亜細亜大観/05
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國境線 (東寧)
東寧縣城の北を流るゝこの一小河は世界の二大邦國ソヴイエートロシヤと中華民國とを境する國境線である。|踏まば數步にして越ゆべきこの水が、二國の嚴然として越え難き國境とは、興趣深い光景ではないか。|この河を一歩渡らうものなら、忽ち彼岸からドーンと一發見舞はれることは必常だ。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
東寧遠望
東寧は別名を三岔口とも稱せられ、綏芬河左の岸に在り、露領と境を接する一商都であり、町を抜け出た數本の煙突に、製油製粉工業の一般をも觀ることが出きる。渾春の東北約二百七十華里、綏芬の南方約百四十華里、寧古塔に至る約四百華里の地點に位し人口約八千、國境の一要都である。|遙に見る連山は露領沿海洲。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
縣城東門 (東寧)
東寧はもと綏芬廳の管轄區域であつたが、宣統二年その一部を割いて撫民通判を置くに當り、この附近を東寧廳と定め東寧を以てその中心地とし、民國二年更に其の名は東寧縣と改められ、今は其の縣廳所在地である。|城壁は急造の土壁に過ぎないが、露領に面し然も屢々馬賊に襲はるゝこの町として、城門だけは流石に嚴めしく固められてゐる。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
一街頭情緒 (東寧)
戶數僅に千五百の一小都であるが、東寧は國境街として特殊の雰圍氣を有つてゐる。|街上には屢々かうした看板を見る。露語、支那語そして朝鮮語、描かれた賣品の廣告もかうした邊境には珍しい洋裝の異人であり、そのシヨーウインドにランプと並べて洋酒の瓶が覗かれるのも面白い。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
國境一風景 (東寧)
東寧城外露領に近き小川の岸邊である。早春の陽が張りつめた氷を解して行くまゝに、黑土には若草の香をめぐませ、水溫み初めた國境の午後である。|柳の芽もかすかにふくらみ、其の裸樹の影を長く横たえた土壁のあたり、そよとも風は無いが、春がまのあたりに伸びて行く。|いぶせき門の上に、洋服屋の看板が見えるのも露支國境らしい。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
勅賜額 (東寧)
間島より遠からざる東寧には、古くから鮮人の移住者が少くなかつた。そして東邊の繁榮には、これ等の鮮人は欠くべからざるものとなり、淸末國境の多事と共にこれ等鮮人の慰撫には當時の官憲も相當の力を拂つた。光緒八年、時の皇帝は勅旨を以て高安村の額を賜ひ、其の牌樓は今尚東寧鮮人部落に光つてゐるのだ。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
支那化した鮮人 (東寧)
其の移住の歷史の古きが如く、東寧在住鮮人の風習は漸次支那化して、服裝にも言葉にも、殆んど判別し難い鮮人を見ること屢々である。|路上に喜戲してゐた鮮人小兒達は、嬉々としてカメラの前に並んだ。この鄙には稀な美しい鮮人少女の姿は、見る人の眼に東寧の印象を少からず潤あらしめるに違ひない。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
穀倉 (東寧)
滿洲人農家の邸内にある穀倉である。草葺きの屋根に柳條の壁で圍まれ中二階式に下部にすかされてある。之は積雪や濕氣の關係から來たものだと思考される。|穀倉に限らず滿洲人農家の家屋には草葺が多い。秋の收穫時季には此の穀倉に滿たされたであらう包米(蜀黍)も冬中の食料に當てられ今は殘り少なになつてゐた。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
國境街の旅藝人 (東寧)
放浪の旅藝人は、氷に閉されたこの町にも流れ込んで來る。一管の笛一張の太鼓、村から村へ町から町へ、彼等は只管に人の群を求めて彷遑ひ廻る自由人である。|東邊の國境街でゆくりなくも巡り合つた旅藝人、嚴寒を包む毛帽の下に爭はれぬ旅疲れが見えてはゐたが、然し展け行く春への喜が何となく彼等を微笑ましてゐた。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
國境に水温む (綏芬河邊)
北滿の春は遲い。然し、白樺や楡に魁けて先づ水溫む岸邊の猫柳が春を告げる。|久しく凍て着けた河面の氷が、日毎の陽の溫みに溶けて行けば、岸邊の黑土にはいさゝかの靑草の芽が頭を擡げる。猫柳がその影を映し始めるのもかうした水の上である。|國境の柳の芽はとまれ、露領に面し然も露支國交の芽ぐむのは何時の陽であらうか。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
督軍公署 (齊々哈爾)
嘗ては張作霖に次いで滿洲の雄たりし吳俊陞將軍の居城黑龍江督軍公署である。その勢威北邊に竝びなく、露西亞を蒙古を、而して南方革命軍を懼れしめた主人老雄も、今は張作霖暗殺の爆彈事件に側丈を喰つて果敢く死んでしまつた。|この公署の新主人は既に任命された。然しその後の公署は果して前主の時の如く安きを得るだらうか。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
淸眞寺 (安達)
淸眞寺とは回敎徒の寺院である。淸とは淸潔を意味し、眞とは誠を表現し、彼等が西方メツカなるその靈場への遙拜場である。支那に於ける回敎徒は其數七八百萬に及ぶが、北滿に於ける信徒は極めて少い。然しその少數も尚かゝる寺を營みて團結を固ふする所に回敎徒の一面がある。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
札賚諾爾炭礦 (東支沿線)
この無造作な露天掘炭礦は、東支鐵道西部線札賚諾爾驛の西北四粁の地に在り、黑龍江省臚濱縣に屬する。その所有權及礦業權は東支鐵道會社の手に在り、會社は特定人に一定期間の採掘權を貸與して經營せしめてゐる。|一日の炭出量約千五百噸、炭質は火力緩慢なるも暖房用として沿線一帶に愛用せられる。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
蒙古語の看板 (滿洲里)
歷史の上からは、元朝滅びて既に久しく、從てその蒙古文字も、今は死せる文字の一つとして數へられて來た。然し幾百萬の蒙古民族の尚生くる限り、實用の上には依然として生ける文字として役立つのだ。|國境街滿洲里にかうした看板を見ると、蒙古民族は尚生き而して働いてゐることを痛感せざるを得ない。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
棺桶屋 (齊々哈爾)
支那人の四願の最後の一つは、立派な棺桶に入つて埋り度いと云ふことである。貧者もその為には數十金を投じ、富者は時に數萬金を惜しまず、何れも身分不相應の上等の棺桶を撰ぶのだ。|北滿は木材の產出多く、少からざる良材を產するが、その良材の最上材は大抵かうした棺桶に使用されて地中に埋る。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
馬具屋 (齊々哈爾)
その店に賣る品物を表示する為に、實物を店頭に飾ると言ふ方法は、極めて原始的であり然も極めて近代式である。支那の田舎に見る實物看板はその原始的の代表であり、近代都市のシヨーウインドはその近代式の表現である。|高くには鞭と革具とを掲げ、店頭には鞍を置いて、紛れもない馬具屋を表明する。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
裝蹄所の馬繫柱 (巴林)
とある街端れに、物々しく建てられたこの奇妙な萬年筆のやうな六本の柱は、裝蹄所の馬繫柱であつた。|その上部に打ち着けた龍の彫り物や、丹靑の色鮮かな尖端の恰好が、何を意味するかは知らないが、場末のいさゝかの蹄鐵屋には過ぎた裝飾でるる。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
緣喜の良い看板 (泰來)
この看板は宿屋の店頭に掲げらるゝもの、竿頭の魚型は鯉を象り、日本式に言へば、鯉の瀧登りとでも言ふべき意味である、非常な吉祥を表明するものとせられ、古來旅人は競ふてかゝる宿を選び、殊に受驗生はこの看板のある宿屋を喜んだ。然しこの意味深重な看板も今日では僅か北滿の田舎にだけにしか殘つてゐない。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
穀倉 (泰來)
見渡す限りの草原だつた内蒙古の沙漠地帶も、洮昂線の開通と共に耕地頓に展け、一小鎭泰來は一躍重要の一要都となり、附近の移住農家の庭にかうした穀倉が竝立して來た。|この穀倉は北滿特有のもの、柳枝を以て骨骼としその上に泥を塗る。雨の少い土地なればこそ使はれる構造である。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
平原の井戸 (海拉爾)
海拉爾郊外蒙古人部落の井戸である。一望限りなき平原の始る所、蒙古人はその馬を飼ふ為に、かうして支那式の籐桶で氷を割つて水を汲み上げてゐる。この附近良水に乏しくかうした不完全な井戸さへも彼等には寳物視せられるのだ。|盛夏此の畫を見て三伏の暑を忘れしめる|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
瞿唐峽 (四川)
瞿唐峽は夔州下流三哩の地點に在り、三峽の諸灘は之より始まる。峽中右岸懸崖に間に裂隙あつて其の形風箱に似たるが故に、別名を風箱峽(Wind-Box Gorge)とも呼ばれる。|峽は長さ六哩、兩岸の山は高さ千五百尺、直に水に逼つて數哩に亘り、全く三峽の始祖たるに恥ぢない。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
宜昌峽 (其の一)
楚西山地の峽灘既に終らんとする所に宜昌峽は始る。|この峽は南津關より陡山沱に至る十五哩の長きを占め峽幅三百碼內外、峽間の水は七百乃至千八百尺の絕壁を削つて走り、低水時は水流緩かなるも増水時には流速六、七節に達するとか。|然し俯瞰すれば正に一幅の畫である。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
宜昌峽 (其の二)
宜昌峽は主として古人をして懼れしめたる黃貓、燈影の二峽を以て形成される。|崑崙に發したる長江の源流は走つて楚西山地に擊突し、岸壁山裾を浸蝕崩壞せしめ、為に岩角は江間に突出して江岸を埋め、或は水道の暗礁となり或は之を閉鎖して峽となす。|見よ莫々として雲横はる峽灘の姿を。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
宜昌峽 (其の三)
峽とは由來水の為に浸蝕崩壞せられた山岳が、兩岸に懸崖重章(山冠)となつて兀立する場所を指すけれども、峽必ずしも灘ではない。|長さ十五哩の宜昌峽の間には、水淀む岩蔭に舟を碇めて、通る船の餘波毎に折々の網を揚ぐる風流人もある。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
黃牛灘附近 (四川)
「朝に黃牛夕にも黃牛、眼覺むれば尚黃牛」古人をして斯く歎ぜしめたこの灘も亦楚西峽灘の一難である。|山角水に逼り行く手も來し方も皆岩ではあるが、聊かの平地あればかゝる部落あり、聳え立つ寺廟には常に平和な陽が光つてゐる。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
三遊洞 (三峽)
三峽の險灘は古來楚蜀交通史上重大な阻碍となり、長く兩地文化の疏通を妨げはしたものゝ、一面その佳勝絕景は文人墨客をして爭ふてこの間に遊ばしめた。|洞は古來この峽間の大觀を肆にせし雅客の故地、洞内には石佛と共に幾多の筆蹟を殘す。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
三遊洞附近 (三峽)
洋々の濁流岩角を壓倒する三峽の名は、聞く人をして一種の畏怖を感ぜしめる。然し三百五十哩の峽間必すしも靜寂の佳境なしとは言ひ難い。三遊洞はわけても麗しき溪谷を有する。玉の如き淸水は靑黛の山を縫ふて長江に入り、その秋色の美は更に天下の絕境 稱せられる。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
巫山峽 (其の一)
巫山峽は三峽第一の大峽である。長さ二十五哩。河幅三百五十碼乃至六百碼、流速増水時に於ては六節に達すると云ふ。|重疊の山脈行手を塞ぎ、山又山、岩の根を嚙む水の唸りは絕壁に響いて物凄い叫を擧げる。行く手を望めば暗瞻たる地嶽の入口に近くの感を抱かしめる。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
巫山峽 (其の二)
萬岳重疊の楚西山地も、其の源を西藏に發し巴蜀の水を合せて東へ東へと突進する激流の前には、遂に物の數ではなかつた。山あれば山を貫き、岩あれば岩を碎き、三峽の險灘はかくして形成され、巫山峽もかくして造られた。|仰いで千丈の岩壁を見よ。そして自然の力の如何に偉大なるかを見よ。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
巫山峽 (其の三)
風箱峽を過ぎて間もなく、急峻の山脈逼つて濁流に突入せんとする左岸の聊の平地に、城砦の如く聳え立つ一廓を見る。即ち巫山縣城である。町の中央に突き立つた奇妙な塔と申し合はしたやうな町の白壁とが、何となく峽の氣分に相應しい氣分を作る。下流一哩として巫山峽は始るのだ。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
五老峰外の沙河 (廬山)
廬山の景は、其の相連り相凌ぐ奇峰と之を彩る水の淸灑と共に、洋々たる水の大觀に在る。|楊子江は西より來つて其の北を洗ひ、鄱陽湖は其の東に湛えて共に之を圍る。今五老蜂に立つて遠望すれば、前方雲際に連る洋々の鄱陽湖を望み、脚下に白蛇の走るが如き沙河の繪の如き流を見る。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
五老峰第一峰 (廬山)
廬山奇峰多しと雖も、五老峰は其の著名の一高峰、宛々として數里に亘り、其の間聳えて奇峰を成すもの五、以て五老峰の名を有する。皆奇岩怪石を以て成り、泉は其の下に鳴り、風は其の上に嘯く。李白に詩がある。|廬山東南五老峰 青天削出金芙蓉|九江秀色可攪結 吾將此地巢雲松|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
御碑亭 (廬山)
亭は仙人洞に近く、鄱陽湖を俯瞰する眺望絕佳の丘上に立ち、中に藏する明の太祖の御製『周顛仙碑』によつて其の名がある。石造廣さ約一丈四方、四面皆展け、立でば廬山の萬觀を肆にすることが出きる。亭中の聯に言ふ。|四壁雲上九江棹|一亭煙雨萬壑松|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
牯牛嶺 (廬山)
廬山は江西省星子縣に在り、古來其の景勝を以て響いては居たが、更に其の名をして東洋的否世界的ならしめたるの因は、近く之を外人の避暑地として許したる始まるに。蓋し牯嶺は Cooling である。|牯牛嶺の山腹に群り連なる白亞赤瓦のあたり邊邑の山上には今別世界が作られた。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
東林寺 (廬山)
昔の名知識慧遠禪師の住みし故事に名高き東林寺は、後漢以來數多き廬山寺院の中にも名刹として聞えた寺であつた。然し其後春秋幾度か革り、今は訪ぬべき名に應相しからぬ形ばかりの一構が僅に其の趾を語つてゐる。|唯巨刹の樓屋は時と共に潰えたれ、變らざる松籟と明月とが今に祖師の雅懷を傳へる。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
白鹿洞の枕流 (廬山)
觀音橋を過ぎて數里、參天する松樹の林を潜りて行く。綠蔭必らず水聲あり、水流必ず架して小橋あり、進んで橋上「名敎樂地」の字ある門を潜れば即ち白鹿洞書院である。|後には松籟頻りに鳴り、前には潺々の水聲を聞く。この小流の岩頭に刻む「枕流」の二字は朱熹の書とか。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
招隱泉 (廬山)
泉は三峽橋の東側に在り、陸羽その水を品して天下第六泉と為せりと傳へ、故に別名を陸子泉とも言ふ。石造の龍首淸麗の水を吐き一掬萬暑を忘れしめる。|境地閑寂を極め、廬山の中亦自ら舊革命人傍に庵を結んで隱るとか。招隱の名も理である。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
大道の懸岩 (廬山)
廬山の山道は多く嶺頂山腹の險阻を縫ふて走り、奇岩怪石は屢々逼つてその大道を塞ぐ九江より牯嶺に進めば、小天池の近くにこの大岩石大道を壓して行人の膽を冷すのだ。|とまれ文人墨客の遺筆を訓める名勝の間に今麗々しくも書れた婦人藥の廣告は、新しき支那の姿を如實に物語るものではないか。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
白鹿洞書院 (廬山)
宋以來儒學の振興に見逃すべからざるこの講學の府は、天下四學の一として其の後幾多先代の賢哲を養ひ來つたが、民國に入つては江西農業學校の校舎に流用さるゝの悲運に會ひ、今はそれさへも止んで、堂屋は朽ちるに任せ支ふるものもない。風籟と共に殘るべきは僅にこの一基の碑のみであらう。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
婆娑寳樹 (廬山)
婆娑寳樹は、往昔の名刹黃龍寺の遺跡を示す巨木である。傳へ語る所に聞けば、今は二千年の昔、晉代の僧曇說が西域から此所に移植したものだと言ふ。|今在るは三株、何れ後人が植ゑ繼いだものではあらうが、亭々として群木を壓して立ち高きは高さ十數丈、亦廬山の一名勝である。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
敦化遠望 (吉林省)
邊鄙の一小都敦化の名は、馬賊と行手知らぬ移住民以外の人々にとつては、決して親しみの舊い名ではなかつた。然るに今や突如としてこの町の名が、滿洲と朝鮮―支那と日本とを絡ぬべき一線の忘るべからざるポイントとして、世人の耳朶を打つたのだ。|宛々としてのた打つ山脈下の幻の町の姿よ|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
關帝廟の飾瓦 (敦化)
人口僅か一萬三千の町にも關帝廟は嚴な存在である。|築くべき町の城壁は低き土壁に甘んじ、住むべき家さへも怪氣な泥塗りにすましても、祀るべき關帝の樓屋だけは類稀なる煉瓦を積み上げ、そしてその屋根の上には、かくも華かな飾瓦が四隣を壓して市民の尊崇を誇つてゐるのだ。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
貨物は馬の背で (敦化)
其の背に萬百の雜貨を負ふた驢馬の列は、去る日も來る日も、東から西へ、敦化へと歩き續けてゐた。西を重疊の大山脈に塞かれた敦化には、物資は多く朝鮮からかうして流れ込んでゐたのだ。然しかく絡繹として野を畑を絡り續けた馬群の鈴の音も、鐵道の開通と共に著しく其の數を減ずるであらう。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
野花咲く平地林 (吉敦沿線)
吉林と敦化とを連ぬる吉敦鐵道の沿線は、千古斧を入れざりし大森林に埋つてゐた。そして今、かうした平地林は次第に伐り開かれて、或は鐵道の敷地となり、或は新しい耕地が移住者の一鋤毎に作られて行く。|名もない野花が一面に咲き亂れた低濕地はかくて美田と化すべき人の手を待つてゐる。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
深林を貫く鐵路 (大沙河附近)
千古の處女林が、新しい機械と人の手で無慘にもかく伐り開かれ荒されて、盛られた土の上には、やがて鐵のレールが敷かれて、眞黑い鐵の怪物が唸りを擧げて走るであらう。|人々はこれを破壞と云ふ。然しそれは單なる破壞ではない。創造であり建設である。無心の木立も今新しき價值を今授けられんとしつゝあるのだ。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
頂上の廟とローマンス (老爺嶺)
天嶮老爺嶺の難道は、東から西から、この頂を踏んだ程の人達に、何よりも先づこの廟に額いて、その日の無事を謝し行手の幸を禱らしめたのだ。そして匪賊さへも寄捨して過ぎたこの廟が、その昔から攫はれた人質と身代金との交換所であり、廟後の松の木には、人々の數々の恨みが今もまざ(まざ)と刻み殘されてあるとは、何と云ふローマンスであらう。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
山中に築かれた文化 (老爺嶺隧道西口)
海抜一千四百米、人も馬も泣いて越えたこの嶮難も、これからは居眠つて越せる。その山腹を穿つて西から東へ文化を傳ふべき自然との戰の足場は、この幾棟かのバラツクであつた。爆藥、電氣、壓搾空氣。機械と人とが勇敢に此の天險を征服する原動力は、この森林中のバラツクであつた。私は敢て之を山中に築かれ文化と言ふ。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
溪谷を流さるゝ木材 (老爺嶺附近)
吉敦沿線と至る所山と水の美を併せ有する。山は木々に埋り、谷には淸玲の水が走つて、滿洲と言ふ概念からは到底歸納し切れない別天地を形作る。その間から伐り出された木材は、かうした溪谷を縫ふて流される。|やがて車窓にこの風光を見む人々の胸には、如何なる思出が描かるるであらうか。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
氷上の馬宿 (吉林)
風光京都に似ると傳えらるゝ吉林も、冬となれば寒威零下三十度を下る。|大松花江は厚さ二尺餘の堅氷に蔽はれ、人馬の交通は主としてこの氷上を撰ばれるのだそして河岸に近き氷上にはかうした馬宿さへも造られ、夕べともなればこの雪の宿には、おのがじゝ橇を着けた牛や馬の群が、鈴を鳴らして集るのだ。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
吉林富士 (吉林)
吉林富士の名は、吉林在住邦人たちの、故國を偲ぶせめてもの心遺りである。對岸に投げ出された名もない摺鉢山に、彼等が一議なく富士の名を附した心事は、海外に住ふ程の誰しもが、等しく同情出きることに違いない。そして鳥居博士は此の山を『確かにチヤシの跡で、麓の畑から出た石器、土器等から見てそれと關係のある堡塞であり、石器時代に於ける立派な遺跡である』と發表された。|(一九二八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
龍井村市街 (間島)
間島第一の都會龍井村の色彩は、內地人一千、鮮人一萬一千三百、支那人三千、歐米人六十の人口統計が、何よりも雄辯に其の特長を物語る。|南方の溪谷各溝を集めた六道溝河が、海蘭河に會流する交叉河畔に在り、今を去る二十五年前には、移住鮮人等の陋屋百戸に足らざりし寒村と聞けば、今昔の感に堪へざらしむる。|(一九二八、八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
河畔に集積せる木材 (龍井村)
間島地方の中央平原地一帶は、尠からざりし森林を既に伐り盡してしまつたけれども、これを取り卷く山脈は、今尚無盡藏と稱せらるゝ美林に埋つてゐる。|その西南山脈一帶に伐られた木材は、多くこの海蘭河によつて龍井村に集められ、前方遙に見る天圖輕便鐵道によつて各地に捌れるのだ。|(一九二八、八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
北門の一鎖鑰 (會寧)
天正十九年七月二十四日、遁走せる王子を追ふて長驅北走せる加藤淸正は、逐にこの會寧に入つてその二王子を生擒し、かくてこの町の名は、秀吉の朝鮮征伐史にして既に記入された。|今や支鮮交通の一エポツクとして、吉會線は計劃せられ、この町の名が新に吾人の耳朶を打つ。豆滿江畔の一關門は、かくして今日も尚多忙である。|(一九二八、八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
五國城址なる雲淵碑 (會寧附近)
今を去る八百餘前、女眞族の構築せる五國城址は、會寧の西四里の雲顯山上に在る。|西北二邊は豆滿江に臨み、峻嶮絕壁の天然の一要碍を利用し、後年金の太祖も亦之に據つたと言はれ、城内の一木一石何れも古き由緒を語るが中にも、一井の傍にこの碑石ありその文字宋の徽宗の手に成るとか傳へらるゝも憐である。|(一九二八、八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
武裝せる荒廢の城門 (茂山)
間島馬賊の名は、久しく豆滿江下流一帶の地を震駭せしめ、時に不逞の徒も之に加はつた。豆滿江に臨み、西部間島との貿易上重要市街として、そして又女眞高勾麗の遺跡に富む朝鮮嶺茂山も亦、時にこの災厄を免るゝことは出きなかつた。|荒廢に任せられた城門には、かくも嚴しい武裝が施され、崩れた樓門と電線と鐵條網とが、今や奇妙な時の交錯を物語る。|(一九二八、八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
北鮮生活の片鱗 (茂山附近)
所は茂山の溪谷、やがて豆滿江に注ぐべき一支流の午下りである。美しい綠の洲を縫ふて流れる淸玲の水が、潺々と覆もない精米所の樋を走つて、やがて荒削の溜舟に滿ちた水が覆れば、自然石の搗臼の凹みには、氣狂のやうに原始的な響を擧げて杵が反轉する。|洗濯の餘念ない婦人達の背に白い光が流れる。北鮮の一日はかうして暮れて行く。|(一九二八、八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
日支國境線 (豆滿江)
見よ彼我相迫れる山容を|長白山東麓に其の源を發する豆滿江は、宛々東流すること百三十餘里、國際法上嚴然として日支露の一國境線である。然し乍ら法律上の國境は必ずしも事實とは一致しない。一水の彼岸は支那領とは言へ、點々として指呼する家屋は悉く鮮人部落であり、河を越えて彼岸に住む鮮人は實に四十萬に達するのだ。|(一九二八、八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
急流を走る筏 (豆滿江)
洋々海の如き鴨綠江の筏には、進みて運ばざる筏の歩みと共に、舟人をして筏節の詩情を起こさしめ、かくて鴨綠江の流筏をして不朽のものたらしめた。然し同じ山頂に出で東流する豆滿江は發して止ることなき奔流である舟人は只管に揖に心を奪はれ、概して歌一つの隙間さへも與へられないのだ。豆滿江の筏節とは多く世人の附會作に過ぎない。|(一九二八、八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
淸津港 (北鮮)
淸津は天成の良港である。波浪荒き朝鮮東海岸には得難き良港として、其の名は久しく世上に喧傳されて來た。從て今突如として吉會線の終端港として、其の名が撰ばれたと報導されても、世人は一向驚かなかつた。|北に山を負ひ巧に風波を和ぐる天與の地位は、港內の浚渫と相俟つて、將來名實共に北鮮第一港の名を高からしむるであらう。|(一九二八、八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
朝日に輝ける七寳山 (咸北)
雲外に超然として聳え、旭光を浴びて麗に輝ける奇峰は、北鮮の名勝七寳山の雄姿である。山は奇岩怪石の妙を以て聞ゑ、又その山麓に七寳燒を產することを以て知られる。地は咸北線古站驛より四里餘に在り、山道は相當險難ではあるけれども、風光の雅致は塵外の佳境として古來文人墨客の杖を牽かしめ、其の名は夙に内外に知られた。|(一九二八、八撮影)(印畫の複製を禁ず) -
昌黎城展望 (河北省)
展開せる大平原を控え、箱の如き城壁に取り圍まれ、一基の古塔を有するこの壯大なる町は、その昔韓退之の故郷とし、今京津を撤去せる奉天軍前鋒の駐在地として有名な昌黎城である。|城壁は周圍四里人口三萬と號するけれども打ち續く兵亂に商況は微々として振はない。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
昌黎廟の門關 (昌黎)
長城の基點に近き東邊の僻地に、韓退之文公の祠を訪れ得るのは、意外な發見である。退之はこの昌黎を故郷とし、その遠裔は今もこの町に住んでゐるとさへ傳へられる。|屋根は雜草が一杯に生え盛つた祠門の兩側には、手垢に光つた石の高麗犬が奇怪な眼を光らせ、柱の春聯には、名は佛骨に因つて千秋に顯る云々の句が、破れかゝつてゐる。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
神としての韓文公 (昌黎)
華かなりし唐朝有數の論客とし、又古今の文豪として不朽の名を有する朝愈字は退之先生は、昌黎なるその祠の正殿には、今日も猶威儀端然として鎭座ましますのだ。|今薄暗い部屋の神壇上に之を仰ぐ。當年佛骨迎引の非を鳴らし、その所信の為には道途八千の潮州に貶せられ、雪の藍關を越ゆるをも辭せざりし彼の風貌が、何となくなつかしまれる。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
城隅の古塔 (昌黎)
昌黎城の南東隅には、構築頗る古雅を極むる一基の古塔が、謎の如く聳え立つてゐる。|建立の年代を明にせず、從て建立者の名も定かではないけれども、後には巍峨たる連峰を負ひ、麗な陽光を一杯に浴びて、澄み切つた秋空に、くつきりと浮ひ出た塔の姿は、こよなく美しいものである。|とまれ塔は少くも明代以前のものか。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
聳り立つ奇峰 (昌黎)
昌黎城北方一哩に聳り立つ一座の奇峰は、其の名を觀音山と呼ばれる。恰も長城と相呼應する烽火臺の如く、宛々たる連峰の間に兀然として立つ峻峭崎嶇の山容は、昌黎の奇勝であり偉觀である。山麓に觀音を祀る一小廟あり、山名は之に因むとか。|附近に碣石山あり、禹貢に言ふ碣石山なりと傳ふるが、眞偽は俄に判定し難い。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
樓門莊嚴 (山海關)
聳え立てる二層の樓門は、名に負ふ榆關の西門である。榆關は人も知る長城の基點として關外關內の分界點、この關を一歩出づれば既に關內である。|春秋の變遷には、幾度かこの門をめあてに鎬を削られしことか。毀れ落ちんとする城壁のあたり、雜草徒に伸びたるも憐れである。|今城内は後退の奉天兵に埋り、新たなる展開を待つ。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
奇勝玄陽洞 (山海關)
西門を出で長城を越えて西北に走ること十八支里なれば、山間の一溪谷に至る。溪間には白亞の庵一構え、形いとゞうら淋れて、道士の庵には相應しい住居である。そしてその奇は背後の奇岩絕壁に在る。|美しい石段を攀ぢれば一洞あり、薄暗い洞内に祀られた佛像の怪奇な印象が、何となく襟を正さしめる。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
山居樓賢寺 (山海關)
山中曆日なしとは、かうした山寺の生活をこそ言ふのであらうか。後には名立たる奇峰群山を負ひ、前には紺碧の渤海を望む。棲賢寺はこの塵外境に存在する。|時と共に人は去る。寺の名は今は單なる名詮自稱とは言へ、紅葉の山間、麗に暮るゝ小陽春の山寺の秋は、俗人にも亦羽化登化の氣を感ぜしめる。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
小蜀峽二郎廟 (山海關)
南には聳ゆる翠巒、西には負ふ萬里の長城、榆水は北より來つてその脚を繞る。|古來この山頂に遊びし文人墨客が、長江三峽の景勝に比して、小蜀峽を名けたのも相應しい別名である。|廟はその首山の頂に建つ。堂宇の傍には老櫻二三株老松一株、蜀峽にしては白帝城にも比すべきであらうか。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
城外の土饅頭 (山海關)
累々として見ゆる限り續くこの土饅頭の荒地は、城外の墓地である。|死者あれば葬送し、其棺を墓地に据え置くこと數月或は數年、棺材朽ちんとするに至つて始めて其の上に土を蔽ふ。|土饅頭には多く石牌もなければ水受もない然し墓は極めて重んぜられ、祭祀は子々孫々まで續く。墓地はかくて日にその廣さを増す。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
美しき長城 (山海關附近)
傾ける、夕日を受けて僅に蔭ろへる長城の、淋しくも亦美しき姿よ。|大長城の背景には、創建者始皇帝の名と、この砦を境として戰ひ續けた民族闘爭の歷史とはあれ、長城は永遠に存在すべき他の一つの意義、それ自身の形作る美的存在がある。磚壁や墩は傷しく崩れ落ちても、踏みつけた一筋の足跡にも長城の美しさは殘るのだ。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
長城の突端 (山海關)
東經百二十一度に始つて、九十七度に及ぶ世界第一の大長城の東端は、山海關縣城の南二哩の海岸なるこの老龍頭である。|この渤海の岸邊に起れる長城は、北に進んで先づ重疊の亂峰の背を縫ひ、更に三道關九門口を連ねて西に走り、直隸山西より陝西と蒙古との境を過ぎて再び黃河を渡り、遠く甘肅の嘉峪關に達する。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
峰を攀づる長城 (山海關附近)
とまれ長城の本當の姿は、紙の上に數字を以て語らるべきではない。峰を渡り谷を過り蜿々として雲際にのた打つ大長城は、その昔存在せし專制君主の偉大なる權力と、そして人間の努力の偉大さを記念する劃時代的建造物である。雜草生ひ茂つて今は崩れ落ちた石垣のあたりに、去り難き懷古の情を起さしめる。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
物々しき天下第一關 (山海關)
天下第一關とは、山海關の東門の別名である。老龍頭に起つた大長城は、この關門を連ねて北に走る。從てこの樓門を持つ城壁は長城の一部であり、正に天下第一關である。|樓門上天下第一關の篇額は、もと乾隆皇帝の震筆になれるものを掲げたが、後その正額は之を樓門內に藏して、今正面に見ゆるものは民國以後に掲げた代品である。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
城內俯瞰 (山海關)
人口五萬と號する山海關は、京奉沿線中第一の都會としてこそ數へらるれ、その重要の意味は只軍事上の必要に限られ、商業都市としての山海關は、商況更に微々として振はざる一小都市でしかない。|城内繁華の通も、道は狹く家は低く、行人と店頭の商品に觀れば、全く純然たる田舎町である。只物々しい軍人の多きことよ。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
城外の羊群 (山海關)
近き數年の行事に數へて、山海關は既に幾度戰爭の渦に捲き込まれたことか。萬里の長城を中心としたる血腥き爭闘は、今日も尚千五百年來の歷史そのまゝに、人々はかくて戰爭を恐れつゝも既に馴れてしまつた。|一度は風の如く西へ進んだ奉天軍が、今又その都を逐はれて山海關に舞戻つた。風は既に腥いが、城外には無心の羊が群れ遊ぶ。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
棲賢寺の眺望 (山海關)
この大和繪の如き一幅の繪は、曆日なき山居棲賢寺前庭の眺望である。敢て之を大和繪と言ふのは、脚下に起る山と水との形作る線のふくよかさからである。眼を擧げて遙に渤海の煙波に及ぶ展望の雄大さは、南畫の筆致も描き得ざる絕景緻である。そして更に、山上より觀る日出の展觀は古來雙絕と聞くならば、世人の支那風景觀は今改むべきである。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
客を待てる轎車 (錦州)
客用の自働車は勿論なく、人力車さへも極めて僅しかない錦州では、驢馬と轎車とが、今尚殆んど唯一の交通機關である。彈條のない車體で、然も幌の中では滿足に足も伸せないこの轎車が、勿體なくも城内外の交通を支配してゐるのだ。|城門のほとり、既に傾きかけた日を浴びて客を待つ轎車群が、人口八萬とは言へ何となく生氣のない錦州を如實に物語る。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
名勝觀音洞 (錦州)
觀音洞は錦縣の北方十八支里の地點に在る錦州第一の名勝である。|北面には聳え立つ山を負ひ、その中腹に二洞あり、この由緒あり氣な觀音閣は、その洞前に建てられてゐる。閣前には松樹多く、松籟常に絕えざるの塵外境、山道は美しい白石を敷き、その諸所には亭を設け、文人墨客等の禮讚の句を刻む。參詣人もない山寺の秋は、こよなく麗である。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
小凌河渡涉 (錦州)
錦州の南を流るゝ小凌河は、南から縣城に入るものゝ必ず涉らなければならない河である。汽車の為に鐵橋が架られてゐるが、一般の車馬は通じない。平時は皆渡船によつて運ばれるのだ。|然し秋更けて水落つれば、更にその一部を渡涉出きる。を水煙立てゝ横ぎる大車群の渡河は、實に一大壯觀である。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
蘇東坡の讀書樓 (嘉定)
一世の文豪蘇東坡は四川省眉山縣の出である。文運盛なりし宋代、博學老泉を父とし、俊才穎濱を弟として生れ、長じて英宗に仕へたが王安石の新法を誹議して貶せられ、地方の知事を歷任しつゝ只管詩文に心を傾け、遂に文を以て大成した。|家鄉に在るの時、彼はこの嶺雲山上の風光を愛し、山上に樓を營んで易經を註したとか。|(印畫の複製を禁ず) -
泯江の渡船場 (嘉定)
重慶から成都への客人も、成都から重慶への旅人も、此所では必ず一度この泯江を渡らねばならない。|泯江の濁流は物凄い渦を卷いて走る。怪し氣な渡舟は大の男が四五人もかゝつて、遙か上流に曳き揚げてから中央に乘り出すのだ。|昔巴蜀の地を逍遙した文人墨客も、皆この渡船を利用したかと思ふと何がしら懷古の情を誘はれる。|(印畫の複製を禁ず) -
美はしき自然林 (灌縣)
陽峰十八、陰峰十八、大蜀平原を眼下に展望する五千尺の靑城山は、靈峰峩眉山と相對して四川平野の西北に屹立し、その峻峰は大峩眉の西岳と呼ばれ、天下名山の一つとして數へられて來た。|わけても美しいのはその山上の自然林である。千年の巨樹鬱蒼として繁り、入るものをして一種壯嚴の氣さへ感ぜしめる。|(印畫の複製を禁ず) -
山上の道場朝陽洞 (灌縣)
懸崖と樹々の間をくゞりぬけた陽の光が、麗な山の生活を物語る靑城山の朝である。|大洞八、小洞七十二と云ふこの山の仙洞の中でも、古來道士修業者第一の道場として數へらるゝ朝陽洞では、勤行の看經も既に濟んだらしく、内からはかたりと云ふ物音もしない。只開け放した窓のあたりから、かすかにもれ出づる香だけが、この山の唯一の人の氣配だ。|(印畫の複製を禁ず) -
蜀漢の名に光る王城趾 (成都)
今四川省の首都成都の地は、その昔三國の雄蜀漢の帝都であつた。蜀王劉備はこの帝都を本據として立ち、遂に長江下游の吳とに天下の覇を爭ふたのだ。|王城も今は僅に其の名を紀念する一個の名所に過ぎない。然し康熙帝の震筆と云ふ「為國求賢」の篇額の門のあたりに佇めば、三國志の英雄豪傑共の面影が漫に浮び出る。|(印畫の複製を禁ず) -
日本の町に似た街路 (成都)
人口六十萬、成都は四川省第一否支那有數の都會である。人口七百萬を擁する所謂成都大平原の中央に在り、名實共に四川第一の都である。|それにしてもこの家並の日本に似たることよ。無腰で洋傘をさした軍人、頭に扇子を翳す纏足婦人等、二三の人物をこの繪から消し去るならば、これを東京の場末だと言つても或は誰も不思議がるまい。それのみか舗道の立派さは、その東京を忸怩たらしめる。|(印畫の複製を禁ず) -
素晴しい日除け (成都)
「少見多怪」の意を寓した蜀犬日に吠ゆの句は、誤つてよく吳牛月に喘ぐの句と對用される。四川はそれ程に炎暑の地だ。|とある町の大通り、中華書局の成都分局の素晴しい日除けである。店に入ればこれは又偉大な大團扇を天井から吊下げた扇風器を、小僧が命令一下紐を曳いて搖り動かす。然も奥から出て來た主人と言ふのが、六尺豐の偉丈夫、今孔明と云ふ程の男だつた。|(印畫の複製を禁ず) -
蠟虫の飼育 (嘉定)
蠟蟲による白蠟の採收は、一時歐洲の視聽をさへ集めた程の支那の特產品である。蠟虫を木犀科の植物に這はしめ、その排泄物によつて白蠟を自然本來そのまゝに採取するのであつて、滿洲附近で野蚕を飼育するのと同巧異曲である。|四川は支那に於ける白蠟の本場であり、嘉定附近は更にその中心である。|(印畫の複製を禁ず) -
地中から鹽を汲む町 (自流井)
四川省に於ける山鹽の最大產地自流井は、南溪縣城の北一四〇華里に在り富順縣に屬してゐる。數字的に説明すれば鹽井の所在地は約七十方哩に及び、一年の產額は約三百萬圓に達する。|遠望する櫓はその鹽井である。井戸の口徑五六寸、深さは千五百尺より時に二千尺を超える。汲み出しには竹筒を用ひこれに竹索を附し、悠々牛を使つて卷舒させる所はどこまでも支那式である。|(印畫の複製を禁ず) -
やめられぬ罌粟栽培 (四川)
阿片の害が叫ばれたのは昨日や今日のことではない。支那政府も亦早く禁令を出して之が栽培を嚴禁した。然し為政者は税金の為にそして農民は救ふべからざる習慣の為に、原料罌粟の栽培は支那全國公認の事實であり、四川省だけかその例外ではあり得ない。|結實すれば夕方その果に傷を着け、翌朝分泌物を採取して精製するのである。|(印畫の複製を禁ず) -
バンドの午前八時 (上海)
春まだき頃のどんよりした空が、低く黃浦江の川面にまで蔽ひかぶさつて、水面を撫でる風がうすら寒いある日、上海バンドの朝である。|立並ぶ大洋舘の申し合せたやうな沈默。その頂上にはユニオンジヤツクも、日の丸も、星條旗も、朝靄にしつとりと首垂れてゐる。まだやつと眼がさめかけた町の姿だ。|(印畫の複製を禁ず) -
十六舗海岸の正午 (上海)
空はまだ晴れない。|でも久し振りの雨上りだ。用のない舳舨では、洗濯もどうやら片着いて丁度晝飯時だ。|どの船も鬱陶しい天幕の屋根を撥上げて、何となく春らしい陽氣を指先にも感じ乍ら、そゝくさと飯を掻き込んでゐる船の上に、碇泊の外國軍艦から喇叭の音が流れて來る。子供が茶碗を抱へたまゝ舳に飛び出した。|(印畫の複製を禁ず) -
バンドの午後二時 (上海)
滿潮の水が、バンドの石垣にひた(ひた)と押し寄せて來た黃浦江の午後二時だ。街路に溢れた人の浪が、潮のやうにバンドの石疊に押し出されて來た午後二時だ。|人、車、舟、荷物、陸から水から、バンドに流れ寄せるもろ(もろ)の軌る音、喚ぶ響、樣々の雜音が、支那料理屋の油鍋のやうに物凄い叫び聲を擧げでゐる午後二時だ。|(印畫の複製を禁ず) -
黃浦江の午下り (上海)
麗な日が、どす黑く濁つた水の上にも一杯の暖さを投げかけてゐる午下り、女ばかりの一艘の舟が、のたり(のたり)と上つて行く。急ぐ必要もなささうな悠長な櫓の音が、いやが上にも彼女達を囀らせて、子供達に言葉一つかけてやらうともしない。|上海の空は眞黑の煙に包まれてゐる。黃浦江上の舟人は正に春だ。|(印畫の複製を禁ず) -
江南の運河 (其の一)
場所は物靜な蘇州の町、その由緒ある城壁を忍び入る運河の姿である。|嚴しい水門には今は扉もない。扉のない門のアーチ形の穴から覗き込んだ日の光が、くつきりと城壁の幅を水の上に落してゐるのに極く新しく造られたらしい一枚の石橋が、運河を邪魔者扱にして、つんと澄した所がこの頃の支那の一つの姿だ。|(印畫の複製を禁ず) -
江南の運河 (其の二)
水郷江南では、自然に發達した運河が丁度網の目のやうに絡れて、村から村へ、村から町への通路も、大方はその運河である、|近代工業が如何に發達し、工場の煙突が運河の岸に群つたとしても、彼等は先づ運河を利用するであらう。|大工場、眼鏡橋、鐵柵の洋舘、民船、これも一つの新支那風景ではある。|(印畫の複製を禁ず) -
江南の運河 (其の三)
月落ち烏啼いて霜天に滿つ、|江楓の漁火愁眠に對す、|胡蘇城外寒山寺、|夜半の鐘聲客船に至る。|その昔張繼をしてこの名句を成さしめた楓橋は、即ちこの橋の傍であつた。水も橋も昔に變らず、寒山寺の甍も亦間近い。草舟夜泊の子にもこの詩情ありやなしや。|(印畫の複製を禁ず) -
江南の運河 (其の四)
江南の水都では、鐵道の引込線の直ぐ側に運河の民船が横付される。積込むべき荷物も卸される荷物も、無雜作に運河から運ばれ運河に卸される。だからこの附近ではその運河が町の表通路でさへある。|貨車から投げ下された木材は、今編筏の最中である。出來上つた筏はその町の水路を縫ふて又運ばれるのだ。|(印畫の複製を禁ず) -
城外の奇橋 (蘇州)
蘇州城外の奇橋寳帶橋は、遠く漢に始まり刺史王仲舒が其の束帶を賣つて工費を援けたと言ふ因緣に因む素晴しい橋だ。石橋長さ千二百尺穹窿形の格脚は五十三を數へる。|今橋の上に無造作に叩き込まれた不格好な幾本かの電柱、これも新支那風景だ。|(印畫の複製を禁ず) -
水に映る木影 (杭州)
春は先づ水の傍にめぐむ。|水際に草の芽が萌え出せばやがてその水に影を落した木々の梢がふくらんで來る。|萌え出づる春の氣配は靜かだ。|小波一つない池の面に、參差たる木々の枝が相交つて、小鳥一つ飛ばふとしない水の溫み、三潭印月などと彫り込んだ碑石の、文字の濃さが殊更の眼觸りである。|(印畫の複製を禁ず) -
平原の町濟南 (山東省)
春靄の中に糢糊として橫はる平原の町は、歷城濟南の姿である。|濟南は山東半島の背梁を成す泰山山脈の一支派が、黃河の畔に盡きる所に存在し、之を今南方千佛山頂から俯瞰すれば、宛然活動寫眞のセツトの如く、東西に長く南北に短く雜然として擴り、餘り高くもなささうな城壁が、景色を更に廣漠の感あらしめる。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
城根を繞る濼水 (濟南)
遲日は、城壁を、家屋を、水面を一杯に輝かしてゐるけれども、岸邊の柳さへもまだ芽ぐまない早春の或る日の城外である。|濼水の美しい水が、かうした靜り返つた景色を寫し乍ら、音もなく流れてゐる。冷い水にはまだ鵞鳥一つ泳いでゐないが、柳の梢が稍靑ずんでゐると思ふ故か、水までが何となく溫い感じだ。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
破られた濼源門 (濟南)
濟南の築城は、遠く戰國時代に遡つて考證されるが、今日の規模を以て營まれたのは明朝漢武年間のことと府誌は傳へる。其後度々修繕はされたが、依然その當時の規模を傳へて今日に至つた。濼源はその內城の西門に冠せられた名であつて、今度の五三事件では日本軍の砲彈が、歷史を人を、木葉微塵に吹き飛ばした。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
歷下亭にも春淺し (濟南)
濟南七十二泉、匯して明湖となる。―かく詠はれた內城第一の景勝大明湖は、會する水は少くなつたが、淸水は渾々として湧き、今尚內城の三分の一を占める。|その湖畔鵲華僑から畫舫を進めて東北に向へば、やがて一島に着く。歷下亭はこの島上に在る。樓上の眺望は杜子美李北海を煩さずとも、正に湖中の更に第一景である。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
湖畔に聳ゆる北極廟 (濟南)
北極廟も亦大明湖の名勝であつて、北斗七星を祀る靈廟である。|創建の年代は明でないが、湖畔中第一の高所に建てられ、眺望の雄大は寧ろ歷下亭に勝ると言はれる。|殿中には蛇を乘せた銅製の龜を置き、參拜者はその背を撫でゝ意中を祈る。どこまでも北極廟らしい緣喜ではないか。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
太公望の名に殘る黑虎泉 (濟南)
太公望呂尚の生國は明でない。東海のほとりの人、經世の才を抱き乍ら、只管に釣魚に樂んでゐたが、年老いて或る時漁して周に入り渭水の畔で釣つてゐる所を文王に認められ、逐に之に仕へたと云ふのが其の傳說である。|釣れますかなど文王側に寄り|川柳氏は仲々穿つてゐる。黑虎泉は彼が釣を樂んだと云ふ傳說の故蹟だ。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
奇勝趵突泉 (濟南)
平原の町濟南は、又水の都である。城內到る所に泉あり、古來その名あるもの七十二を以て數へた。趵突泉は其の第一泉である。|今は儘に四五寸の高さに湧出突起するに過ぎないが、嘗ては爆流又は檻泉と言はれ、三尺或は數尺の高さに飛び、其の響雷の如しとあるから素晴しいものであつたらう。|とまれ春日遲々、濟南の一奇勝ではある。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
路傍の聖人 (濟南)
趵突泉境內の賑かな大通り、念珠を撮つて徐に誦經する一沙門の姿は、名物の乞食ではない一修驗者の尊い努力だ。|立ち止る人なく其の靴に一錢を投ずる人なくとも、彼は莞爾として戎律を背に誦經を絕たない。末法の世にはこの山を下りた聖者の言に耳を傾けて見やう程の篤信者は小半日經つてもないが、春の陽ばかりは萬民一樣に溢れてゐる。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
千佛山寺廟 (濟南)
南關圍子門を出て南すること五支里にして千佛山麓に達する。山はさして高くない。楷樹の間に通じた一道の石段を昇れば、間もなく中腹にこの千佛寺を發見する。|寺は舊く唐の貞觀年間の創建、重建に重建を重ねて今日に至つたが、千佛の名に負ふ石佛も心ない寺僧に全く俗惡に塗りつぶされ、唯嬉しいのは黃河に及ぶ濟南平原の大眺望だけだ。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
小淸河の歸帆 (濟南)
小淸河は濟水の別名である。濟水は禹貢にその河道を記載された程の古い河で、濟南の名もその南に當ることによつて名けられた。|黃河が其の名の如く黃濁せるに對し、淸河は其の名の如く淸澄を以て聞え、然も黃河は大にして水運の便なく、後者は小にして良く水利の便に富む。九曲の水路を縫ふて走る平原の帆の影は、矢張り一つの繪ではある。|(一九二九撮影)(印畫の複製を禁ず) -
黃河の渡船場 (濟南附近)
黃河の源流はその名を阿勒坦と呼ばれる。阿勒坦とは水色黃なりとの意ださうだ。黃河は水源にして既に黃色いのだ。沙漠を洗ひ黃土の山を貫き、其の長さ二千五百哩、この下流附近に於て其の水は益々黃色いのだ。|河幅約一哩半、黃色い河面が泥沼のやうに擴つてゐる濟南北方の渡船場である。然し三月の水には何となく春の香がある。|(一九二九、撮影)(印畫複製を禁ず -
今や濼水は小淸河に合してしまつた。戸口一千五百とは稱すれ濼口鎭は物寂しい町だ。|(一九二九、撮影)(印畫複製を禁ず)
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孤峰華不注山 (濟南附近)
華不注と言ふ山は、濟南の東北十五支里の平野の中に、しよんぼりと取り殘された山であるが、その山容の奇觀と、その眺望の雄大とを以て、濟南の一絕勝に數えられる。|李白によつて綠香芙容の如しと形容された山頂に立てば、黃河は雲際より來つてその北麓を浸し、小淸河は濟南七十二泉を合してその南麓を洗て大觀を肆にする。|(一九二九、撮影)(印畫複製を禁ず) -
華不注山下の廟 (濟南附近)
奇勝華不注山下には、崇正祠と名くる幽邃の一廟がある。その庭には古き來歷を語る柏樹鬱蒼として繁り、廟宇も亦小さくない。|然しその最も觀るべきは春風蘭な頃である桃木悉く花を以て彩られる春となれば、仰いでは靑空に屹然として聳え立つ芙容峰を觀、伏しては小淸河の萓葭の間を出來する白帆を望むてふ、漢詩式の景色が見られるのだ。|(一九二九、撮影)(印畫複製を禁ず) -
有難い藥山 (濟南附近)
支那各地の賣藥店で、どこでも賣つてゐる陽起石の本場はこの藥山の頂だとされて來た省城の西南十二華里の所に在つて、山はさして高くないが、黃河の流を控えての廣大な眺望は、又濟南の一名勝とされる。山頂にはこの萬壽廟があり、傍には更に娘々廟も祀られてゐる。その產する陽起石は陽精の妙藥で、その上壽と婚との神樣まで揃つてをれば、支那式に全く申分ない所だ。|(一九二九、撮影)(印畫複製を禁ず) -
閔子騫の祠 (濟南附近)
論語の中に、孔子が孝順の手本として顏淵と並べてその德行を稱した閔子騫の墓は、今遠く三千年の歳月を隔てゝ、尚省城の東方五華里の地點に殘されてゐる。|境內は荒れに荒れて、幾度の重修を經つゝ今は顧みる人もない廟宇の中に、くすぼつた閔子の塑像が祀られてゐるのが淋しいが、庭前の老柏に何となく先賢を偲ばしめる。|(一九二九、撮影)(印畫複製を禁ず) -
李攀龍の墓前 (濟南)
大儒李攀龍の名も、今人にとつて全く緣の薄い名である。然し彼は濟南の出身、明朝の磧學とし且唐詩選の撰者として、我が荻生徂徠一門に祖師と仰がれ、その學說が日本に於ける漢學の大系を型つたと聞くならば、吾人に取つて眞更無緣の人ではない。|墓は今この商埠地外に在り羊豬の踏むに任する石人石獸も憐れである。|(一九二九、撮影)(印畫複製を禁ず) -
秦叔寳の故宅 (濟南)
唐代の勇將秦叔寳は、支那の一般民衆に非常に親しみの廣い名だ。その武勇を物語る小説やその豪快を歌つた皷詞などは、張三李四の輩も之を知らざるなしと言ふ程にポピユラーな英傑で、さし當り日本の加藤淸正所だ。|その故宅と稱する所は外城の名所五龍潭の中に在る。その五龍潭は今山東醫院となり、二株の老柳だけが秦將軍らしい由緣を語る唯一のものだ。|(一九二九、撮影)(印畫複製を禁ず) -
春淺き張公祠 (濟南)
張公祠は內城太明湖の畔に在り、前淸の巡撫張曜を祀る。|張曜字は朗齊、卒伍の間に身を興して遂に河南布政使にまで昇進したが、目に一丁字無しとの理由を以て彈劾せられ、一度官を貶されたが又左宗棠に用ゐられ、遂に山東巡撫にまで親任せられ、大いに善政を布いた男だ。|祠前早春の陽麗に照り良吏の祠に相應しい|(一九二九、撮影)(印畫複製を禁ず) -
烈將鐵公祠 (濟南)
明初の烈將鐵忠定公鉉を祠る鐵公祀も亦風光明媚の太明湖畔に在る。|鐵鉉は燕王に抗し立ち濟南城を死守し、屢々其の心膽を寒からしめたが、遂に後捕はれて其の面前に引かれ、所有る拐問を受けても最後まで燕王に屈しなかつた男である。|祠は彼が兵を總攬した太明湖の畔にあり、境內荒れるにも義烈の文字は千歳に殘さる|(一九二九、撮影)(印畫複製を禁ず)