海拉爾、滿洲里に本店を持ち沙漠にては商略上英米等強國の國旗を掲げ盛に活動して居る、中には婦人を同伴して居る者もあるが此不自由な沙漠中に在て幾多の困難と戰ひ商勢を張つて行く所に彼等の偉大性があり我等の學ぶ可き刻苦勉勵の精神がある。 -
護城河と鴨子 (北京名物)
北京城は河を以て圍まる、之を「護城河」といふ、元の世祖が築城の際、萬壽山の混明湖より水道を引き、紫禁城內の三海に貯へ、籠城の飲料に備へたと歷史に傳へられて居る、三海の水は、護城河より通惠河を經て、白河に通じ、渤海灣に注いで居る、圖は護城河畔より遙に朝陽門を望む、河流には家鴨群をなし、河畔の楊柳と相對して風致を添ゆ、家鴨を「鴨子(ヤーヅ)」と稱し「燒鴨子」の風味は、北京名物の優なるものとなつて居る。 -
文丞相祠 (柴市口の遺跡)
宋末の忠臣文天祥が、一死を以て君國に殉した元朝の刑場「柴市口」の遺跡は、安定門內府學胡同の中にある、今此處に祠を設け、文山の靈を祀つてある、祠を「文承相詞」と稱し、明の永樂六年、北平按察司副使劉崧の建立に係る、祠の入口には「萬古網常」の匾額と、其左右に「敵國仰威名一片圓忱昭忠册、法天留策對千秋正氣壯山河」の堂聯を懸く、祠には文天祥の神位を安置し、神座の左側に碑あり、碑には公の遺像と、その上段には、有名なる公の「衣帶の銘」が刻してある。 -
文天祥像 (文相丞祠の本尊)
文相丞祠の正面に神座を設け、前に「宋丞相信國公文公之神位」の木主あり、其後方に衣冠せる塑像が安置されて居る、像は初め儒者の衣巾を纏へるを、謚を忠烈と賜ふた時改作せるもの、英姿俊爽、兩目烱然、堂々として長者の風がある、「南の揖、北の跪、予は南人なり南禮を行ふ、跪を贅るべけんや」と豪語し、元の丞相博羅を手古摺した不屈の氣慨は眉宇の間に漂ふて見江る、公の遺像に接し、其英風を欽すれば、日月を貫く忠肝義膽、凛として人に迫り、思はず襟を正うする。 -
圓明園の廢墟 (英佛軍狂暴の跡)
咸豐八年,英佛聯合軍北京を突き、圓明園を陷るや、其珍玩奇貨を掠奪し、且つ火を放ちて宮殿を焚いた、圓明園は北京より西山に赴く半途、海淀の西北一帶に、殿宇樓閣、結構壯麗、輪奐の美を極め、歷代の皇帝が天下の珍寳を集めて居た處である、獨り支那の寳なるのみならず、亦世界の珍とすべきものが少なくなかつたが、其時一炬に附してしまつたのは、惜しみても尚餘りありといふべきである、今煉瓦の破片累々たる中に、頽れたる壁の一部立殘りて、物の哀をとゞめて居る。 -
元の土城 (薊門煙樹)
今の北京城は、明の築城に係る、元城の北至は、現城壁の北至より、五支里北方に當る、德勝、安定兩門外に蜿蜒と遺存せる土城がそれである、圖は北至より約二支里の南方に位する西壁關門の跡である、關門を「薊門」又は「土城關」と呼ぶ、北邊一帶はもと薊州の地にて、館舍高樓建て連なりたれど、今は悉く荒廢し、唯林木蓊翳として蒼翠の色深く、燕京八景の一となつて居る、壁上の碑は、乾隆帝の建立に係り、碑面に「薊門煙樹」の四大文字、碑陰には御製の詩を刻してある。 -
望君出 (天安門前)
北京紫禁城の正門、天安門の前後に、各一對の大石柱を見る、高さ二丈七八尺、圍り八尺餘にて、大理石を以て作る、十字架の如き型をなし、柱石には昇龍を刻し、石の頂上には一の怪獸踞る、この怪獸は「螭吻」の一種ならんも、俗に呼んで「望君出」といふ、君出づる時これを望むといふにより此稱を生ぜしと見ゆ、之に對し宮門の内部にあるを「望君入」と呼ぶ、天安門の外、十三陵、二閘の皇子墓、南京の孝陵、龍門の關帝廟等にある。 -
マーニホルロ (喇嘛の轉輪)
北京の雍和宮に詣る者は、何人も溫度孫殿の軒下にある金屬製の不思議な圓筒に氣づくだらう、これが有名なる「轉輪」蒙古語でいふ「マーニホルロ」である、周圍三尺五寸餘、縱一尺五寸餘、其上に周圍一尺二寸餘、縱五寸位の小圓筒がある。表面には西藏文字でオムマニバトメウン、即ち南無阿彌陀佛の名號を現して居る、此筒中には無數の名號を印した薄い絹を、幾枚となく又幾百丈となく、圓く卷いて入れてある、之を一回轉すれば、一切經を讀誦すると同樣の功德があるといふ。 -
兎兒爺攤子 (仲秋の玩具)
支那には、日本のやうに三月のお雛さんも、五月の武者人形もないかはりに、仲秋節に子供になくつてならぬ人形がある、人形の名を「兔兒爺(トウル、エー)」といふ、兔兒爺とは、兎の顏せる人形が衣冠せるもの、又は甲冑を着けたるもの、手に纛旗を持ちたるもの等種々ある、大なるものは三尺、小なるものは尺餘、美々しく彩色を施してある、陰曆八月十五日が近づくと、北京の各市場や、街の辻々にこれを商ふ「攤子(タヌツウー)」即ち露店が出て、小兒の客を呼んで居る。 -
月亮馬兒 (仲秋節のお供)
支那では、仲秋の月を祭るに神像を用ゆるこれを「月亮馬兒(ユエリヤン、マアル)又は「月光馬兒(ユエコワン、マアル」といふ月亮馬兒は、上に太陰星君或は菩薩等の像を畫き、下に月宮にて「兎」が立つて餅を搗く繪を畫いたものである。長きもの七八尺、短きもの二三尺、頂に紅綠色或は黃色の二旗を立て、これを月に向つて置き、種々の供物をする。拜し終つて燒き捨てる。北京の諺に「男月を拜せず、女、竈を祭らず」とある如く、月祭りは女がして男は關せぬ。 -
賣鷹的
支那の鷹狩を「放鷹(フアン、エイン)」といふ、飼鷹を養成する者を「養鷹的(ヤンエインデ)」といふ。これを販賣する者を「賣鷹的(マイ、エインデ)」と呼ぶ、長城の北方で野鷹を捕へ、之に麻の皮を食はせて脂肪を取り、睡眠をなさせず、弱らせ抜いた揚句に、肉を少しづゝ與へ、捕鳥の技を訓練する。斯くて塞外から、遙るばる北京に運ばれて來る寫眞は塞外より長城を越へ、八達嶺より居庸關にさしかゝる蒙古街道で撮つたもの、これが北京に着けば、一羽五元位にはなる。 -
雙龍レリーフ (雲崗石窟)
中央第八窟の中には、面白い種々なるレリーフが多い。殊に後室東部の上アーチの穹窿部には、蓮花紋を圍める四體の飛天あり、下アーチには二箇の龍が取組んだ浮彫がある、この雙龍は、支那各地の廟堂に見る龍の圖に比して、原始的な簡略素樸なる手法によつて居るので、高尚で典雅なる六朝式氣魄があるといひ、美術家に賞賛されて居る、雙龍レリーフの上方には、樂器をもつた小天女像ありその上段には、小佛像が夥しく列んで居る。 -
石佛古寺 (雲崗石窟)
大同府城の西三十支里、武州塞の靈巖に無數の石窟佛龕がある、通稱「雲崗石窟」といふ、石窟の前面に一寺院あり、これを「石佛古寺」と呼び、石窟古寺を合せて俗に「大同石佛寺」といふ、石窟石佛は魏の文帝即位の年(西紀四五二年)頃より起工し、七八十年間繼續開鑿して成る、沙門曇曜の創立に係り後人これを續いだものである、寺は最初「石窟寺」と稱し、多數建連らねたるも、今は僅に一寺を殘すのみ、而も淸代の重修に係る。 -
東部第一窟 (雲崗石窟)
東部第一窟は釋尊窟と殆んど同一なる佛像を配置してある、東壁の下部には釋尊傳のレリーフがあり、その上は四つの龕が并列して居る、龕中には四尺の產像を容れて居る、龕間には「佛塔圖」を以て裝飾されて居る、塔は勿論五重であつたと思はれるが、下部が破壞して今は三重を殘すのみである、塔頭には三肢の鎗に似た飾りがある、塔圖の左右には小佛像を刻し、其上には幕形の模樣を出し更に其上段には三尺位の座佛が列んで居る。 -
東部大佛本尊 (雲崗石窟)
石佛古寺に東接した、所謂東方第三窟は、外觀の壯大と、内部の大規模なる雲崗石窟中の第一位に位する、直立崖の内部の洞中に安置せる大佛本尊は、石窟遺跡中の逸品で、雲崗の景後期に於ける作品として、其の彫像に大なる興味がある、他の像と趣を異にし、表現の繊細なると、支那化した氣分が濃厚である點より推して見れば、隋唐藝術の發端を暗示して居る、像は目算三十尺内外にて、左右には十七八尺位の優秀なる脇侍が側立して居る。 -
東部の佛塔 (雲崗石窟)
東部第一窟内には高さ三間弱の佛塔がある此窟を「東塔洞」又は「佛塔窟」と呼ぶのはこれが為めである、從來「石鼓洞」とも稱されてゐる、塔の前面は上下二段に分れ、何れも一佛の坐像を容れた佛龕で、著しく破壞して居る、上段は後の修理に依るものが壞れたるもの、下段の像は原石刻の儘に壞れて居る上段の坐像には、リボン形の布片を風に靡かせたる二女性の脇侍がある、下段馬蹄形の龕緣の上部には、無數の小佛が彫まれて居る。 -
西部窟の全景 (雲崗石窟)
石佛古寺より西に走る山腹の崖には、僅三町餘の間に、大石窟十一を數ふる、シヤワンヌ氏の所謂 Groupes des grottesittuees a I'Oucst である。各窟何れも巨大なる本尊を有して居る。此等の佛龕は靈巖結像の最も主要部を形成し、又其最初に開鑿せられたことも容易に推測し得らるる、其他一二尺の坐像一體乃至二體を入れる小窟は、殆んど無數にして、掌大乃至方一尺大の彫像に至つては、崖面至るところに蜂の巢のやうに有る。 -
西部露出大佛 (雲崗石窟)
西窟跌座の露出大佛は、雲崗石佛開鑿の初期に屬するものである、魏書卷一百十四の釋老志に「曇曜白帝、於京城西鑿山、石壁開窟五所、鐫建佛像各一、高者七十尺、次六十尺彫飾偉剖[つくりが丁]、冠於一世」とある五像の一たること疑なく、像は唇厚く、鼻高く、目長く且つ廣く開き、眼球大きく、頤は豐で、耳は甚だ大きい、全體として容貌が晴れやかで明るくまた端正莊重の樣子がある、背後の洞壁に刻まれた草模樣、小石佛の浮彫も典麗である。 -
西部露出佛 (雲崗石窟)
西窟露出大佛は、もとは洞窟の中にあつたのであるが、上部と左壁とが崩れて、其為め右脇侍は風雨に侵されてなくなり、左脇侍のみが殘つて居る、そのなくなつた右脇侍跡邊の裏壁西側に前壁を失つた小窟がある、これが所謂シヤワワンヌ氏の第二十窟である。比較的小さい窟で上下二層にやや大なる龕がある、上部には一體、下部には一對の倚座せる菩薩の像を刻み、顏貌は何れも優秀である其餘は多數の小佛龕を以て、之を飾つてある。 -
西端第五窟 (雲崗石窟)
西窟露出佛より西へ十窟過ぐると、土塀を以て通行が遮斷されて居る、大概の視察者は之より引返すが、それを越江てなほ西方に向へば、佛窟が續いて居る、こゝを普通に西端窟と稱して居る、寫眞は西端窟の東より五窟目、西端塔柱窟より東三番目の窟である。此窟は地上より一間の上にあつて、高さ二間半位で、顏の長い倚座菩薩があり、其他は東西兩壁及び菩薩像の上段には、千佛式の小像が無數に鐫刻され、何れも壞れたものが多い。 -
西窟蓮花天井 (雲崗石窟)
西部第二十窟以西は、塔柱形を有する大洞窟を除く外は、皆小さい洞窟である、シヤワンヌ氏は之れにAよりHに至るまでの番號を附して居るが、無論それよりなほ多數の洞窟がある、寫眞は西部第二十窟に西接した第一洞の天井にある二重の蓮花模樣である、天井は六つに區劃して、中央にその花紋、周圍は飛天の浮彫がしてある、飛天は極めて省略した外廓だけのやうな線である、洞は破壞して東壁なく、西壁には壞れたる佛像が二體ある。 -
居庸の殘壘 (直隷省)
南口から居庸關を經て八達嶺に至るの間、秦漢の昔は半里に一烽火臺、一里に一堡壘、一堡壘には小兵を駐めて防禦に備へたといはれる。現存せるものは元朝時代に修築したものであり、それすら多く壞滅に歸してゐるとは云へ、古色蒼然、峽路を挾んで巖の上に嚴然と聳ゆる殘址は、嘗てありし日の陣形とそこに織り込まれた幾多の史話とを物語る、殘壘を仰ぐ者よ、地上一切の榮華を、永劫の時の流があとかたもなく運び行くを思へ、日暮風に對して古戰場を吊ふの文を誦してもみよ懷うたゝ切なるものがあらう。 -
南口鎭 (直隷省)
方輿紀要に「明初既に元都を定め、洪武二年大將軍徐達石を壘して城となし、以て幽燕の門戸を壯にす、即ち南口城なり」と記す、當時の舊規と覺しき城壁は今も殘つてはゐるが、今日では軍事上よりも寧ろ交通上の要地である、北に太行山脈を負ひ、南に平原を擁し、關內外の出入孔道に當り、居庸關又は明の十三陵を訪ふ人も必ず茲に下りる、京綏線中に於ては張家口に亞ぐ要站である、附近には果實、殊に柿の產出が多い、西直門を距る七十有四里。 -
荊條 (直隷省)
南口の奥から切り出さるゝ荊條(チンテアオ)は人にも擔がれ、驢馬にも積まれて、石ころ道をはる(ばる)と町へ運ばれる、柳の條のやうな曲げやすい枝で、主として筐を造る、荊筐(チンクアヌ)といふのがそれだ、果物などを入れて運ぶには大概これを用ひる、またそれに紙を張つて豚の血を塗ると油などの液體を容れる器にもなる、日本でならば竹籠といふところ、竹のない北支那では竹の代りに荊の條を用ふるのである。 -
沙杓 (直隷省)
塞外附近で出來る燒物に沙杓(シヤシアオ)と稱するものがある、沙を燒いて作つた日本の土瓶に類似のもの、極めて薄く瞬時にして液體を沸騰させるといふので重寳がられる、商人はこれを塞外で得て、八達嶺を超江、居庸の嶮路を通つて北京の町に賣り出すのであるが、非常に壞れ易くて到底籠の中に入れては歩けない為めに、斯く籠の周圍に釣して運んで行く。原價は一錢位だといふが運搬に手數がかゝるので北京では四五錢もするとのことである。 -
居庸關門 (直隷省)
絕坂水運下 群峰雲共高|唐の高達夫入關の詩は一言にして居庸の形勢を盡す、關城はたゞその跡を留むるのみであるが、關門は今もなほ道を阻む。關門の左右は城壁堡壘その翼をなし、溪を亘り峯を超江、蜿蜒として果もなく續く、懸崖刀をもつて削るが如きところ、かつ重疊の瓦壁を築き成し、空を摩する巉巖の方に墮ちなんとする危きにも、なほ栙[へんが火]臺を造り立てたるなど、さすが目を駭かしむるに十分である。 -
居庸關過街塔(一) (直隷省)
居庸關南北二門の中間に譙櫻樣の建築物がある、堅緻榮澤の石材を以て造り、下は關に似て扉なく、半截せる八角形をなして道に誇る、穹洞の幅二丈四尺、深さ四丈九尺八寸、洞道の兩壁各々三丈三尺八寸、高さ高欄の下より地上まで三丈一尺、アーチの幅四尺五寸これが有名な「過街塔」で俗に「塔坐兒」と呼ぶ、學者のいふところに據れば、これは城趾でも關門でもなく、喇嘛敎の道路安全、弘法利生の趣旨から來た「法塔關」といふ莊嚴の具で、昔はこの上に泰安寺と稱する寺院があつたといふ、製作年代は一定しないが、兎も角元代であることに異論はない。 -
居庸關過街塔(二) (直隷省)
洞道の兩口にはその上部に奇怪なる彫刻がある。專門家は印度特有のガルダと説く、その左右には各蛇を帶びた二體の女神が刻まれてゐる。|塔内の兩壁にはその外部に近いところに喇嘛敎の四天王の像が半肉彫に浮んでゐる。これも學者の説に據れば摩利海(西北)摩利淸(東北)摩利紅(東南)摩利受(西南)であるといふ。 -
居庸關過街塔(三) (直隷省)
過街塔內、兩壁各々二體の四天王像の中間には漢文、梵文、西藏文、蒙古文、回紇文、及女真文を以て陀羅尼を刻み、その上部に東西各五體の喇嘛佛とその他大小無數の佛像、天井には別に各々形の異つた五箇の曼陀羅を刻する、これ等の彫刻は何れも元代のもので佛敎傳來後、經文佛像等を石に刻むことが流行した頃の遺風であるといふ、宋代木版發明の後、漸次この風が衰へたので、この居庸關のそれは支那に於ける最後の佛像經文の刻石として、元代美術の代表たると共に、支那美術史に重要な地位を占めるものである。 -
彈琴峽 (直隷省)
彈琴峽はゆかしき名である、むかし、峽水石罅に流れて、その聲恰も琴を彈ずるが如き微妙な響を發してゐた為めにこの名を得たと傳へられてゐる、古から文人墨客の間に喧しくいひはやされてゐたが、今は土砂が石の隙間を封じてその琴聲も聞かれない、峽上斷崖の間に古びた關帝廟が一段の雅趣を添へる、このあたり、「彈琴峽」「五貴頭」又は「雄鎭蒸關」等の大字が巖に刻まれてある、汽車はこの側を通つて五貴燧道の暗に入る。 -
狼煙墩 (直隷省南口)
昔、支那の王樣が、お氣に入りの妃の笑顏がみたいばかりに、事もないのに栙(へんは火)臺に火を擧げさせた、栙(へんは火)火が擧がるのは蠻族が攻め込だとか、謀叛をした者があるとか、所謂有事の際にきまつてゐるのだ、で諸侯は、すはとばかり兵を率ゐて都に集つて來た、と、何事ぞ、王樣は至極涼しい顏をして「お前達は何しに來たのか」との御意。面喰つた諸侯の顏の可笑さに妃は始めて破顏、王樣も始めて御滿悅ー浪漫的な連想を呼び起す栙(へんは火)臺は、南口から長城へかけて到所に殘つてゐる、圖は北京の方を望んで立つ南口の栙(へんは火)臺、麓は小さな廟、その前には淸冽な谷水がはしつてゐる。 -
城根の歸駱
崇文宣武両門の外に佇んでゐると、夏の日以外殆んど毎日駱駝の群が石炭や石灰や其他いろんな貨物を運んで来るのをみるだらう、遠きは長城の外から、多きは数十の群を連ねて遥々やつて来るのもある、大きな団体、それでゐて優し味たつぷりの顔、首の鈴を鳴らしながら悠々と歩いては黔ずんだ城門を徂来する、それは何と云つても大国情調である。 -
捻線工
糸に撚りをかけてゐるところ、右の二人の相手方は各数十間も右の方に、左の一人の相手方はまた数十間も左の方に居る、かくして撚りのかゝつた糸はぽつり(ぽつり)とわくに捲きつけれて行く。|北京では通行の妨にならぬやうに大抵城壁に添うた官有の空地でやつてゐる。|春の日永に相応しいと云はうか、悠長な大国民に相応しいと云はうか? -
喇嘛
喇嘛教は仏教の一派、元の世祖が吐蕃懐柔の必要から之を尊信したことは有名な話である、明代に宗喀巴宗教改革を唱へて新に黄教を起し、達頼、班禅之を継いで蒙古及伊犁に弘めた、清朝も亦政策上太祖以来尊信した、北京の喇嘛廟は雍正帝がその邸を喜捨せられたものである、図は廟前に立てる喇嘛、服は大典、朝賀又は活仏進見の際にのみ用ふる大礼服だといふ。 -
煙草栽培
北京郊外に於ける種菸即ち煙草栽培、明代呂宗人によつて伝へられたものだと云ふことであるが、今日では支那到る所栽培せられざるはない、北京附近にも沢山出る。易州、昌平、富春なんかは殊に昔から著名な産地である。 -
天文臺
農業民族なる有夏族の天子は民に時を授くるを古来その最も重き職務の一とせられてあつた、従て天文歴数は支那に於てもかなりの進歩を示したが、尚西洋新学術に対抗すべくもなかつたので、明末清初朝廷は基督教士を挙げてその改革を期した、図は康毅帝に用ひられて欽天監正(天文台長)となつた白耳義人南懐仁が作つた機械の一つ、朝陽門と東南角楼との間城壁の上なる観象台にある。 -
陶然亭
清の康煕年間、時の大官江藻が遼金時代の慈悲菴の跡に建てたるに創まる、その名は白楽天の詩句「更待菊黄家醸熟、与君一酔一陶然」に採るといふ、杭世駿の詩にいふ。|渓風吹面蹙晴瀾 葦路蕭々鴨満灘|六月陶然亭子上 葛衣先借早秋寒|所は右安門内、亭は高丘に立つて黒窰台と相対する、北京に於ける最も古雅閑静なる遊亭として古来士君子の間に喧伝せられてゐる。 -
臥佛寺
北京を距る二十五里、西山の一部緑の並木に挟まれた石だゝみのだら(だら)坂を登つて行くと、半腹の林の中に建てられたもの寂びた静かな寺だ、山門を入ると西蔵から移したといふ婆羅双樹の古木が庭を暗く蔽つてゐる、創建は唐代と伝へる、今の名は十方普覚寺清の世宗雍正帝の勅額が残つてゐる、臥仏は明代の銅製、初め貞観年間に作られた旃檀香木の臥仏がおはしたといふが今はない。 -
玉泉山
玉泉山と云へばすぐに天下第一泉と聯想される、それは乾隆の命名、名に背かぬ清冽な水は今も滾滾と湧いて流れて水田に潅ぎ昆明の湖を湛へ更に北京の市を潤ほしてゐる。|金代以来歴朝の遊幸地、清朝では静明園と呼んだ、林間には美しい離宮が残つてゐる、池には彩られた遊船が朽ちてゐる。|玉峯塔上に立つて眸を放てば、西山の寺、北京の家、悉く指呼の間に在る。 -
香山
香山は万寿山玉泉山と共に西山三山と称せられ、殊に雪に奇、西山晴雪は御製八景の一に居る。|香山寺は遼の古刹、金に大永安寺又の名は甘露寺、かつては山に倚る五層楼上の眺望西山第一と称せられて代々の離宮となり、一代の豪華児乾隆更に大修築を加へて結構の美を極めたといふが、清室傾き殿宇また荒れて七層の宝塔のみ寂しく山上に立つてゐる。 -
碧雲寺
西山八大処の一、元の耶律楚材の裔がその宅を喜捨したるに創まり、明清の重修を経たといふ大きな立派な寺だ、殊に形勝の地に倚り林に囲まれてゐるために、若葉の頃紅葉の頃、朝日夕日に映発して一段の趣を添へる、寺を圧するが如く聳江立つ塔は、乾隆年間西蔵僧の齎せる須弥山のそれに仿つて造れる金剛宝座、白玲瓏たる大理石の巨材を積んで荘厳を極むる。 -
雲泉寺 (張家口)
徹頭徹尾蒙古貿易の街、殊に土着民の少い土地柄とて所謂名勝とては殆んどない、唯市の西北十里の山腹に障壁を以て圍まれたる堂宇が、溪谷に連る張家口の街を俯瞰してゐるのを望見するであらう。雲泉寺である。一寸京西香山を思はせる。境内に娘々廟あり、兒なき者祈願すれば兒を得ると云ふ。賜兒山の別名ある所以である。(一九二五-一一、撮影) -
水洞氷洞 (張家口)
雲泉寺の山門を入れば崖壁に「寨外靈湫」の四大字を刻して二つの洞窟がある。一は水洞、一は氷洞、深さ丈餘、淸水滴々として四時絕江ず、水洞の水は沍寒猶凍らず、氷洞には冬夏共に氷を見る。雲泉寺の名物たるとゝもに張家口名所の随一である(一九二五-一一、撮影) -
大境門 (張家口)
張家口は蒙古への玄關口である。張家口の蒙古への玄關口は大境門である。大境門は張家口の玄關口であると共に蒙古と境する長城に穿たれたる門である。此一箇の小門が猶且つ大の字を冒すも敢て不當とすべきでない。見よ口外より集來する車馬の雜鬧は大境門の内外に擁擠して身動きもならぬ殷盛を呈しつつある。稅吏は門外に詰所を設けて門に入らむとする車馬に對して徵捐してゐる。(一九二五-一一、撮影) -
馬市 (張家口)
秋の暮から冬の初めにかけて一しきり賑ふ張家口の街に一際目立つ取引は大境門外の家畜市である。大境門外の廣い磧は朝黎き六時頃より牛馬羊の群を以て賑はされる。家畜とは云へ野牧ひその儘の姿である。馬は長いたてがみを靡かせ房々しい尾は地に引いて蹄鐵打たぬ蹄を戞々鳴らしつゝ高く嘶く。 -
羊牧ひと羊買ひ (張家口)
涼秋八月、澄み切つた空と、滿目の黃草、地平線上一抹の雲の如く白く群るものは牧羊の群である。秋風に肥ゆるものは馬のみでない、可憐な羊達は丸々肥つたからだを細い四肢に載せて高原に草を食み溪流に水飲み憂なき旅を續けて市に出て來ると、そこには羊買ひの商人が待ち受けてゐる。羊牧ひと羊買は手を握り合つた、彼等の袖の中の取引が無邪氣な羊達の運命の總てを支配する。 -
蒙古人と駱駝 (張家口)
水草を逐ふて一夏を過ごした蒙古人の群は秋風に送られて駱駝の背に搖られながら張家口の市へ訪れ來る。駱駄こそ沙漠の船である。あの涯しなき沙の海をユラリ(ユラリ)と倦むことを知らず、永旅を續けて來た駱駝達は些かの疲れ顏も見せず、誇らしさも現はさぬ。曠野の子噠咀兒にとつて相應はしき且つ好ましき伴侶である。 -
交易所 (張家口)
大境門を出でゝ軒並の將に盡きんとするところ、磧を前にしてさゝやかなる支那家屋がある。交易所とて蒙古人が雜貨を得んとて支那人と物々交換を行ふところである。此世からひとり取殘されたやうな原始の取引が此山峽の一軒家で行はれる。駱駄の背に跨つて、はる(ばる)張家口の市に出て來る彼等にとつて此交易所を訪ふことは永い間の樂しみであつたに違ない。(一九二五-一一、撮影) -
羊毛の集積 (張家口)
張家口に於ける取引の大宗は何と云つても獸皮毛である。際限を知らぬ西北一帶の大牧場の唯一の市場は張家口である。口貨と云へば張家口に集中される溯北の貨物の總稱であるが、就中口毛、口皮の名は支那全土はおろか遠く海外にまで知られてゐる程此の地の皮毛取引は盛大である。寫眞は蒙古から運ばれ來つた儘の羊毛である。 -
天然曹達 (張家口)
朔北の曠原に湛へられたる湖沼或は河流のほとりには往々にして雜草すら生ふるなき不毛の低窪地が少くない。所謂滷地である。雨期になるとそれ等湖沼或は河流の水漲溢して附近の低窪地を浸すや、其地中の曹達は溶解して浮出し水の涸るゝともに數寸の生石灰、狀の層を地表に殘すであらう。是れ天然曹達である。察哈爾正藍旗地方にて斯くて採取されたる天然曹達は牛車に積まれて遙々張家口に送られて、精製され洗濯に用ひられるは勿論支那人の常食たる饅頭の膨脹材料として少からぬ需要を有する。 -
村人と驢馬
「南船北馬」の語あるがまこと北支那の大陸の旅には馬車によるか馬背によるかより外ない。わけても驢馬と云ふ小さい奴は性多少狷介であるが柄に似ぬ力と辛棒強さを持つて山嶽崎嶇の道を貨物の運搬に、旅行者の道中に、重寳がられる。小さい驢馬と大きな馬夫、チヨコナンと驢の背に腰かけた隣り村の内儀さん、北支那の山村に見掛ける面白い對照である。 -
ガーデン、ブリヂ (上海)
滄桑の變といふ語は餘りにも古臭くこそあれ、人口百五十萬、支那貿易の一半を握る今日の大上海も、僅か一世紀前までは單なる黃浦江上の沮洳の場、蘆葦の叢に過ぎなかつたことを想ふならば、誰しもさうした氣持を禁じ得ないであらう。而してこの急速なる發達に就ては、黃浦江の水運が與つて最も力がある。汽船によつて江を遡る者は、未だ上海を見ずしてこの間の消息と上海の繁榮とを同時に窺ひ知るであらう。(印畫の複製を嚴禁す) -
石橋
浙江は水の国、従つて舟の国であり、橋の国である。胡蘇三千六百橋、呉門三百九十橋、江南の風物から決して橋は見落されてはならぬ。そは所謂太鼓橋である。下は大穹窿を描いて帆檣の通行に便じたにも拘らず、上は右階をなして固より車の通ずべくもないその一事によつても、交通が水路を主とし陸は僅かに轎子を行かしめて足れりとするを知ることが出来る。張継の詩によつて有名な楓橋を始として南方の橋は大抵この形式である。(印画の複製を厳禁す) -
水牛
春である。朝である。村の草屋に、小路行く人に、流るともなき水に、而して水に立つ水牛に、暖き細き雨は煙る。北方の駱駝に対して水牛を挙げることは、その図体の大さに於て、その悠々たる歩調に於て、また割合に愛すべき顔つきに於て、余り妥当を欠いだ見方ではなからう。彼が乾燥した埃の多い湖北の風物に愈々寂し味を加ふる如く、此はまた南方水郷の情趣をして更に豊かならしめる一景物であらねばならぬ。(印画の複製を厳禁す) -
西湖 (その一)
西湖の嵐影湖光は古來韻士墨客の詠歎已まざるところ、昔マルコポーロも亦その宮苑の莊麗風光の明媚正に世界に冠たるべしと稱したといふ。春光に淡く光れる湖の彼方に霞むは葛嶺、その右端に立てるは保俶塔、葛嶺の前に低きは孤山、林處士隱棲の地、湖心に浮ぶ島は三潭印月に名を得、湖を貫く長堤の柳に煙るは東坡の築くところ、蘇堤春曉は十景の首に居る。堤に劃らるゝ湖の奥なるは岳湖その窮まる所に岳飛の廟は在る。(印畫の複製を嚴禁す) -
西湖 (そのニ)
人若し湖面鏡の如く山翠參差たる天成の風景に、堤を築き橋を架し塔を起し樓を畫く地設の形勝、更に加ふるに歷史に物語に傳へらるゝ墓ふべく讃ふべく愛すべく憐れむべき幾多の事蹟明媚と、幽雅と愉悅と傷心と兩つながら兼ね備はる西湖の眞趣を得んとするならば、身親しくこゝを訪らうより外に方途はないが試みに圖に對し、堤上驢に騎して勝を探り、湖上舫を放つて光を弄するの我を想へ、また詩趣自ら涌然たるものがあらう。(印畫の複製を嚴禁す) -
民船
江南は水郷である。丸き屋根に船を蔽うてそこに生れそこに眠る、そこに育ちそこに嫁ぐ。それも人の生活である。|大運河を始として大小無数の運河が村から町へ、町から村へと野を貫く、南船北馬、江南の交通は全く船によつて行はれる。春ならば楊柳堤を払ふて桃李吹雪する中を、秋ならば芦狄水を狭めて雁の声高き下を、悠々たる櫓声に明けてまた暮れる。それが江南の旅である。(印画の複製を厳禁す) -
酒を讃ふ (紹興)
江南の春は紹興の酒に盡き紹興の酒はやがて江南の春を領するとも云はうか。錫の壺から滾々と流るゝ落ちついた琥珀の色、爽かに溶け行く味と香、幾歳十幾歳を大地の底深く秘めて飽く迄も淸み且つ凝つた色と味と香、そは豐潤な、しかし何となく古雅な江南の春の情趣を渾然として融合し調和してゐる。|紹興の町酒に興り紹興の民酒に賑ふ。江南古來美酒の產地、殊に紹興は日本の灘である酒瓶を燒く老人のとろけるやうな微笑をみよ。(印畫の複製を嚴禁す) -
南京城壁
楚の金陵、秦の秣陵、呉の建業、六朝の建康、唐の江寧はみなこゝ、これを南京といふは、永楽帝が明の祚を奪つて北京順天府に対し南京応天府を置いたに始まる。近代、西力の東漸以後、清朝から民国にかけて、幾多史上に重大の意義を有つ事件がこゝを中心にして渦巻いたことは人々の知悉するところである、遊ぶ度支那第一と称するこの城壁に立ち眼を昿豁雄偉なる野色に開くならば、蒼茫万古の想は転じて何となき謀叛心の胸に涌くを覚ゆるであらう。(印画の複製を厳禁す) -
秦淮 (南京)
秦淮は始皇が地を鑿して淮水を導きたるより起りたる名、南京城を貫いて東西に流れる。晚唐の詩人杜牧は歌うた「煙は寒水を籠め月は沙を籠む、夜秦淮に泊して酒家に近し、商女は知らず亡國の恨、江を隔てゝ猶唱ふ後庭花」と。古來絃歌風流の地、畫舫美酒と美姫とを載せて一日の行樂に百年の愛愁を洗ひしところ。靑樓も酒家も何となく寂れて固より昔日の繁榮を見る由もないが、桃葉渡頭畫舫を繫いで今も猶騷客をしてありし日を偲ばしむる。(印畫の複製を嚴禁す) -
杭州の轎子
杭州は浙江の主府、古く落付いた町、それでゐて何処となく明るくまた何となく活気のある町、そは浙江人の気質の然らしめるものと考へられる。図は杭州城内の轎子の群。市内は俥も通る併し気分にぴつたりと適することから云へば矢張り轎子である。殊に西湖を囲む山めぐり寺めぐりにはどうしても轎子によらねばならぬ。薇もゆる春、轎上一日の遊楽は終生忘れ難き思出である。(印画の複製を厳禁す) -
明孝陵 (その一)
蒙古の遊牧民族より興つて歐亞に跨る未曾有の大版圖を建設しさしもに強大を誇つてゐた元が、財政の紊亂と僧徒の跋扈とにその衰徵を示し始めた頃、一方漢人の敵愾心は漸く抑ふるべからざるものとなり、至元三年廣州の反を初として群雄は所在に蜂起した。大亂三十年、朱元璋は之を平定して江寧に帝位に即き、國を明と號した。時に西曆千三百六十八年。朱元璋は即ち太祖洪武皇帝、南京城外鍾山の麓に立てる孝陵はその瑩域である。 -
明孝陵 (その二)
太祖は海內一統の後、租税を輕くし刑罰を嚴にし敎化を尚び科舉を明かにし吏治を重んじ宦官を抑へ主として元末の諸弊を改むると共に、封建を創め功臣を除いて長久の計を定めた。孝陵の土未だ乾かざるに先つて燕王容易に簒奪を逞しくしやうなどとは如何にして彼が想つたらう。|近世長髮賊の亂は殿樓を焚き盡した。基址斷續、墜瓦狼藉、たゞ石人と石獸とのみ半里の間に並列して空しく陵墓を守つてゐる。 -
紹興の朝
あたりはしつとりと霞篭めて、睡りても眠りてもねむき春の、見たらぬ夢の甘きに耽つて人々のまだ起きもやらぬひまを、白壁の影映す水の温きに舟は音もなくすべつて行く。|紹興は古の越の国、会稽の地、その府城は勾践を助けて覇業を成した范蠡の築くに創まるといふ。今人口二十万、富裕な都会、町を貫いて水路蜘蛛の巣の如く、此に至るに何れよりするも運河によらねばならぬ水の都、人は呼んで江南のヴエニスといふ。 -
長江歸帆 (長江帰帆)
李白|故人西のかた黄鶴楼を辞して|煙花三月楊州に下る|孤帆遠影碧空に尽きたり|たゞ見る長江の天際に流るるを|孟浩然|荊呉相接して水を郷となす|君去つて春江正に淼茫|日暮孤舟何れの処にか泊する|天涯一望人の腸を断つ -
虎邱 (蘇州)
蘇州は古の姑蘇、春秋の吳の國都。吳王闔閭が越を討つて斃れ、薪に臥して夫差その仇を報じ、膽を嘗めて勾踐また會稽の恥を雪ぐ―そは世に傳へらるゝ物語である。|虎邱は闔閭の遺骸を葬るところ、古來名高き史蹟とは云へ、星移り物換る幾度の秋、寺は傾き家は荒れて、吳王の寳劍を埋めたと傳ふる池も涸れた。顏眞卿の筆に成るといふ虎丘劍池の大字のみ空しく斷草の離々たる石垣に殘つてゐる。 -
寒山寺 (蘇州)
月落ち鳥啼いて霜天に滿つ|江楓の漁火愁眠に對す|胡蘇城外寒山寺|夜半の鐘聲客船に到る|唐詩選中でもこの詩位人口に膾炙したのはあるまい。從つて蘇州を訪ふ日本人は必ず寒山寺に對しさま(ざま)の期待を繫け空想を描いて出かけて行く。が行つたらがつかりせざるを得ぬ。寺は古い歷史を有つてゐるとはいふが近年の重修俗惡を極めてゐるからである。 -
楓橋夜泊詩碑
張継の楓橋夜泊の詩、古くは宋代の人の筆に成る碑があつたといふが既に湮滅して影も形もない。次に出来た明の文徴明の筆に成るものは火災に罹つて壊れた。それが久しく草の中に埋まれてゐたのを我が明治四十四年重建の際継ぎ合せて壁の中に塗り込んだのが残つてゐる。現在の碑は清末の大儒曲園愈樾が書いた。裏に「江楓漁火」は「江村漁火」の方が正しいと思はれる、今姑らく本然に従ふといふやうな意味が刻まれてある。 -
女子師範
寧波は西曆千八百六十一年の南京條約によつて開かれた港、甬江の岸に在つて古代から海防上又は交通上に樞要な地位を占めてゐた支那の文化文物を求めて遙々海を渡つた日本の遣唐使や留學僧は皆こゝから上陸したものだといふ。|圖は寧波女子師範學校の敎室、設備その他は殆んど日本の學校と同じで厚い歐文の敎科書を讀んでゐる。 -
方孝孺の墓 (南京)
方孝儒は明初の碩學であり政治家であり烈士である。燕王に封ぜられて北平に居り守邊の任に當つて隱然たる勢力を有つてゐた太祖の弟棣、即ち後の成祖永樂帝が君側の姦を攘ふを名として靖難の軍を起し終に京師を陷れて明祚を簒つた時、彼は召されて登極の詔を書かされた、彼は泣いて順逆を論じて從はぬ強ひらるゝに及んで蕪賊國を簒ふと書いて殺された。一族數百之に坐し門下八百之に殉じた。墓は南門外雨花臺の山腹にある。 -
下關碼頭 (南京)
南京を訪ふ者、上海より陸路滬寧鐵路によれば急行六時間にして下關の東對岸に達する下關は南京市街の西北端、此より城内へは別に汽車が通じてゐる。津浦線によれば西對岸浦口に達し江を渡つて下關碼頭に上り、上海より汽船による者、漢口方面より長江を下る者亦何れもこゝに上陸する。されば、下關は廢殘の古都南京としては兎も角、人口五十萬貿易額二億を數ふる生ける南京に於てはその表玄關として最も重要な地位を占むる。