亜細亜大観/06
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朱塗の山門 (玉函山)
石の多い山腹に石階の路を逢ふて行くと。峠に至つて眼界頓に展け、山々が夫々の姿して相連る雄大な景趣と共に、行手の山腹に古い由緒を物語る朱塗りの山門が嚴然と建つ、曲りくねつた參詣道がこの山門を潜つて遙かに消えてゐる。|山阻の路は嶮しく仰げば山頂は頭上に迫る人々はこの喜に先づほつと一息するのだ。 -
(一九二九、四)(印畫の複製を禁ず)
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大明の興りし跡 (靑州)
今は只山東鐵道沿線の一つの驛でしかない町―靑州の名は、思ひ浮べる人も少いであらう。然し靑州を切實に蘇らせる第一の物語は、それが過ぎし昔大明の興りし故城なりしとの一事である。|其の城跡も今は荒れに荒れて、土城のありしあたり、只鎭西門と名づくるこの廢廓のみが淋しく殘るのも憐である。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
ありありと仰ぐ范文公 (靑州)
今一つの世人の心に靑州の名を甦らしむべき思ひ出は、宋朝の名臣范文公の物語である|文公嘗てこの地に知たり、其の墓今尚靑州府城の西門外に在り、かしこみて正殿に詣づれば、王安石と新法の是否を爭ふて勝たず、逐に貶せられたとは言へ、溫厚達德の君子人范文公の面目は、今も生けるが如く嚴然と輝いてゐるのだ。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
老柏は小暗し (靑州)
西門を出でゝ幾歩ならず、老柏の鬱蒼として茂る一構は、君子の祠に相應しい閑寂境范文公廟である。この廟は俗に三賢祠とも稱へられ、文公の外、歐陽修、富弼の二賢をも併せ祀る。|宋朝三名臣の祠は、薄暗き老柏に圍まれ、星霜と時勢の外に、今は何時までも靜に眠つてゐるのだ。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
范文公の名に殘る泉 (靑州)
范文公祠の境內、由緣ありげの黃瓦の亭、世に范井と呼ばれるのはこの泉である。|門柱にも亭內の扁額にも、悉く讃へられたその德が、缺けた茶碗に老番僧が掬んで出す范井の水と云ふ一杯の粗茶にも、何となくしみ(じみ)と味はれるのも靑州らしい早春だ。|井の側に無造作に投げ出された綱、どうやら春も遠くないやうだ。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
北門の嚴しさ (靑州)
靑州は古い(古い)歷史を背景とする町だ。|歷史の古さは、禹貢の所謂靑州もこの町だ。周の齊國、秦の齊郡もこの町だ。古來山東の中心としての使命を負はされて來たのはこの古靑州だつたのだ。|幾千年は一瞬に暗轉、現實の府城の石壁は不必要に嚴めしく聳え、この田舎町には立派過ぎる石橋と共に由緒だけを語る。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
法慶寺の午下り (靑州)
寺を訪れた頃は、春と言ふのにはまだ早過ぎる二月の末だつた。落ち葉一つなく北風に吹きさらされた巨刹法慶寺の門前にカメラを据えると、物賣と小車夫とが、先づびつくりして逃げ出した。|この寺は、その古さを語る老柏に埋れて、堂々の建築美を誇る靑州の名刹、如何にも禪寺らしい閑居であつた。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
城にも似た雲門山 (靑州)
城南二十五支里の雲門山は、靑州には過ぎた山である。|幾千年の風と雨とが、齎し且積み固めた砂丘のやうな一塊の山には、打ち見た所奇も美もないけれども、石階の山道を辿つて、一歩は一歩と展け行く下界千里の眺望と、山頂に迫る壯嚴の朱殿とを仰げば、誰しもかうした怪奇な感を抱くに違ひない。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
石門の怪 (靑州)
巨巖を鑿つて明けられた山腹の石門は、奇勝雲門山の入口に相應しい怪奇さである。この門の所緣を語る文字の多さも、この山寺を訪ふ人の忘れられぬ印象ではあるが、それにも増して心を動かすものは、不整形の石門の穴を通じて見た下界の眺望である。墓場の穴から明るい世界を覗く程の不氣味さと美しさと、雲門山はどこまでもグロテスクな山だ。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
駝山の絕頂 (靑州)
おきまりの碑石と老柏と寺室と。|駝山山頂の寺廟は、今や訪ふ人も稀なありふれた山寺に過ぎない。然しこの寺が慈惠大師の駐錫地と聞くならば、私達は言ひ知れぬなつかしさが湧き起つて來る。|寺僧が片手間仕事の百姓の名殘りが、破れた屋根の下から頭を出して、慈惠大師の面影を更に濃くするのも思へば不思議な緣だ。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
管鮑の墓じるし (臨淄)
管仲と鮑叔との友情の美しさは、餘りにも語り盡された物語である。然しその物語の古さが、ともすれば聞く人の心を閉して、そのことの眞實性をさへ疑はしめて來た。|靑州に程近き臨淄の城南二十華里、牛山の北麓の野邊に形ばかりに殘された二つの墓、千數百年を隔てゝ今尚相連つて離れざる石の冷たさ、人々は必ず何かを考へさせられる。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
岱山坊 (泰山)
坊に題して岱宗と云ふ。岱宗とは泰山なり書に『歳の二月東に巡視して岱宗に至る』とあるより出づ。泰安城を北に去る約三町、岱陽の盤道に跨りたる白石の坊、登岱の第一門これより山頂に至る石磴六千七百餘級約二十餘華里、英雄秦の始皇帝又この陽道より登り巔に石を立てゝ陰道より下る。坊を入り道傍柏樹多く道稍急、坊は明の慶隆年間の創建、圮して後雍正八年重建せしものである。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
仙雲樓 (泰山)
此邊道傍柏樹多く、又水石の間より潺湲の音を聞き、風景掬す可く、轎に坐して登るところ正に是れ羽化登仙の狀。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
十八盤の遙望 (泰山)
對松山に近き盤道からは、遙かに南天門を望むことが出來る。その南天門より梯子の如く下つた急峻な石階を、十八盤路と名ける。十八盤は東飛龍巖西翔鳳嶺の間にあつて、其躋陟の難山中第一と云はる。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
五大夫松 (泰山)
秦の始皇帝位に即きて三年、齊魯の儒生博士七十人を從へ、封禪を行はんため登岱す、中阪、暴風俄に至り、松樹の下に休ふ。因つて其松を封じて五大夫とした。五大夫は秦爵の第九級、功あるを稱する所以、春秋ここに二千有餘年、當時の松樹なほ茲に健在なりや否や。五松亭と云ふ一亭あり、茶を煎て登岱の客を待つ。亭前に松樹あり三棵。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
對松山 (泰山)
東西の兩峰松樹多く、一に對松山とも稱せられる。松は石に厄せられて大なる能はず、何れも虬龍の狀を為し、淸の高宗の詩に、岱嶽最佳處、對松眞絕奇とあり、泰山に於ける奇勝の一として知られる。淸の嘉慶年間、高宗帝の命により、盤道に沿ふて約二萬二千本の松を移植し、更に風緻を増さうとしたが、旱魃の為め、何れも枯死した。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
南天門 (泰山)
丹塗[にぬり]の門樓、一に三天樓とも云ふ、急峻梯子の如き磴道快十八盤路の盡くる所にあつて岱頂の入口を為す、門に聯あり、曰く|門闢九宵仰步三天勝蹟(門ハ九宵ニ闢キ仰ギテ三天ノ勝蹟ヲ步ス)|階崇百級俯臨千章奇觀(階ハ百級ヨリ崇ク俯シテ千章ノ奇觀ニ臨ム)|と、門上の閣は摩空と稱せられ、白衣觀音の像を安置す。閣外の繚垣によつて俯觀すれば涼風足下に生じ、呼吸天に通ずるの感がある|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
碧霞之君廟 (泰山)
俗に泰山娘々[タイシヤンニヤン(ニヤン)]と稱せられ、支那到る所の山上に分祀せられ、民間に深き信仰を持てる女神を祀る。一に東嶽大帝の女とせられ、宋の眞宗泰山に封じ、手を山上の池水に滌ぎ、水中石人の玉女を得、祠を建て天仙玉女碧霞元君に封ずと傳ふ、廟は正殿五間東西兩寳庫及び眼光娘々送生娘々を祀れる東西兩廡香亭御碑亭鐘鼓樓其他より成り、一幅仙宮の畫圖たるの觀がある。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
玉皇頂 (泰山)
泰山の絕頂、俗に玉皇頂と云ひ、舊と太平頂或は天柱峯と名けらる。道敎萬神の主宰者たる玉皇大帝を祀る玉帝觀あり、もと太淸宮と稱す。明の成化十九年、憲宗の命により、寵愛せる一宦官の主宰のもとに建てらる。門に勅修玉皇頂とあるは、明の隆慶六年、南昌の萬恭帝命を奉じて重修したるによる。廟の東に迎旭亭あり、山霧を辟いて昇る旭日の壯嚴なるに名を得。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
古登封臺と絕頂石 (泰山)
玉皇閣の庭前は古の帝王封禪のところと云ふ。庭の中央に數石あり、高さ約三尺、石欄を以て圍む。泰山絕頂石と云ふ。帝王登岱して天を祭るに神靈に近づくを冀ふより、岱頂に土石を積み、壇を作る。之を封と云ふ。此石は封儀に用ひてものと傳へられ、明の隆慶六年兵部侍郎萬恭が發掘したものである、絕頂石の側に石あり、碣して古登封臺とある。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
經石峪 (泰山)
水廉崖の下、百八十坪ばかりの岩に斗大の字を以て金剛經を刻す。筆力遒古、署名年代なし。然し乍ら、蕭協中が泰山小史に『傳へて云ふ、王右軍の書』とあり、聶劍光が泰山道里記には『按ずるに北齊武平の時、梁父令王子椿內典を好み、嘗て徂徠に於て石經二を刻す、倶に隸書、字跡古勁、此と一手に出づるが如し、則ち是の經或は亦子椿の書か』とあり、王羲之の書なること今や定論となる。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
無字碑 (泰山)
登封臺下に在り。一に石表と云ふ。高さ一丈五尺五寸、南北面寬さ三尺六寸、東西の側厚さ二尺六寸、碑、上は下より微[や]や狹く、頂は幢蓋に似、跌は土に埋もる。四面無字、秦始皇或は二世皇帝若くは漢の武帝の立てしもの、碑下に玉檢金函の屬ありと。何れも根據のない説である。鄒德溥の無字碑に曰ふ、絕巘植空碑(絕巘空碑ヲ植エ)、古人如有意(古人意有ルガ如シ)、由來最上乘 原不立文字(原ト文字ヲ立テズ)|(碑面にある字は國民黨の宣傳文)|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
唐玄宗泰山紀銘 (泰山)
岱頂東嶽廟の後に在る一峯を大觀峯、一に彌高巖とも云ふ。唐の玄宗帝が開元十四年登岱して封禮を行つた時、唐朝の功德を頌する為め、高さ二丈九尺廣さ一丈六尺の絕壁を削つて、紀泰山銘を刻す。額の高さ三尺九寸、廣さ四尺、銘字徑五寸、額字徑一尺九寸、全文一千四百餘字、隸書筆力雄渾、泰山金石中の雄なるもの、崖の西に康熙乾隆二帝の題詠がある。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
愛身崖 (泰山)
山頂日觀峯の南に在り、千仭の絕壁に臨む。もと捨身崖と云ひ、わが日光の華嚴に於けるが如く、屢々人を暗き死に誘惑するより其名を得た。明の巡撫何起鳴、檄を奉じて嶽頂の税を監し、未だ一箇月ならず、身を此に舍つる者三人を聞く。慘惻自ら安ぜず、嘉靖二十三年垣を築いて其觀道を阻み、今の名に改む。垣は紅色、長さ三百尺、高さ十五尺、林之濬の圍牆記略あつて其事を紀す。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
拓本 (泰山)
中天門から雪花橋(或は雲步橋とも云ふ)に至る間、道平坦、行路快活を覺え、此間を快活三里と云ひ、大小無數の刻石がある。これは雲步橋下の刻石、石摺屋が足場をかけて盛に石を拓して居る。拓石は泰安の者なれば小孩でも得意とする所、一日五角位にて雇ふことを得れど、岱廟內の拓本店には大概拓されて賣つてゐる。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
轎 (泰山)
西洋人は山椅子[マウンテン、チ江アー]と呼ぶ。轎夫は多く當地に於ける屈強なる回敎徒である。山路を行くこと平地の如く、俗に爬山虎と云ふ。上りは六時間、下りは二時間、彼等は距離を難易によつて量り、上り四十五里、下り十五里と稱す。轎は往復中國人なれば普通二元、外國人に對しては普通その倍額を要求し、更に酒手をねだることあり。かゝる不快を忍ぶ能はざれば健脚を驅つて登るに限る。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
岱廟峻極殿 (泰安)
岱廟は泰安城內西北隅に在る。周三華里高さ三丈餘の雉堞を繞らし、南に正陽門左右兩掖及び仰高、見大(以上立門)東に東華(靑陽門とも云ふ)西に西華(素景門とも云ふ)北に後宰(又魯膽門とも云ふ)共に八門を設け、一に宮禁の制の如し。廟の中央に巍然たる大殿あり。竣極殿と稱し、泰山府君東嶽大帝を祀る。廟は唐に創まり、宋金元に擴張し、康熙に增修して壯嚴廻かに加はり雍正重修し、又嘉慶十九年興修面目一新した。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
岱廟の石幢 (泰安)
岱廟內に在り、制甚だ古く、八稜ともに璺剝[ふんはく]して字無く、跗は礎の如く、相重なること三、蓋は二重、幢は大いさ車輪の如し。高さ二丈、跗は其弱半を得、年代不詳、俗に又秦の始皇によつて立てられた無字碑とも稱せられるが、其信ずるに足らざるは言ふ迄もなく中外學者の説に據れば、碑に非ずして佛敎特有の石幢なりと云ふに一致す。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
環詠亭の秦碑 (泰安)
四方の壁に晋の陸機王羲士魏の重子其他歷代の詩刻、韓愈范仲菴歐陽修等の手蹟が嵌められてある。煉瓦の一小屋に龕せられたのは秦碑の殘缺、始皇泰山に封禪し、功德を頌する碑を立て、二世皇帝又傍に詔書を刻す。共に其書は李斯の筆と傳ふ。この殘碑始め山頂に在り、後碧霞祠に移し、建隆五年火災に散佚し、今僅かに其二片をここに存する。蓋し山東に於ける最古のもの。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
漢柏 (泰安)
岱廟炳靈宮の前に在る。相傳へて曰ふ。漢の武帝の植えしものと。舊記に『樹身紐結上聳して虬龍の蟠旋するが若く、蒼古葱鬱名狀す可き莫し』とあり。又傳へて云ふ西漢の末流賊赤眉斧を加へて之を斫る。樹皮より血を吐き、赤眉恐れて止む。斧創今なほ認め得と。此邊は宋學の源頭を為せし、孫明復及び胡瑗講學の所、その舊館は後、廟に併せらる。柏の側に淸の高宗の漢柏圖詩の碑がある。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
泰安驛より泰山を望む (山東省)
山東の省城濟南より津浦線にて南下する四十五哩、泰安驛の東北に聳ゆること海抜五千四百尺、河南以東沃野千里、忽焉として此に此の山を特起せしむ。南に湯々[しやう(しやう)]たる汶水を控へ、西に遠く天上より流れ來る黃河を望む。詩に所謂巖々たる山、支山縱橫に四出し、山東の形勝を萃め、秦皇漢武の封禪、孫復胡瑗の學術、山は高さより寧ろ歷史的に名があり、其龍脈海を超えて愛親覺羅發祥の長白に及ぶ。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
吳道子孔子像 (曲阜)
聖蹟殿內に於ける吳道子(名は道玄、丹靑の妙を極め畫聖と稱せらる)の畫ける孔子像の碑刻である。元初憲宗の時楊奐(字は奐然)の東遊記に據れば金の明昌二年開州の刺史高德裔(字は曼卿)奎文閣を監修しその閣の東偏の門にこの像を摸刻したとある。今聖蹟殿に存するものは後人が更に之を摸刻したものである。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
大成殿 (曲阜)
大成殿即ち至聖廟の正殿である。其制高さ七丈八尺六寸、廣さ十四丈二尺餘、深さ八丈四尺、黃瑠璃瓦にて葺き、雍正帝御筆の『大成殿』の枋額をかゝぐ。天井欄間總て金采を施し、構造壯美を極む。殿內には至聖孔子の像を安置し、高く『萬世師表』(康熙)『生民未有』(雍正)『德冠生民』(乾隆)等の御筆及び多くの聯を下ぐ。殿は淸の雍正二年に燒け二年工を興し、五個年の歳月を費し、同八年に始めて完成を告げたものである。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
大成殿の前柱 (曲阜)
大成殿前の柱即ち前柱はもとに十柱、周り凡そ八尺、堅瑩璞の如き灰白色の石を以て成り、それに所謂纏柱の雲龍を刻す。技神に入り將に飛翔せんとするの慨がある。雍正帝が國帑鉅萬を發して建造したもの、その結構は北平紫禁城の保知太和の各殿これに比し得べく、他に類を見ない。殿側殿後の石柱は牡丹の花を刻し、殿內の諸柱は木接の楠を以て成る。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
大成殿前の陛 (曲阜)
杏壇の後に接し、大成殿の露臺に上る兩層の陛、一層十二級、中央に雲龍の陽刻が施されてある、その刀技の精巧に注意せられたい但だ遺憾なるはその匠人の詳らかではないことである。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
萬世師表 (曲阜)
大成殿の後に孔子の夫人を祀つた寢殿があり、其後に聖蹟殿がある。その殿內の正面にあるのがこの碑で四枚の石からなり、淸の高宗帝(乾隆)の御筆である。康熙二十三年帝闕里に幸した時に賜ひたるもの、一は大成殿に懸げ、一は石に刻してここに置き、二十四年勅してこの御筆を摹榻し、天下の孔子廟に頒つた。なほ聖蹟殿內には明の萬曆二十年御史何出光が畫工に命じて摸刻せしめた聖蹟圖及び顧愷之吳道子等の孔子像刻石がある。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
孔宅故井 (曲阜)
孔子五世の祖を祀る崇聖祠と嘗て夫子の衣冠を藏したと傳へらるゝ詩禮堂との間にあり孔宅の遺井と稱せらる。明の兗州府知府童旭石欄を作つてこれを護る。康熙帝曲阜に幸したる折、此井を觀、欄に憑つて歎羨し、命じて水を汲んで之を嘗む、同帝の故井贊に曰ふ|疏食飲水 曲胘樂之 既清且渫|汲繩到茲 我取一勺 以飲以思|鳴呼宣聖 實我之師|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
魯壁遺址 (曲阜)
秦の始皇帝が挾書の禁を發し詩書を焚くや孔子九世の裔孔鮒豫め尚書論語孝經諸書を壁中に藏して嵩山に隱る。漢に至り魯の共王劉餘、孔子の故宅を毀ち以て其宮を廣めんとし時に壁中に金石絲竹の聲あり、之を發して竹簡の古文書を得たと傳へらるゝ所、魯壁の八分書刻の立石があり、其前に金絲堂がある。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
杏壇 (曲阜)
大成殿の前にある丹碧美しき閣樓である。即ち孔子堂に敎授するの遺址であつて、漢の明帝嘗て此に御し、皇太子諸王に命じて經を堂上に説かしめ、後世以て殿を作り、宋の仁宗天聖年間、聖裔孔道輔(字は原魯)祖廟を監修し、大殿をその北に移し、其故址を毀つに忍びず、莊子漁夫の篇に『孔子緇帷の林に遊び、杏壇の上に休坐す、弟子書を讀み、孔子弦歌して琴を鼓す』とあるにより壇を作り杏を植え、以て杏壇と名づけた。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
先師手植の檜 (曲阜)
杏壇の東南隅に在る。世之を稱して再生の檜と云ひ、孔子手植のものと傳ふ。周秦漢晉幾千年を經、懷帝永嘉三年枯死し、隋の恭帝義寧元年復た生じ、唐の高宗乾封二年枯れ、三百有餘年を經宋の仁宗康定元年再び榮え、金の宣宗貞祐二年兵燹に罹り枝葉遺すなく、後八十餘年元の世祖至元三十年故根復た發し明の孝宗弘治十三年火災に燒け、淸の雍正十年復び枝生をじ高さ一丈に及び、以て今日に至ると云ふ。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
大和元氣坊 (曲阜)
至聖廟內櫺星門の北に於ける石坊であつて上に太和元氣の四字を鐫る。明の嘉靖二十三年山東巡撫曾銑の建てしもの、其北に見ゆるは至聖廟坊と云ひ、其東に德侔天地西に道貫古今の坊がある。この邊檜柏廟庭に影を織り人聲稀に神さびたるあたり、神韻漂渺の趣に富む。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
至聖先師孔子の墓 (曲阜)
冢の高さ一丈五尺、南北の廣さ六丈五尺、舊記に封ずること馬鬣の如しとある。孔子の謚號は漢に褒聖宣尼公、後魏には文聖尼父、後周には鄒國公、唐には先聖或は宣父或は太師又は文宣王とし、宋には元聖文宣王至聖文宣王等に又尊んで帝とし、元の大德十一年大成至聖文宣王とし、明に至り單に至聖先師孔子とした。墓碑は明の孔彥縉の重修せるもの黃蒙の筆になる大聖至聖文宣王墓の字が鐫られてある。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
同文門内の古碑 (曲阜)
至聖廟奎文閣の前に同文門あり門內には漢魏隋唐の碑喝が四十五種ほど保存されてある碑はもと犠牲を繫ぐために作られたものであるが、後に棺を下すの具に供する葬碑となつた。漢碑に往々碑頭に近く圓い孔を穿つたものがある。こは棺を壙に下すためこの孔に衡を通し、轆轤を設ける為めに必要なものであつて、この碑に圓き孔あるはその遺風を示したものである。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
衍聖公府 (曲阜)
聖裔七十七代衍聖公孔德成字は達生(現年十歲)氏の現に住はれる邸宅である。府第は明に至り、太祖洪武十年孝宗の弘治十四年各々勅修せられ規模漸く大となる。衍聖公の封號は宗の仁宗の時に定められたもの、今日なほ其號を用ゐ、最近まで百戸其他の官を置き孔族各戸の訴訟を處理するの權を有し、又顏曾思孟其他十哲の後裔は何れも衍聖公に對しなほ師弟の禮を執りつゝあり、府第の枋額に題して『聖人之門』とある。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
泗水 (曲阜)
史記に『孔子敎を泗洙の上に設け詩書禮樂を修め、弟子彌よ至る』とある。泗水にて、源を泗水縣陪尾山に發し、四泉竝發し、匯して一渠と為るが故に泗水と名けらると云ふ。曲阜驛より十華里、縣城に八華里、鐵道によつて孔廟に參拜する者は必ずこゝを渡る。河の東岸に砂原多し。駄作一首。|逝くものは晝夜を舍てず流れゆく|泗水の砂を拾ひても來し。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
翁仲と文豹 (曲阜)
甬通の中に在る兩翁仲、右なるは劍を帶び左なるは笏を執る。翁仲とは身長一丈三尺の偉丈夫秦の阮翁仲のこと、始皇天下を併せ、翁仲をして臨洮を守らしめ、死して後銅を鑄て其像を咸陽宮司馬門外に置く。匈奴像を見恐れて近づかず。後世墓前にこの像を置く習俗を生ず。翁仲の前に在る石獸は文豹と稱す其皮に文采あるよりかく名くと云ふ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
洙水橋と其坊 (曲阜)
至聖林墓門の前を流るゝ洙水に架せられた石橋と石坊である。史記に『孔子敎を泗洙の上に設け』とある洙水で、橋は明の世宗嘉靖二年御史陳鳳梧(泰和の人、字は文鳴)が重修し、洙水石坊三架を創建した。楷樹鬱々として其上を覆ひ、墓門を前に聖み、幽邃自ら襟を正さしむる。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
節孝坊 (曲阜)
曲阜北門を出て、至聖林神路に入らんとする所に在り、節孝とは貞節孝順なる婦を云ふ多く夫死し貞節を完ふしたる婦人に勅旨を以て坊を立て門閭に旌表す。この坊は陶氏と稱する婦人の節孝坊、坊に題して『節並松筠』とあり、康熙帝の御筆である。陶氏は大興の處士承德の女、蚤く寡となり、子を撫し、祀を承け、其子卒し又孫を撫し母となり父となり師となり、よく鞠育の任を果し年八十にして卒すと云ふ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
闕里坊 (曲阜)
至聖廟の東毓粹門を出て、廟牆に循つて南行せるところを闕里街と稱す。街に跨つて坊あり、額して闕里と云ふ。史記索隱に『孔子昇子平鄉の闕里に生る』とあり、寰宇記に『孔子闕里に家す』とある闕里は即ち此處と傳へられる。俳徊悵望以て至聖生誕の古を想ふべきである。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
櫺星門 (曲阜)
至聖廟の最も南、廟牆について門であつて左右に下馬碑が立つて居る。櫺星は本と靈星に作る。古は靈と櫺と通じ、舊記に『天鎭星士を得るの慶を主る。其精下りて靈星の神と為る』とあり、これによれば孔子廟前に櫺星門あるは蓋し士を取るの義によつたものであらふ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
子貢盧墓處 (曲阜)
孔子の墓の西南に東向せる一屋、中に端木賜字は子貢を祀り、その前に陳鳳梧の筆になる子貢廬墓處の碑あり、史記に『弟子皆服すること三年、三年の心喪畢り相訣れ去らんとし、則ち哭し各々復た哀しみを盡し、或は復た留まる。唯だ子貢のみ冢上に廬すること凡そ六年』とあり、後人堂を其上に建てしもの子貢は言語を善くし、又貨殖に通じ、孔子の名をして天下に布揚せしめたるは子貢之が先後をなしたればなりと云ふ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
相連る王墳 (臨淄)
今は山東鐵道沿線の一驛站でしかない臨淄も、その昔桓公管仲のトリオを以て、天下に覇をなした齋國の故都だ。車窓からこの往昔の盛を物語る古墳群を望むもの、誰か多少の感慨なきを得やうか。今は土民たちから、十把一からげに、王墳とのみ呼ばれるこれ等の古墳も、何れはさるべき王の墓であらうに、年月と共に耕され、頂にまで麥の芽の靑い現實だ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
城內の碑樓 (臨淄)
二千幾百年の歷史を背景とする臨淄の町には、今も矢張り一沫の古めかしさがある。町の家並、街の並木、そして此所に發見される彫刻美々しい碑樓にさへもこの町の特色がある。|節孝坊と銘打つたこの碑の意味そのものには何等の奇もないが、柱の脚から頂まで、雲上昇天の龍を堪念に彫り込んだ刻命さに、時代を超えた一つの古さがある。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
聳え立つ穀倉 (臨淄)
城內の豪家らしい一廓には、城砦の物見臺のやうに聳え立つた高樓を見た。銃眼の如く光つた窓、城壁の如く厚き壁、行人に問へば農家の穀倉だと言ふ。|詮索をすれば、農家の庭の隅に、物見櫓を兼ねて造られた倉でもあらうが、荒れ寂れた町の中に、超然と聳え立つたこんな家を見るのも、臨淄の古さの一つだ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
齊魯會盟の故地 (淄川附近)
春秋左傳の語る戰國諸雄の中にも、わけて雄々しい覇者は齊國である。齊は諸侯の中にも斷然重きを為し、諸侯は屢々齊に會して攻防を約した。春秋の二雄國、相隣り而して相並んで覇を成した齊魯の二國も亦。嘗てこの龍口莊に會して盟を成した。國亡びて山河あり、會盟城池の門に外は、二千年をそのまゝに今日も市日の賑ひだ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
新しき齊の一邑 (淄川)
淄川は古き齊の一邑であると共に、新しき山東の重要工業都市だ。即ち石炭の都である。|鑛區地積三百平方基米餘、推算埋藏量八千萬噸と言へば、獨逸が山東經營の主要勢力をこの山に打ち込んだのも分る。獨人の手になる規模の宏大は、更に嘆賞すべきものがある。|先年華府會議の結果は、經營の為に日支合辦魯大公司の創設となり、今や出炭量月四萬噸に達するとか。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
ある隣接部落 (博山附近)
獨人リヒトホーヘン男から、三十年前既に山東第一の工業都と折紙をつけられた博山は、今日でも立派な工業都市だ。石炭も出る。石灰も產する。硝子と陶磁器も出來る。附近の部落と云ふ部落には、燒窯を持たない家は一軒もない。この村々の石炭の煙が、人口四萬の博山の殷賑を力強く物語るものだ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
陶土の粉碎作業 (博山附近)
博山附近は、陶土も石炭も殆んど無盡藏だその窯業が古來山東一帶に名を為したのも無理でない。|附近の山から採掘されて來た陶土の原料石は、かうした粉碎溝に投げ込まれ、牛の牽く石車によつて碎かれる。|三千年昔の方法が、今日も尚その儘行はれてゐる所に、支那の一つの姿がある。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
早春の孝婦河 (博山城外)
この町の孝婦の物語に殘る湧泉寺から流れ出る一水は、そのまゝ孝婦河と呼ばれ、城壁の南を洗ふて東に向つて流れ去る。|南關の側に一石橋あり、古からずと雖も典雅、巧まずして端正、淸水、堂屋、老木と相配して、全く棄て難い風致だ。水を配してかくも相應しい調和は、この邊には一寸珍しい。博山病院の白文字はなくもがな。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
山東の長城 (博山城外)
その昔齊魯の境界を劃した山東長城の片鱗は、三千年の歳月を隔てゝ、今尚その姿を博山南方の山嶺にも橫へてゐる。博山より二十五支里、靑石關こそその地點である。|規模結構に於て、秦の萬里長城には比すべくもないが、蜿蜒溪を渡り峯を過ぎるこの長城の姿は、荒漠の雪景と相對して、一種の崇嚴感を起さしめる。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
長城の一關門 (博山城外)
靑石關は山東長城の一要關であつた。|齊魯の境界線上に位し、泰安への交通路を扼する要點を占め、峨々たる岩山の上に、嚴しい砦が今尚往時を物語つてゐる。|面も向けられない程の吹雪の日、岩の上に三脚を組立てゝ逆光線でこの靑石關に對した撮影者は幾度か此所を爭ふたであらう人々の覇業の跡を考へ、去り難き感慨を催したのだつた。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
繪の町湯口鎭 (黃山近附)
瑞西モンブランの遠望か、非ず、大町よりせる日本アルプスの展望か、非ず、黃山の一登山口湯口鎭の朝である。|仰げば天際に聳ゆる突兀の山容を望み、下には潺々の響を擧げて走る淸澄の溪流を觀るこの山と水とに惠まれしいさゝかの町には、貧弱なる數軒の旅館あり、太平縣より黃山に登るものは、先づこの町に入る。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
黃山途上の朝 (涇縣)
山と水と雲の奇を以て鳴る黃山探勝の途上、路は涇縣を過ぐる。|涇縣は靑戈水に臨み。靑戈水はその源を高く黃山の頂に發す、黃山諸峰の隆起漸く始り山水風光の雄大は、このあたりにして既に黃山の名に恥ぢない。|とある朝、陽光淡く白亞の壁に映じ、淸風徐に稻田を沍る。探勝の快心先づ躍る。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
山に入る一渡船場 (穰溪)
黃山に源を發する溪流は其の數二十有四、穰溪も亦其の一流である。長河による民船は此所に遡り、黃山山系の森林から伐り出された木材は、この流により、更に長河によつて筏として蕪湖方面に送られる。|このあたり未だ山高からず、水急ならざるも、その淸澄の水と、靑藍の山色とは、既に黃山に入るの山氣を覺えしめる。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
獅子峰下の禪庵 (黃山)
その高さ五百仭、山塊群山を抜いて聳え、而してその山貌によつて獅子峰の名を得たこの靈山の山頂に近く、一座の寺庵あり、其の名も獅子庵と呼ばれる。|堂屋は松樹に埋れ、之を圍る諸峯の峻險は其の前後に兀立する。出でて前庭と立てば、蓮花峰、四仙峰の偉容眉に迫り、曆日なき塵外境、寺僧看經の聲には登仙の思あらしめる|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
削れるが如き四仙峰 (黃山)
黃山の諸峰は、削れるが如き岩塊の聳立に配するに、樹木と水と雲との大觀を以て名あり、四仙峰は更にその代表者である。|其の高さ九百仭、獅子峰の東方に在り、山頂には削り立てる奇巖林立し、其の山腹と言はず巖頂と言はず奇松之に纏る。雲霧更に之に加はらんか、耳を澄して遙に水聲を聞くの奇勝である。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
蓮花峰東登山道 (黃山)
岩塊削立九百仭、黃山諸峰奇中の奇たる蓮花峰の名は、更に其の登山道の嶮と奇とを以て鳴る。|磴道は岩石を縫ひ岩腹を潜り、蜿々數百尺、直立に近き岩塊を這ふ。苔はその道を潤し、名を知らぬ花はその傍を飾り、時に優美の蘭岩の隙間に頭を擡ぐるを見る。|三歩に喘ぎ五歩に止り、山氣頓に身にしむ|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
奇岩に圍まるゝ文珠院 (黃山)
文珠院は天都蓮花兩峰の間に在る黃山の一寺觀である。後には玉屏峰を擁し、前には菩薩座あり、今院前の菩薩座の上らんか、煙雲涯なく萬峰その足底に出沒するの壯觀を見る|院は普門大師の創建にかゝり、其後屢々火災に遭ひ、今は往時の壯觀を失つたが、尚有名な禪堂であり、且黃山の大觀を收むるの勝地として|聞ゑてゐる。(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
慈光寺偉觀 (黃山)
往昔の緣喜を尋ぬれば、嘉靖年間玄陽道人が修道の庵を結んだに始まるの故地、其後普門大師に至り寺礎漸く固く、神宗より慈光寺の篇額を賜はる頃に至つては、大堂伽藍軒を連ね、參詣人雲集してその盛を極めたこの寺も、長髮賊の亂に兵火一劫、今は僅に大雄寳殿の一堂を殘すに過ぎないが、峻峰と森林を負ひ、依然たる大寺觀である。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
山村の夜明け (黃山)
寺僧看經の聲に起されて、門外に出づれば、山は一面の霧だ。その霧の中を谷川のせゝらぎが走る。音に從ふて下れば、間もなく數軒の部落に出た。|朝だ。霧の中に煙の臭がする。人の氣配がある。と見ると薄れかゝつた霧を破つて、一抹の光が颯と射る。|山村の夜明は早い。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
橋上の茶店 (黃山)
黃山への道は、山と溪流を逢ひ、百折して走る。然も其の道整然として皆石を以て疊み、溪流には架するに必ず石橋を以てする。かくて黃山の奇は、既に登り山道に始り、下り山道にして終るのだ。|この山道、とある石橋の上、大樹の下を卜として風雅な茶店がある。題して廸成茶亭と言ふ。駄馬を放つて茶を命ず。山風颯々扇がずして三伏の暑を忘れしめる。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
雲外の天臺峰絕頂 (九華山)
九華の勝は、必ずしも奇峰奇巖の怪のみではない。然しその名の因む雲外の奇峰はその數九、天臺はその最妙最高の一峰だ。|奇巖怪石聳立し、仰げば山塊眉に迫り、階段の如き石段を登れば、仙人橋あり、更に巨石あつて、非人間と題し、全く塵外境非人間界の景趣だ。巖頂の寺庵は地藏禪林、亭は捧日亭、白雲頓に去來する仙人境だ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
白雲を凌ぐ巨巖 (九華山)
天臺峰の山腹には幾多の奇巖が林立する。其の形觀音の前に俯して視るの狀あるを、老猿接法駕と名け、其後に在り高さ六丈下界を俯瞰するの形あるは、大鵬聽經石と呼ばれる。|今この奇巖の傍に立つて九華諸山を大觀すれば、雲霧を隔つる諸峰の變幻極りなく、恰も彩管を揮ふて山水を虚空に描くが如く、山容或は現れ或は沒し、身一人白雲の外に在るの感を抱かしめる。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
白壁相連る山中の町 (九華山)
九華をして九華の名あらしむるものは山塊の數であれ、九華をして世俗的ならしむるものは實にその寺觀である。九華百數十寺、山頂雲外の寺庵もあり、山腹有緣の廟閣もある山間いさゝかの平地に營まれた寺院の周圍には、登山參詣の世俗を相手に、かくも立派な町がいつの間にか出來上つた。|繪の如きこの小部落は、さながら歐洲の山中に見る避暑地だ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
山の町の一風景 (九華山)
世俗を相手に出來上つた町ではあれ、九華の山中には自らなる一つの雰圍氣がある。行き交ふ人は參詣人でなければ僧侶だ。さう思ふと何でもない町の人達までが坊主臭い顏だ途上に擴げられた品物までが、線香臭いもこの町の風景だ。|小さな田舎町にも似合はず、立派な石疊を誇つてゐるのも、有難い佛の餘光であらうか。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
山を禺ふ祇園寺 (九華山)
九華諸寺何れも夫々の所緣を持つが中にも祇園禪寺は今や益々佛日重光、香煙四時絕えざるの聖寺として尊崇される。|隆山禪師先づ其の礎を拓き、大根上人その錫を駐むるに至つて寺名大いに擧り、遙に其の盛名を聞き段祺瑞までが「慧日長明」の扁額を奉つてからは、衆庶の信仰益々加はり、今や九華寺院中の寺院として數へられる。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
山門莊嚴 (九華山)
祇園禪寺の有難さは、その山門の崇大に一段の光を添へる。|三層の屋根を有する嚴めしい山門は、門前の一小池にその姿を倒影して、極楽莊嚴の一場面を表現する。陽光明かならんか、白堊と黑壁との奇妙な對象が、殺風景な硝子窓の背景にも拘らず、不思議な明るさを見せる。兩傍「佛日增輝」の句は、全く恰好の文句だ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
王陽明祠道 (九華山)
九華を愛して之に遊んだ文人は多い。然し眞に之に親み之を宣揚した文人としては、前に李白、後に王陽明を擧ぐべきであらう。|震濠の亂を平げたるも讚せられ、再び九華に隱れ、致良知の實學を大成せる陽明の故地この門を入れば更に門あり、聯に言ふ。|千載良知傳道脈|九華宴坐見天心|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
整へる登山道 (九華山)
九華の名既に久しく、參詣登山の者今も陸續として盡きないこの山道は、整然たる近代式道路だ。安徽官憲の力が此所にまで及んだことを、旅行者は感謝せねばなるまい。|溪流あれば必ず橋あり、橋は石を以て築き洋灰を以て塗る。嶮惡の山道も疊むに石を以てし、何れも坦々の山徑だ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
山中に遇ひし僧 (九華山)
草に蔽はれた屈折の山道を、下から緩かな金屬の響が登つて來る。何者かと待つ程もなく、鍔廣の麥稈帽子が表れ、擔棒が表れ、錫杖物々しい僧形が現れた。|双肩の荷物はその全財產らしい。問へば、寺から寺を、修業して渡り歩く行脚僧だと答へる。そして全財產を背負ふた氣樂さで、賴みもしないのに道案内の役を引受ける。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
山村一風景 (九華山)
八月と云ふのに、山は既に秋だ。|木々はまだ紅葉しないけれども、薄はもう穗に出て、田には短い稻が穗を垂れてゐる。|藁屋根にも映ゆる日脚の明るさに、山麓の村は至極暖かさうだが、村を貫く小川の筋を眼で遡つて、いさゝかの瀧の上に至れば、山の峠は物凄い霧だ。雲だ。|四季常に衰へぬ白雲が、九華の一名物だ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
天國と地獄と (黃山)
朝だ。黃山々上の朝だ。|雲を破つて颯と射た陽の光に、被つてゐた薄靄のベールを、すつかりかなぐり棄てた群峰、何と言ふ光の技巧の素晴しさだ。|一切の無差別界に、突然に、然し劃然と描き出された二つの影、包み溢れた岩の白さゝへ棄て難い近峰の美に、之を投影する谷向ひの山の荒々しさ、正に天國と地獄の形相だ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
岩に反映する光 (黃山)
群像のやうな岩塊の佇ひに、光が造る影の奇怪さだ。削り立つた岩の面に、直射する夕陽そしてその岩の襞に吸ひ込まれる光と、滑かな凸面から射返される光との交錯が、奇妙にも描き出す日沒前の黃山の一つの物凄さだ。|雪とも、氷とも、瀧とも見える光線の不思議な餘技、黃山の持つ一つの怪異は、この朝夕の光の變化だ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
山彥を聽く石 (黃山)
獅子峰の上に立つて、西海峰の岩峰を、右から、一峰は一峰と見上げて來た人々の眼はその或一つに至つて、申合せたやうに釘着けされる。|丸卓子のやうな岩塊と、その上に立つた唯一つの岩だ。脚下に跼る幾百峰を俯瞰して、何千尺の谷底に、何かを聞き出さうとする鳥の、薄氣味惡い姿だ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
彫みかみけた岩 (黃山)
その姿に因んで、名も石門峰と呼ばれる黃山の一點景、そしてその孤峰の左肩に、ぽつねんと取り殘された岩の、何と人に似たることよ。後に手を組んで、じつと前を見つめてゐる男だ。この場合、頭が半分であることさへも何等の眼障りでない男の立像だ。|黃山と云ふ山は、全く自然と云ふ巨匠が、やりかけた彫刻の殘骸群だ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
峰は蟻の塔に似て (黃山)
蓮花の正に開かんとするに似やう、蟻の塔にも似やう、然し黃山に於ける蓮華峰の雄姿は、所有る形容詞を超越した存在だ。|八百幾十仭の山塊は、黃山諸峰群山を指揮總攬して、蜿然その中心三角標高點だ。山腹の平岩上に小池あつて、聊の天水を湛へる。人々は爭ふて之に眼を洗ふ。天心に聳えるこの山にして始めて天池水の名も意義がある。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
名もなき家の門も (九華山)
衝立のやうな白壁に、佛壇の扉のやうに彫り込まれた門の有つ一つの嚴しさ、九華附近に觀る家の獨特の構造だ。九華と佛敎との、離すことの出きない因緣の一表現でがなあらうか。|とまれ秋日玲瓏、白壁に投げた陽の暖さには、厭でも覗き込まねば通り過せない誘惑を有つ門だ。龍の字も何となく似つかはしい。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
村を貫く小川 (九華山)
山岨の薄が既に穗に出た秋だ。|後の岡には、粟も稔つた、豆も熟した。そして木々の梢を渡る風の白さ、豐な惠まれた秋が日毎に更けて行く九華山中の部落だ。|谷川のせゝらぎの音のみなる或る午後、人々は皆畑に出て、村の氣配は、只厩舍に呻く牛だけだ。吾人の支那風景觀には、一つの訂正が加へられねばならない。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
伽藍も寂れて (九華山)
前淸承平の時代には、聖九華の名に憧れて聚る僧徒は其數千餘、廟宇を成すもの七十寺九華山中七堂伽藍の盛觀を極めた中にも、化城寺はその總本山として、東西兩序の諸寺に君臨する名刹であつた。|だが太平長髮の賊徒が、その誇を一炬に附しては、殘るは只空しき名と、傾いた高麗狗と、歪んだ石段の重々しさだけだ。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
佛光未だ衰えじ (九華山)
石垣の漆喰の新しさと、嚴しい硝子扉の窓構え、この寺は民國十一年創始の新寺、若し奇妙な屋根と、お寺の稱號がないならば、或は兵營かと見紛ふであらうこの洋風寺院が、新に九華に出きるのも矢張り佛の有難さだ。|寺北は素晴しい高原だ。登れば、北に洋々天際に走る長江を見、眼を轉じては雲海に漂ふ九華九十九峰を瞰る。|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
村の古さと新しさ (九華山)
遊覽地と化した九華の今日には、爭はれない時代の變化の形相が見える。都人鄙人、華人洋人、そこには自らなる變化が、この山中にも日毎に蝕んで行くのだ。|とある村の宿屋の中庭で、ふと眼に止つた二つの細工物、古い何千年來の子守椅子、そしてもう一つは籐椅子風の竹轎、かくて九華山中に汽笛が聞えるのも遠い將來ではなからう|(一九二九年撮影)(印畫の複製を禁ず) -
舊き蕪湖の姿 (蕪湖)
春秋にして既に蕪湖の名を見ると言ふならば、この港は決して新開港地ではない。楊子江岸河曲の好位置を占めたこの聊の都會は、その廣濶な背後地と豐富な物產を以て、殊に米と茶の輸出港として鳴り響いて來たのだ。|今や貿易年額五千萬圓を計え、押しも押されもせぬ支那の大輸出港ではあるが、城外の船着場は、四千年の歷史に何の變化もない。|(一九二九年、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
新しい蕪湖の姿 (蕪湖)
新らしい蕪湖の姿は、之を租借地岸の碼頭に見ることが出きる。碼頭の名が、既にバタ臭い支那の新しい姿を彷彿せしめる。|汽船は先づ躉船に橫着けされる。躉船と言ふのは、ハルクと英語で呼ばれてゐる長江特有の浮碼頭だ。倉庫であり待合室であり又事務室でもある。陸と船との仲繼は、總て此の船で行はれる。これは日淸汽船のハルクだ。|(一九二九年、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
水の生活 (蕪湖)
江南三角洲の一帶は何れも水に包まれ、人々は終日水に生活してゐる。蕪湖も又その運命を擔ふて生れた都だ。人々の生活は水に明け水に暮れる。城內縱橫の水路がそれだ。城外無數の湖水がそれだ。|だが濁つた楊子江の水に象徵されるこの町の生活も、南洋風な水上の荼店などを發見することによつて、一抹の明るさを點ずる。|(一九二九年、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
靈澤廟の名 (蕪湖)
蕪湖螐(つくりは梟)磯の江岸に一石穴あり、昔は怪獸あつて人を喰つたと言ひ、又その丘の上には、貞烈千秋と折紙附けられた吳の孫權夫人靈澤の墳廟もあるが、この地の奇はさうした傳說の怪でなく、長江下游難所としての名と、眺望の秀逸とを以て鳴るのだ。丘上烟浪の大觀は他に比肩すべきなく、風濤の難は、常に通航の船夫をして、この廟に平安を祈らしむる程だ。|(一九二九年、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
南方佳人多し (蕪湖)
支那四千年の歷史に殘る美人の數を以てすれば、北支那の出を遙に多しとするが、これは霸權が常に北方に在つたからに過ぎないので、北方の美は水仙の如く、南方の美は水蓮の如く、公平に見て南支那の美人は遙に北支那に優る。|さるにても、今南方支那婦人の、歐風化の素晴しさよ。|(一九二九年、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
支那に見る日本 (蕪湖)
藁小室の軒下の日當りに、乾された褲子一つを取り除いたら、この畫は、無條件で、日本の田舍として容認されるかも知れない。蕪湖郊外の百姓家の庭前だ。|どの農具の一つにも、日本と違つたものがあらうか、日本と支那の近さ、麥の秋の一つの點景、この繪を日本に在る支那と云ふも誰も不思議がるまい。|(一九二九年、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
盥舟浮べて (蕪湖)
水に惠まれた江南では、到る所に沼澤ありその沼澤には必ず蓮と菱とを植ゑる。|外の國の人からは、味も何もないものとして、振りかへられもしない菱の實が、南方支那人にとつては忘れられない風味であり珍重物なのだ。南支那の夏は、どこに行つてもこの三角形の眞黑の菱の實が、往來のどの攤子にも埋高く盛られてゐる。|(一九二九年、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
石佛異相 (蕪湖)
城外東南に距る二十五支里、荊山寺を蕪湖の名所の一つに數へることを、何人も文句は言ふまい。だが寺は大した靈驗あらたかな名刹ではない。その山上眺望の雄大と北麓の崖に彫られた石佛とを以て、僅に名所たるの地位を保つ。|石佛は皆明淸時代の作、六朝や唐宋の慈相はないが、樣式の新しさが稍人目を引く。|(一九二九年、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
桃冲鐵山 (蕪湖附近)
埋藏量五千萬噸、鑛層百尺より二百尺、桃冲山鐵山は滿更棄てたものではない。然も鑛石の含鐵量五六パーセント乃至六三パーセント、その質遙に大冶に優り、殊に銅の含有量の少さに於て、製鋼用に好適と言ふに於てをや。|この山の經營は中日實業公司の手に在り、其の礦石は大部分日本に送られ、八幡製鐵所、東洋製鐵會社の原料となるのだ。|(一九二九年、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
荻港素描 (蕪湖附近)
桃冲山で採掘される鐵礦は、汽車によつて楊子江岸のこの繪の如き江岸の小都荻港に運搬せられ、此所から船積される。荻港は桃冲鐵山の外港だ。水深低水時でも二十尺を超えこの港は、裕に三千噸級の外洋汽船を棧橋に橫着けさせる良港だ。|このあたり長江洋々、後丘に登れば天際の流を望み壯觀言ふばかりない。|(一九二九年、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
城門も破れて (撫順縣)
其の昔は、東山地方より奉天に至る要驛とし、且その咽喉を扼する要地として重要な役目を勤めて來た撫順城も、對岸に新都撫順の勃興と共に、今は見る影もなく淋れて、日毎に響を擧げて毀れ落ちる城門の瓦が、日に非なる時の進展を語り。|人々は今、炭都撫順のあることを知つて、縣城撫順の在ることをさへ忘れやうとしてゐる。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
廢墟の如き城池 (撫順縣)
撫順城は明代の建造と記錄される。高さ約一丈五尺の城壁、其の延長約三支里、俯瞰すれば整然たる一縣城ではあるが、渾河を隔てて遠望する炭都撫順の永安臺住宅街と對比して、この町の暗さよ。|今この町に殘つてゐる名のは、ばかりの縣廳だ。そしてその繁榮は、日毎に對岸の千金寨支那街に奪はれて行く。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
明と淸との關が原 (營盤)
營盤の北なるこの薩爾滸[サルホ]山での一戰は、明淸興亡史の跡にたづねて、その關ヶ原とも言ふべき戰であつた。時は明の萬曆四十七年、滿賊討滅軍の左翼中路の將領を承つた明の勇將杜松は、思はない策戰の齟齬から、其の兵數萬を失ひ、自らも遂に斃れ、明淸興亡の大局は茲に定つた。血はこの河水を朱にし、旌旗死屍はこの河面を蔽ふたと記錄される。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
糧棧重地 (營盤)
營盤は渾河とその支流蘇子河の合流點に位置する古い町だ。明淸會戰の趾として、淸朝發祥にも因緣の深い所で、又古來朝鮮との交通の、要衝でもあつた町だ。|かくて戶數僅か三百、人口三千でしかないこの町は、今も尚古色蒼然、奉海線の一要驛ではあり乍ら、糧棧の門には、御雇の番兵でも立てやうと云ふ程の嚴しさだ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
馬店の庭に見る商況 (營盤)
分水山脈漸く西に向つて展け、渾河平野の緒となる營盤は、興京に通化に、貨物仲繼の要地たるばかりでなく、又この附近物資集散の中心地だ。|大豆、木炭、木材等を滿載して集つた馬車群は、新なる雜貨を又滿載して夫々の田舍に走る。この庭にこぼれた糧を拾ふ豚の子の丸さにも、營盤商況の一端が見える。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
廣野の新驛 (淸源)
雪の消え殘つた平野の眞中に、殷盛を造り出されたこの新驛は、審海線の要驛として今は時めく淸源站の姿だ。奉天と朝陽鎭との略中間に位すると云ふばかりでなく、この附近一帶の沃野に產する特產の集積は、この町をして一日は一日と膨らまして行く。|地平線にまで遮るものなき眺望が、この驛の將來を、何よりも雄辯に物語るものだ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
河谷の町 (淸源)
淸源舊市街は新驛站を去ること三支里の所に在る。古來北方英額門を過ぎて寨外と通じ鐵嶺奉天方面への貨物沖繼市場として活躍した淸源とは、即ち河谷聊の平地に散らばつたこの一團の商家群だ。鐵道が其の北を通じても、この町の利用價值は尚變らない。蜿々のこの鐵嶺山道を、絡驛として續く馬車の荷の重さよ。淸源舊市街も亦多忙な將來を持つ町だ。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
日本軍苦心の跡 (淸源)
交通の要衝に在るが故に、淸源の名は幾多のエピソードを持つてゐる。淸朝發祥の物語がそれだ。日露戰爭での激戰もその一つだ。更に近き數年の馬賊の襲擊もそれだ。そしてこの河曲は、日露戰時我が軍の架橋地點として撰ばれた由緣の所だ。然もその軍橋が、昨年の大洪水まで殘存して、世人に有難かられたと言へば、淸源も我々に滿更緣のない所でもない。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
新興の氣に燃えて (山城鎭)
開放されてから僅か四十年、この沃野一帶今は殘る隈なく耕された。人口四萬と稱せられる山城子が、一本町とは言へ日の出の勢で盛えるのも不思議はあるまい。西北には山脈を負ふも、東南一帶は沃野千里に連り、鐵道開通以來、市況は頓に殷盛を加へた。|八年前馬賊の襲擊に遭ふて。市街の大半を燒かれたことも、世人は既に忘れてゐる。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
高匂麗城趾 (山城鎭)
物資集散の中心としての山城鎭は、又その後に負ふた分水山脈に依つて、歷史上の幾多の遺跡にも富む。その第一は高匂麗時代の南蘇城と推定される城趾を、その北方丘陵の一つに持つことだ。淸の發祥に先つて、高匂麗がこの附近に侵出してゐた證左は、今は動すべくもない。山頂蜿々の堤波を見て、興亡盛衰の感興は殊に深い。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)