亜細亜大観/04
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ギヤンツエ城 (後藏)
ギヤンツエは拉薩及シガツエに亞ぐ大邑であつて、人口約一萬、後藏中極めて樞要な位置を占め、殊に印藏交通上の咽喉部を扼してゐる。|城は數百尺の巖上に聳江、勝城嶺(ギヤルカルツエ)の轉訛であり、紀元十四世紀頃群雄割據時代の覇者の築けるもの、今現に縣廳をこの城に置き、且約一千人の常備軍を統率する司令官が駐在してゐる。|(印畫の複製を禁ず) -
カロ峠の古戰場 (カロ峠の古戦場)
カロ峠は海抜二万四千呎の氷嶺、西歴一千九百四年英蔵両軍最後の戦場となり、西蔵は英軍の侵入に対し、この峡間を守るに七百の兵を以てし、必死の防戦抵抗を試みたけれども、遂に英軍の砲火に会ふて全滅した名高き古戦場である。|底渓を斜に走る石柵の遺趾は、海抜一万六千呎に起り一万九千呎に及ぶ。|(印画の複製を禁ず) -
タシルンボの大寺院 (後藏シガツエ)
後藏の都シガツエに入らんとして、低山系の峠を越ゆれば前に低き平野が展開し、その端つる山麓に宏壯なる寺院の高壁が城砦の如く聳江立つを見る。即ち西藏有數の寺院タシルンポの大伽藍である。前藏の活佛達賴喇嘛と共に他の一方の敎主として崇めらるゝ活佛班禪喇嘛は、此大寺院の管長である。|建築は壯麗を極め、五基の金屋は燦然として輝き、微妙の樂が常に院外に流れる。寺僧約六千人と數へられる。|(印畫の複製を禁ず) -
達賴法王の旅輿
西蔵の主権者たる達頼法王の正式の行列は大小の僧俗各官悉く其の玉輿に従ひ、其の長さ里余に及ぶのであるが、旅行中の行列は爾く大袈裟ではない。|輿は構造簡単に、中部支那に行はれるものと大差ないが、其の輿を担ぐ人夫の服装や此を曳く人夫の異様な姿が、如何にも物々しく恰も日本維新前の大名行列の様である。|(印画の複製を禁ず) -
貴族の乘馬旅行 (西藏)
西藏內地に於ては、通じて馬車を用ひ得べき道路は極めて稀に、旅行の大部分は馬に依らなければならない。貴族も平民も、馬以外に利用すべき交通機關は少ないが、貴族の乘馬旅行の業々しさは格別である。旗を先頭に數十の騎兵に前後を護せて宛々數町に及ぶ行列の物々しさは、行人を驚かしめる。|(印畫の複製を禁ず) -
印藏貿易市場 (カリンポン)
印度と西藏との貿易の中心は、ダーヂリンの東方二十餘哩のガリンボンであつて、海抜約四千呎の山上に在る。|西藏內地から輸出する羊毛は、大部分此の市場で賣捌かれ、歐亞の諸貨物も亦多くこの地を通じて西藏に運ばれる。|輸出品の大宗は羊毛であり、主要輸入品は磚茶、絹布、陶器等である。|(印畫の複製を禁ず) -
西藏藝者と樂器
社会上に於ける婦人の位置は極めて低く、どんな場合にも男女同列に取扱はるゝことはない。従て社交上の公開席に婦人の出入する例は少く、宴会には酌婦と芸妓とを要する。|酌婦は其の位置高く上流美貌のものより選抜され、芸妓は平民中より採用し、共に歌舞を演じ宴会の席を賑すもの、其の楽器は日本の三味線に類する六弦器である。|(印画の複製を禁ず) -
西藏政府の俗官
西蔵は達頼法王の独裁政治であつて之を補佐するに三首相四大臣を以てし、この四大臣の下に各長官ありてその分掌に従つて政治に参与するのであるが、政教一致の西蔵に於ては特に僧官と俗官との二種が分れる。俗官は僧籍に在らざる官吏であつて、図の如く一見僧官と服装を異にし、頭には異様な冠を戴く。|(印画の複製を禁ず) -
家長と從僕 (西藏貴族)
西藏の中央種族とも稱すべき「プパ」族には、其の容貌により自ら二種の系統がある。一は貴族及上流の型であり、他は平民型と稱すべきものである。|西藏に於けるこの二階級間には嚴然たる區別が存在する。貴族は其の家に數多の從者を養ひ、其の從者の數が或る場合にはその身分の高下を表す。|(印畫の複製を禁ず) -
一家眷屬(西藏人)
西蔵も日本や支那と同じく家族制度を基本として成立した国ではあるが、西蔵の家庭をして特殊着ける二つの特異な習慣がある。一は子弟の出家制度と一妻多夫制である。|西蔵に於ては一家から必ず一人以上僧侶となるべき不文の教義上の義務を負はされ、又新婦は嫁して他家に入ると共に新夫の弟等とも盃してその共有物となるべき習慣である。|(印画の複製を禁ず) -
シガツエ城 (後藏)
後藏の中心はシガツエと呼ばれる。古名を志成嶺と呼び、十四世紀以來榮江た町である後に嶮峻の山脈を負ひ、前に廣漠の平野を制する要害の一嶮山に、巖を削つて儼然として聳ゆるのがその城である。|城は拉薩のポタラ宮殿を模したるものと傳へられ、現に法王政廳より任命せられた後藏總知事が駐在してゐる。|(印畫の複製を禁ず) -
ギヤンツエ寺院 (ギヤンツエ)
西藏の數多き寺院の中にも、莊嚴を以て聞ゆるギヤンツエ寺院は、同名縣城の北西四哩の山麓に在り、紀元第十二世紀の創基と云はれ、現に僧侶二千、西藏有數の大寺院である。|中央の大塔は、高さ百尺、全部塗金にして燦然として輝く。印度ブツダガヤの卒塔婆を眞似たものと稱せられ、紀元十二世紀頃の建造物と推定せられる。|(印畫の複製を禁ず) -
通貨郵便切手 (西藏)
西藏固有の通貨にも貨幣と紙幣との別はあるが、技工頗る幼稚、皆同一の形式である。貨幣は金屬の種類、形の大小、及數字文字だけの相違、紙幣は只色彩を異にするだけの違である。面白いことには、一箇の銀貨を特殊の形に切り潰して、既成貨幣の中間單位として流通することだ。|郵便切手も單純な意匠だが、印刷も材料も皆西藏產のものであることが興味深い。|(印畫の複製を禁ず) -
入藏旅券(靑木所藏)
何人に向つても入蔵を許可せざる西蔵に、所謂旅行券の有らう筈もない。此の写真の如きは極めて特殊の場合に下附されるものであつて、西蔵皇帝喇嘛法下裁下の国務大臣により、大日本本派本願寺法主の派遣せる、青木文教が、法王親認の下に西蔵仏教を研究せしにより法名を賜はり、今回入蔵するが故に、何人も之を阻止する勿れと記入せられてゐる。|(印画の複製を禁ず) -
喇嘛敎の佛具 (西藏)
西藏喇喇教徒獨特の佛具、上段左より|(一)「マニ」と云ふ手持用の寳輪筒であつて、内部には經典を卷きつけ歩行しつゝ廻すもの。|(二)及び(四)は佛像、特に(二)は法衣を纏ふ。(三)「カブ」と稱する携帶用廚子、内部に佛像。下段左より錦の布に包める經典。|次は我國に用ひらるゝと同種の振鈴|次は神酒の器、次は水を供ふる器である。|(印畫の複製を禁ず) -
阿彌陀佛畫像 (西藏)
喇嘛敎でも阿彌陀佛と釋迦佛を尊崇の中心として大切にすることは、一般大乘佛敎と同樣である。殊に佛像と佛畫とは西藏人の最も大切にする所であつて、その為には思ひ切つて金をかける。|此の繪は阿彌陀佛を中心とした佛敎の曼陀羅であるが、後藏タシルンポの活佛は今に尚現世に於ける阿彌陀佛の化身と信ぜられてゐる。|(印畫の複製を禁ず) -
高原の骼駝 (西藏)
駱駄と言へば世人は直ぐに熱帶地方の砂漠を想像するに違ひない。然し海抜一萬數千尺の西藏高原にも亦駱駄が見出される。|雪や氷に張りつめられた高原にも、夏が來れば至る所にオアシスが現れ、中央亞細亞から拉薩への貿易者が、駱駄によつてそのオアシスからオアシスへと旅を續けるのだ。|汽車や自動車の時代はまだ遠い。|(印畫の複製を禁ず) -
密敎の神畫 (西藏)
圖は秘密佛敎中の重要なる守護神の曼陀羅で、主體をデムチヨと稱ぶ。|此の神は通常三つの顏面と十一本の手を有し、それに夫々各種の武器を有し、頸には髑髏の珠數環をかけ、二人の人間を脚下に踏みつけ、異樣な姿をした僚神と共に合體して立つ。古來北京に在住した主喇嘛は、この神の權化であると云はれてゐた。|(印畫の複製を禁ず) -
チヨンビ谿谷(其の一)
チユンビは東部ヒマラヤ山中に於て、最も風光明媚気候順和を以て知らるゝ一山峡である。山村の風物は北日本の風光に似て、身の万里異郷に在るを忘れしむるものがある。|住民は西蔵人シキム人ネポール人等の混合雑種であり、俗に「トモワ」と称ばれるが、男女共に色白く体格も立派である。|山峡は延長十余哩、海抜約一万尺に及ぶ。|(印画の複製を禁ず) -
チヨンビ谿谷(其の二)
チユンビ山峡住民の奉ずる宗教は、勿論喇嘛教ではあるが、著しく古代梵教と印度教の影響を受けてゐる。山寺の附近には図のやうに幾つかの卒塔婆が見江、又幾本かの幟が風に翻つてゐて、幟に書かれたサンスリツトの原音そのまゝの西蔵文字も興味多い。そして又、寺には日本式の七五三縄を張つてゐる。さしあたり日本なら神仏混祀の形だ。|(印画の複製を禁ず) -
チヤポリ山 (拉薩郊外)
チヤポリ山は赤山と共に拉薩の門戸を扼する一關である。峻坂を攀ぢて山頂に至れば藥師院あり、その屋蓋上の眺望は、ポタラ宮殿に於けるものと併稱せられる程雄大である。|その南麓及東麓は水に臨み、二三の祀殿は巧に巖の中程に設けられ、ポプラの並木に圍まれたるあたり、このあたりは得難き佳景である。|(印畫の複製を禁ず) -
山民部落 (ネポール)
ネポールの西藏に近き山地には、點々として畫の如き村落が散在してゐる。住民はネポール人最も多く、シヤルバ人之に亞ぎ、更に少數のスイキム人も雜居してゐる。|海抜數千呎に及ぶ高地であつて、自ら他の部落とは趣を異にするが、山頂聊かの部落に日本に似た構造の家を發見するものも一奇である。|(印畫の複製を禁ず) -
ネポールの商人 (ネポール)
ネポールは印度と西藏との間に挾まれた一小國であり、地はヒマラヤの高原地帶に位し他國との交通を阻まれ、今日に於ても尚未開國の域を出でない。|生活の程度も著しく低く、商取引の如きも田舍では物々交換の時代を幾歩も離れてゐない。路傍に聊かの品物を並べて通行人を待つ承認の有樣には、特に其の感を深くする。|(印畫の複製を禁ず) -
カリンポン (印度)
カリンポンは海抜四千呎の山上にあり、地は印藏國境に近く、西藏との貿易は、主として此の山上に於て行はれる。|かくてカリンポンは印藏交通の要點に位するが故に、西藏の派遣官吏はこの地に駐在して入藏者を監視してゐる。山間掌大の一都會ではあるけれども、印藏交通上忘るべからざる要地である。|(印畫の複製を禁ず) -
ヒマラヤ山地 (印藏國境)
ヒマラヤ山中の大觀は、其の朝景を最も雄大なりとせられる。朝暾やうやく昇り、樹梢その光を浴びて輝ける頃、遙なる谷より湧き立つ雲野を隔てゝ、ヒマラヤの峻峯を望む壯觀は、天下に其の比を見ない。|層雲の彼方に、嚴然として四隣を壓し雲表に往來するヒマラヤの姿は、それが眞に天下第一峯の名に背かざるを知る。|(印畫の複製を禁ず) -
ヒマラヤ遠望
畫はダーヂリンに近き海抜約一萬三千呎の山中に於ける朝の景色である。|このあたり見ゆる限りは山又山、その山を蔽しその山を表すものはその谷を埋むる白雲の浪であり、朝來れば白雲動きて浪の如く流れ大觀實に形容すべからず。|雲上更に雲ありてその上に僅に頂を表すのがヒマラヤの連峯である。|(印畫の複製を禁ず) -
ダーヂリン(其の一)
ダーヂリンは、西蔵との国境に近き印度北境に位する一小都会であつて、カルカツタを距る北方三百八十哩、海抜七千余呎と言ふヒマラヤ山脈の余波の上に位し印度に於ける有名な避暑地であり、又印度より西蔵への交通路の一扼点である。|遠望する雪嶺はヒマラヤ山の一支峯。|(印画の複製を禁ず) -
ダーヂリン(其の二)
西蔵と印度とを画する大ヒマラヤ山脈の名はその嶮峻を以て世界に冠絶し、ダーヂリンはその雪嶺の眺望に秀づるを以て名がある。|春来れば、この七千呎の高地も花に満ち、雪と花とを賞でんとする遊山の客はこの掌大の地に群集する。遥に千古未だ何人の足跡をも印せざる雪嶺を遠望する壮観は筆舌に絶する。|(印画の複製を禁ず) -
ダーヂリン(其の三)
入蔵路の要点に位するダーヂリンは、自ら各国人の参集地となり、その町も人も馴れないものには異常な奇観であるが、画はその市場の光景である。茲で特に目を惹くものは露店市場の方である。広場に無秩序に品物を並べて黙つて顧客を待つ原始的のものに過ぎないが集れる人種には、印度人はもとより、西蔵人あり、スイキム人あり、ブータン人あり、ネポール人あり、グルカ人あり、その雑然たる所に自ら新なる興味を感ぜしめる。|(印画の複製を禁ず) -
ダーヂリン(其の四)
印度が仏教発祥の地であり、仏祖釈迦誕生の地であることは今更説明することもない。従而印度は至る所に仏跡散在し、旅行者をして所在聖地の感を深からしめるが、画は北境ダーヂリンの町の一角に当るオブザベツトリ山上の一仏跡である。|一基の卒塔婆の中心には、大小無数の経文を書いた供養の旗が立て並べられ、仏跡巡礼の信者が日夜参拝して経文を誦する。|(印画の複製を禁ず) -
風を孕む戎克 (福州)
南支那の交通狀態は、實に南船北馬の名に背かない。沿岸も内地も、水あれば必ず舟あり、一葉の扁舟を以て大海を乘り切らう程の冒險兒も自らこの間に生れた。|閩江の下流では、名は同じく戎克とは云へ著しく近代化した客船を見かける。ペンキ塗りの船室を持つた民船が、帆一杯の風を受けて走る有樣は、それ亦南支の一珍奇か。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
萬壽石橋 (福州)
福州の南臺と支那街とを繫ぎ、閩江に架せられた石橋は其の名を萬壽橋と稱ばれ、長さ百餘間、人車の往來織るが如く、其の形勝も亦南支の一佳景である。|橋邊の異樣な扁舟は所謂蛋戶の住むもの、南支一帶の蛋戶の數は今も數百萬を以て數へられる。|對岸右手の山上に倭寇烽火臺趾を望む。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
倭寇を偲ぶ烽火台 (福州)
裸身僅に甲を着け、赤褌に三尺の朱鞘をぶち込み、八幡大菩薩の旗指物を負ふて南北支那沿岸を橫行濶步した荒武者の行跡は、理窟を抜きにして吾人の一快心事だ。その倭寇に備へた烽火臺の遺跡は、南北沿岸各地に殘つてゐるが、福州南臺の背面丘上にもその一臺が殘る。時既に數百年を經たりとは云へ、旅人何等かの懷古なきを得やうか。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
女の働く國 (福州)
北支那だけを見た人は、簡單に支那は女の働かない國だと定義づけて終ふ。又實際北支那では勞働に從事してゐる女を見ることは極めて稀であるが、南支那一帶は悉く女の働く國である。百姓もする、舟も漕ぐ行商もやる。途上自ら艪を操つて荷物を運ぶ女等を見ることは、北方支那からの訪客には一大驚異であらう。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
物凄い髮飾り (福州)
福州の女は實によく働く。男は多く出稼に出て殘つた女達が懸命に働く。その福州女を象徵する一風俗はその髪飾りである、|昔は身を護る為に用意した小刀であつたとさへ云ふ抜身の鎗のやうな簪が、今も嚴然として彼等の頭に光る。小脇に抱江た雨笠、手に執つた擔い竹、何れも福州女に相應しい道具ではないか。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
白塔寺 (福州)
又の名を萬歲禪寺と呼び、千山の西側に在る壯麗にして廣大なる巨刹、白塔を有したるが故に白塔寺と呼ばれると記せば、只それだけの一寺院である。然しその本殿の正面に揭げられた旗織を見よ。靑天白日旗と孫文の遺囑文字、此所も亦南方支那を蓆捲した國民革命軍の一本陣である。|堂前の樹木に乾された軍服一つ二つ、私達はこの寺院にも支那の動きを觀る。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
奇妙な墓標 (福州)
支那民族は由來墓を大切にする民族ではあるが、地の南北によつて葬送建碑の形式には著しい相違がある。|この奇妙な墓標は特に福州附近に行はるゝもの、女陰を型れるものとか、穴より出でゝ穴に歸るの寓意とは蓋し惡い洒落である。然しかうした意味の奇妙な墓標は、世界にも其の類が少いであらう。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
易者先生の竹廬 (福州)
八卦見などゝ言ふ勿れ、儒門星學の看板が嚴然と光つた一屋、日月星遇機測字がその家業である。|生ひ茂つた木立の下に掲げられた篇額の、竹盧の二字が心憎いまでぴつたりと來る凝つた御住居、主人在りかなきか竹垣には我がもの顏の長衣の洗濯物が只一つ。|此の家の先生なら何だか信用が出きさう。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
船尾裝飾 (福州)
何れの國何れの地方たるを問はず、古來船首又は船尾裝飾の模樣には、相當の苦心が拂はれた。然しそれ大概失はれた現在に於ても、支那の戎克は其の船首及船尾に特長ある裝飾畫を保存してゐる。|毒々しいまでに鮮な丹泥を用ひて描かれるものは、多く緣喜を祝ふ花鳥人物の模樣化ではあるけれども、自ら獨特の風格を存する。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複處を禁ず) -
花を賣る老人 (福州)
北支那にも花は咲く、然し花と云ふ字の與ふる感じは矢張り南支那に於てより深き感銘を有つ。|雨上りの南臺のとある小路に、行き遭つた花賣りの老人、籠の上に載せたのは水仙に似た白き花、手に持てるは桃に似た小枝、『花!花!』と呼ぶ其の顏付。|支那の花賣りは何となく老人であつて欲しい。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
福州市街(その一)
閩江の流をはさみ、南に烏石山と九仙山、北に越王山を擁き、周圍十五里の城壁を以てかこまれたこゝ福州の市街は、一帶を包む南支らしい色彩に、古き歷史への追憶をさそふ塔を殘し高樓を見せて、何となく落付ある狀景を展開してゐる。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
福州市街(その二)
西曆一千八百六十一年の南京條約よつて商埠の一に加へられて以後、この地の繁榮は漸次に加はつて來た。對外貿易を營む大商人の店は到る所にその富裕を誇つてゐる。|道を埋むる群集の雜踏、立ち並ぶ商店、旅館、さては大きな廣告、集へる戎克、何れも水に臨む町の特色とその繁榮とを物語つてゐないものはない。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
閩江の夕照
閩江、又の名は建江、源を福建の西仙露嶺の山中に發して一千三百里、東南に流れて海に注ぐ。その下流、江は寬く、水は緩かに、田畑を灌溉し民船を通じ、地方の民皆この江によつて生きてゐる。|こゝ福州の附近、一望の野を涵せる水は、今し沈み行く陽をうけて金色に輝いてゐる。彼方、山の麓を直線に限るが閩江の本流である。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
閩江の船
福州より下は固より、上流も水口に至る七哩の間は毎日小汽船が通ふ。水口附近で河幅千二百尺。|民船の通航區域は實に四府一州三十一縣に跨り、二十七城を連ねる。福建の陸路が險惡であり、土匪が多いところへこの便利な水運である、地方の交通が殆んどすべて閩江の船によることは當然でなければならぬ。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
鼓山の湧泉禰寺
山頂に近く閩中第一の古刹がある。涌泉禪寺といふ。寺の旁に深潭がある。古くこの中に毒龍が蟄居してゐた、唐の代靈嶠といふ僧が華嚴經を誦して之を退去せしめた、因つて潭に臨んで寺を建てたと傳へられてゐる。鼓山白雲峰涌泉禪寺とは宋の眞宗の勅賜、今の涌泉禪寺の額は康熙帝の賜ふところである。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
桶を擔ぐ女
男が出稼に行つたあとに働く福建の女、女の働くに不思議はないにしても、珍らしいのはその頭髪飾りであり、その擔いた桶の造り方である。桶に長い竹の筒をつけて、その先から畑に肥料をかける有樣をみよ。カメラに對して不安と好奇との混亂した田舍女らしい表狀を見よ。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
鼓山の靈源洞
五代の頃、神晏といふ坊さんが經を讀んでゐた。所は鼓山の山門の左、削立つた崖を下りて行つた所謂西澗の旁である。坊さんは經を讀み續ける、泉はゴボ(ゴボ)流れ續ける。そのゴボ(ゴボ)が癖に障るのを我慢しながら坊さんなほも讀み續けた、がとう(とう)堪忍袋の尾を切らしてしまつた。「やかましいぞ惡水め」。それ以來泉水は神妙に東澗の方へ逆流することになつた。今は東澗にも西澗のも叱られる惡水はない。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
鼓山の勝
馬尾から閩江を遡つて行くと右舷に當つて鼓山が望まれる。鼓山は海抜一千二百米突、閩中第一の名山奇勝絕景を以つて表はれてゐる。|轎に賃して山路を辿りつゝ俯觀すれば、元の吳海が鼓山遊記に「江流二道白虹游龍の如く、縈て長洲を帶び、靡焉として東に趨る。漁歌互に答へ、西山暉を凝らし、碧翠狀を異にす」。と書いた閩江の大觀が一望の裡に集る。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
越王山
福州府城の北隅に立てる越王山、その形が屏風に似てゐるといふのでまた屏山とも呼ばれる。山の頂に結構宏壯、巨然として聳ゆるは鎭海樓である。記によれば、明朝以來迭に燬け迭に修め來つて、現時の樓は淸の光緒年間、舊制によつて重建したものにかゝる。樓上の展望濶大である。|(一九二七、四、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
西湖
福建を生かすものは閩江である。福州を生かすものも亦閩江である。|閩江福州の旁を過つて、明鏡を湛うるものは西湖、固より福州を生かすには足らず、また固より杭の西湖の明麗なる風光と興趣深き詩味とに比すべくもないが、南方の水の魅力は自ら独得の情景をつくつてゐる。|(一九二七、四、撮影)(印画の複製を禁ず) -
臺灣神社 (臺灣)
北白川宮能久親王が金枝玉葉の御身をもつて土匪征伐の為めに櫛風沐雨の苦を甞めさせられ、終に風土の御病を以て薨去あらせられたことはなほ國民の記臆新なるものがある。|臺灣神社は臺北の東北、劍潭山の中腹に在り、國大魂命、大巳貴命、少名彥命と共に齋き祀るところ、江流に臨み翠巒を負ふ勝景と相侯つて神威彌が上に高く拜せらるゝ。|(一九二七、五、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
淡水河 (臺灣)
中央山脉に源を發する淡水の流は臺北に來つて帶の如く市の半面に沿うて奔る。|昔はこの川による舟が交通の主なるものであつた。下流は今こそ港灣埋つて街衢また衰へたが、領臺以前には名港を稱せられた淡水港である。|青巒、鬱樹、その間に漫々と流るゝ水、川さして大ならずとは云へ臺灣の豐かな氣分を酌むに足りる。|(一九二七、五、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
劍潭寺 (臺灣)
源を基隆に發する基隆溪がこゝ臺北を過つて臺灣神社の麓を紆るところ、溪水自ら深潭をなして蒼々の水を湛へる。即ち劍潭である。|潭の邊に苳木と稱する老木がある。昔、和蘭人の挿した劍が今もその幹の中に殘つてゐるといふ。それが劍潭の名の起源である。|潭に面する古刹は劍潭寺、曾て臺灣に據つて明の為めに淸に抗した鄭成功の開基に係るといふ。|(一九二七、五、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
烏來の溪谷 (臺灣)
屈尺蕃の住むところ、低い所は海抜三百尺高い所は三千六百尺といふ。高い山と深い谿とが相交錯してゐる。|臺北から山また山、溪また溪を越江て行けば、鬱蒼たる森に蔽はれ雪の如き奔湍に洗はるゝ彼等の部落は、すべてこの世とも思はれぬ原始的な姿に住みなされてゐる。|(一九二七、五、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
弓の勇者 (臺灣)
立てるは生蕃ブヌン族の若者である。覗へるは森の禽小である。彼等は古來弓を執ることに馴らされて來た。弓は木をまげて造る。長さ五尺位。矢は竹で作る。鏃は金屬である鳥でも羗仔でも鹿でも將また人でも、彼等の矢を逃れ得るものはない。|(一九二七、五、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
蕃婦の機織 (臺灣)
森の奥から梭の音が聞江て來る。蕃家の婦は庭に席を敷いて、倦むことを知らぬものゝやうに原治的な機を織る。|何時もの頃とも知らぬ音、卑南社にコダヤウとカピヤウという姉妹が生れて、機を織ることを考案し又たれを人にも敎へたと傳へられる。それまで彼等は草を綴つて身に纏つてゐたが、それから衣服をきるやうになつたとも傳へられる。|(一九二七、五、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
屈尺蕃 (臺灣)
タイヤル族である。昔マツヤル、ブタといふ二人の男に率ゐられてその故郷タタユフロバツラオを出、それから各地に分れ進んだと彼等の口碑には傳へられてゐる。|もと屈尺といふ部落一帶に住んでゐたが、次第に勢力を失つて次第に山奥に退きつゝあつた。領臺後三井物產が殖林をするに當つて一戶八十圓を與へて現在の烏來に引越させたので、又これをウライ蕃ともいふ。|(一九二七、五、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
刺墨の蕃婦 (臺灣)
タイヤル族、ウライ蕃社の老婦。その額とその口から兩頰にかけて施せる刺墨をみよ。|昔女達が一時に多く死んだことがあつた頃神は夢枕に現はれて、刺墨によつて災厄を免るゝことを敎へ給うた。それ以來蕃社の婦人達は引續いて刺墨を施すようになつたと云ひ傳へられる。今日では一種の裝飾でもあり、また成熟せる女の表象でもある。|(一九二七、五、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
蕃家の穀倉 (臺灣)
何處の蕃家でも穀倉を持つてゐる。野蕃そのものゝ如く考へられる生蕃にも食糧を貯蓄するだけの智慧を惠まれてゐるのだ。|ブヌレ、ツオウ、パイワンの諸族は之を屋内に其他の諸族は多く屋外に作る。茲に掲げたのはタイヤル族に屬するウライ蕃社のそれ。材料、形狀、構造、すべては心ある人の見逃すべからざるもの。圖中床と柱との間に曲れるは石の鼠返しである。|(一九二七、五、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
タイヤル族の裝身具 (臺灣)
臺灣の北蕃タイヤル族は小粒の貝を集めて織物を造る。即ち珠裙である。圖中右は盛裝衣、左は女子が腰に纏ふものである。支那では昔から貝が通貨として用ゐられてゐたが、この珠裙も現に通貨として使はれてゐる。|珠裙は禹貢の所謂織貝である。織貝の何たるかは千古の疑問であつたが、今眼のあたり近き臺灣に之を見得ることは我等の歡と云はねばならぬ。(前掲尾崎氏珠裙と織貝參照)|(一九二七、五、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
武崙族の奇習 (臺灣)
ヴヌム族といふのは新高山を中心として南北約三十里、東西約十里に亙る山地に棲息する生蕃である。その中新高以北の蕃社は早くから撫育に就いたが、以南の蕃社は最も頑強に反抗に反抗を續けて、最近漸く歸順したばかりである。|圖は一つの杯に汲んだ粟酒を飲み合つてゐるところ、武崙族に於て最も親しき者の間に行はれる風習である。|(一九二七、五撮影)(印畫の複製を禁ず) -
新高山 (臺灣)
臺灣は山の國、その面積の三分の二は山嶽而かも海抜一萬尺を超ゆるもの四十八座、七千尺以上のものを數ふれば百十五座に及ぶ。新高はその宗、高さ一萬三千尺、漢人は玉山と云ひ、洋客はモリソンと稱へ、今の名は畏くも明治大帝の御命名である。風景の雄大と高山植物の美と蕃人傳說の奇とを併せて嚴然と聳江てゐる。|(一九二七、五撮影)(印畫の複製を禁ず) -
阿里山 (臺灣)
阿里山は新高の西方から脉々として連り北回歸線に蟠る如く位置してゐる。所謂阿里山材は、海抜二千八百尺から八千七百尺の間にある晝なほ暗き千古の森林から伐出される。その最も珍重せらるゝは扁柏と紅檜、何れも能く蟻害に耐へる。普通直徑二三尺。老大木は二十餘尺、推定樹齡三千年に達するものがある。|(一九二七、五撮影)(印畫の複製を禁ず) -
日月潭 (臺灣)
日月潭は臺灣名勝として宣傳さるゝ所、海抜二千四百尺の地にある一大湖水朝暾夕暉の風趣は到底筆紙に盡されぬ。湖水の東岸に茅屋二三十の化蕃部落がある。大木を分ちて兩開きとし、樹肉を刳つた獨木舟に乘つて湖上に漁り、或は稍々離れた耕地穀菜を耕してその生を營む。口碑によれば、彼等の祖先がその昔白鹿を逐うてその踪を失ひ、彷徨三日の後にこゝを發見し、天與の樂土として移住し來つたものであるといふ。|(一九二七、五撮影)(印畫の複製を禁ず) -
日月潭の杵頭 (臺灣)
日月潭の岸に住む化蕃はその家の前なる巨石を臼として米を搗き粟を搗く。その響は周圍の翠巒に反響し、澄明の湖上に搖曳し、一種云ふべからざる哀音となつて惻々として人に迫る。況してこの哀音に和するものは妙齡の蕃婦の口を洩るゝ蕃歌である。遊子これを聞いて泣かぬはない。八勝の一なる蕃家杵聲といふは即ちそれである。|(一九二七、五撮影)(印畫の複製を禁ず) -
眉溪の蕃人 (臺灣)
臺中を發して南投に入り、更に中央山地に突進すること十六里にして四顧濶達、禾穀克く穰る大盆地がある。その中心市場埔里街から更に六里、斷崖人目を驚かす途を辿つて行けば霧社に達する。霧社は海抜四千尺の高臺その雄大な高山蕃地の景趣は蓋し壯美といふことが出來る。圖は霧社に屬する眉溪の蕃人とその家とである。|(一九二七、五撮影)(印畫の複製を禁ず) -
眉溪の蕃社 (臺灣)
昔ブノホンといふ所に靈樹があつた。その木精が化して男女二神となり人類の始祖となられた。その頃は食糧も豐物であつたが人口が殖江て後は生涯營々として働いても飽くことが出來なくなつたので方々に移住した―彼等にはかういふ傳說がある。今彼等の蕃社は最も模範的なもので家はすべて碁盤型に作られて清潔、この頃では水田の開墾と耕作とに精を出してゐる。|(一九二七、五撮影)(印畫の複製を禁ず) -
蕃人の狩獵 (臺灣)
生蕃と云へばすぐに首狩りを聯想する。それ程彼等は殺伐であり慄怦である。彼等を敎化すること、それは日本領臺以後に於ける一大問題であつた。|今、彼等はその銃器を押收されてゐる。彼等が獵に出る時には警察から銃を借りる。期間は一週間乃至十日である。彈丸は五發である。返納に當つては間違なく狩獵に使つたといふ證據に必ず獲物の片足を持參することになつてゐる。|(一九二七、五撮影)(印畫の複製を禁ず) -
踊る蕃人の群 (臺灣)
昔糯粟の村とポゴの村と山羊の糞の村とがあつた。ポゴの村ではポゴ酒を、山羊の糞の村では山羊の糞の酒を飲んでゐた。糯粟の村の人達が粟酒を作つて飲ましてやつてから彼等は粟の美酒を飲むやうになつた―霧社の傳說はかう傳へてゐる。|彼等は今も粟酒を嗜む。老いたるも若きも陶然と醉つて、異樣な歌に和して手をふり首をふりつゝ踊るを見よ。彼等もやはり人間である。|(一九二七、五撮影)(印畫の複製を禁ず) -
東港の竹筏 (臺灣)
臺灣の竹は偉大であり長大である。南部地方では壁の柱、屋の棟、總て木材の代りに竹を用ひ大黑柱の如きも大きい竹を使ふ。舟も竹ばかりで作つたものがある。土語でテツパイといふ。テツパイとは竹筏の意である。傳へていふ、昔、昔の又昔、鼠が笹の葉を含んで濁水溪を渡つた。それをみた人間がいろいろ考へてこのテツパイを作り出したのだと。|(一九二七、五撮影)(印畫の複製を禁ず) -
煙管をもてる女
滿洲の本來の主人公は滿洲人である。今日の主人公は漢人である。淸朝が滿洲から興つて支那に君臨し、滿洲人が多く支那本部に移つた後に、山東の移民が住み込んでしまつたのである。|圖は元の滿洲の主人公たる滿洲人の婦女、その容貌體質等はよく滿洲人の特質を示してゐる。結髮は所謂兩把頭[リヤンパトウ]、耳には金屬製の耳輪をかけ、手には長い煙管を持つ。何れもまたその土俗を示すものである。|(一九二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
門
屋根や塀や入口の狀態は注意されねばならぬ。屋根は草で葺く、その上に錢木[チギ]を置く。これは門ばかりでなく家屋もすべて同樣で、彼等の古い風俗を示してゐる。塀は土塀である門は兩側に相對して小さな入口を設けて之に戸をつける。これも滿洲人固有の風俗である。|(一九二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
神殿
滿洲人が屋敷の内に安置する神殿である。屋根と云ひ、その上の錢木[チギ]と云ひ、柱と云ひ扉と云ひ、またその一體の構造と云ひ、すべて漢人のそれとは異つて、日本の神社に彷彿たるものがある。|(一九二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
神杆
圖は吉林省の東京城で撮影したものであるが、門を入ると衝立の樣なものがある。衝立の後には一本の棒が立つてゐる。これを神杆といふ。神杆は滿洲人の家に必ず立つてゐるもので、靈魂を祭る為めに使はれる。神杆の上に附いてゐる皿は茲に肉などを入れて靈魂に供へるのである。|(一九二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
葬の供
死者のある家、今しも出棺しようとするところである。黑龍江省齊々哈爾[チチハル]附近の撮影であるが、この風俗は必ずしも滿洲固有のものではない。家の前にある馬、車、その傍に立てる人、それ等は悉く紙細工で、やがて墓地の前で燒いてしまふ。これは死者にその從者や馬や車を葬送させる意味で、かつて行はれた殉死の風習の名殘である。|(一九二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
車造る家
金色燦然たる文字を並べ或は丹碧目覺るばかりに彩つた模型、さうした看板、支那人の所謂招牌は、支那を旅行する異邦人の到處に發見するものであり、また最も興味深く眺めさせられるものゝ一つである。|これは滿洲の田舍、吉林省阿什河のとある家、それとも見江ぬ門口も、立てられた車輪の看板によつて車造る家と知らるゝ。|(一九二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
東京城附近
東京城はそのかみの勃海首都の舊趾、日本で云へば鎌倉にも似たる古き歷史を有する。所は寧古塔の西南七十支里、牡丹江の沿岸にあり、今では極めて寂れた田舍町である。|產物は穀物、木材及薪炭類、支那馬車及牡丹江によつて寧古塔方面との取引が行はれてゐる。然し、有名な馬賊の橫行圈に屬してゐる為めに商業も餘り振はない狀態にある。|(一九二七、一撮影)(印畫の複製を禁ず) -
阿什河の城門
阿什河は哈爾賓の東方九十支里、古來北邊用兵上の要地として名ある所、渤海の上京であり、遼では女眞部、金ではその上京會寧府明では嘉靖年間に阿賓衞を置いた。|築城は淸代でこゝに副都統が居り旗兵が屯田してゐた。今殘る城門の正面に朝陽門と書き、その傍に滿洲文字を配してゐるなど、その時代の面影を殘せるものである。|(一九二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
露支國境の町
綏芬とも五站ともいふ。ポクラニーチナヤとは露語で國境の義である。東支線で行つて滿洲の東端に在る。山の傾斜面に建てられたヂピカルな露西亞風の町で中心には金色の十字に輝く玉葱塔をつけた敎會が聳江、爪先登りの廣い街路、茂つたトーポリの街路樹、側溝の目立つ屋敷、さうしたつゝましやかなこの小さい山の町を露西亞人が登つたり下つたりして生活してゐる。|(一九二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
蒙古に近く
滿洲に續く蒙古の原野は砂漠性である。外蒙古のゴビは蒙古語の砂漠の意味であるが、今は固有名詞であるかの如くに用ゐられてゐる。そのゴビは西に偏する卓越風の為めに次第に東へ、滿洲へ近く移動する傾向がある。|漢族によつて蠻族と貶稱された武強を誇る北方民族が幾度が興りまた減びた歷史を秘めて、滿蒙の平原は目路はるかに橫はつてゐる。|(一九二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
放牧
牛と羊と子供と山羊とあそびほうけて暮してる。野口雨情|蒙古の生活は牧畜である。家畜は蒙古人の富である。されば、彼等の挨拶は先づその家畜の安否を聞くことにあるといふ。|一望際涯もない平原の上に牛馬を逐ふ彼等は、よくその一本の鞭と懸聲とによつて大畜群を一齊に行動せしめつゝ、終日終歲大自然の中に放牧を續ける。實にこゝならでは接し難い光景である。|(一九、二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
草原
見渡す限りの草の原、たゞ遠く砂丘の起伏するばかり、蒼穹に雲の浮ぶばかり、こゝは通遼の奥、莫林廟(モリンミヤオ)のあたり。|通遼は舊名白音太來、科爾沁左翼中旗(達爾罕旗)に屬してゐたが、この附近は民國の初に開放されて奉天省治下に編入された。今莫林廟を中心として言へば西へ十日行程、北へ四日行程の附近まで殆んど支那氣分の開放地である。|(一九、二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
莫林廟遠望
喇嘛敎は佛敎の一派で、これが流行の本源は西藏であるが、古來政策的に利用されて、次第に蒙古や滿洲に弘通するやうになつた。|蒙古に興つて支那に君臨した元では、忽必烈が西藏を征した後、喇嘛を使つて西藏の懷柔をやつた。それ以來この敎は蒙古に入り蒙古人の間に信ぜられるやうになつた。砂漠に等しい荒野の中に龍宮城の如く浮び出づる喇嘛廟をみる時、宗敎の力の偉大なるに驚かぬ人はないであらう。|(一九、二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
前廟
滿鐵本線四平街から鄭家屯に至る四五哩、鄭家屯から通遼に至る七一哩、通遼は舊名白音太來[パインタライ]、その白音太來から西の方六十支里許りの所に莫林廟はある。廟は今から二百七八十年前、淸の順治年間の開基であるといふ。圖はその前廟であつて、主として西藏式の建築、これは乾隆年間の設立に係つて勅賜寺號を集寧寺といふ。|(一九、二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
後廟
嘉慶年間に作られた後廟、隆祐寺といふ勅賜寺號がある。その建築には多く支那式が加味されてある。|前後兩廟には葛根[ゴゴン]、所謂活佛がゐて各其の寺廟を管轄する。俗には之を前佛爺[チエンフオエ]、後佛爺[ホウフオヱ]と呼ぶ。活佛には何等政治的權力はない。人民の統治權は旗長にあつて活佛には關係がない。喇嘛敎の活佛は總て朝廷から贈られた名號を有してゐるが、數多い活佛の中には自稱活佛も居るであらう。|(一九、二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
喇嘛街
黃林廟には喇嘛が千人以上居ると傳へられてゐる。然し事實は六、七百位のものであらう。彼等は廟の後方に一村を作つて住んでゐる。これを喇嘛街と俗稱する。彼等は法事の際に布施の分前を貰ふ、平時は在家の喜捨と家からの仕送りとによつて生活をしてゐる。|強壯な男子の大部分をかうして廟内に籠らせ、無為にして日を送らせることは何たる馬鹿氣た話であらう。學者はこれを淸朝の蒙古族の去勢政策から來たものであるといふ。|(一九、二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
閻君像
喇嘛敎の神の中には異形奇怪な姿をしたものが少くないが、荒涼の砂漠に流布發達した偶像敎としてそれも領かれ得る氣がせぬでもない。圖はイルマンハガン(蒙古語)ともイエマ(蒙古語?)ともいふ。支那人は閻君と呼んでゐる。研究家は生れ出づる力の表現されたものだらうと云つてゐる。もと印度原始宗敎の神で佛敎の神ではない。その役目は靈界の監察官、俗人は神とし尊敬するが、德ある活佛は之を使役するだけで崇めはしない|(一九、二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
轉輪
何處の喇嘛廟にも大抵、轉輪といふものがある。蒙古語ではマーニホルロと云つて、表面に西藏文字で南無阿彌陀佛の名號を書いた圓い筒である。簡單な臺に乘つてゐるだけのもあれば、莫林廟に於けるが如くその為めの一宇に納められてゐるのもある。筒の中には無數の名號を印した長い長い薄絹が圓く卷いて納めてある。これを一回轉すれば一切經を讀誦すると同じ功德があるといふことである|(一九、二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
鄂博
淸朝が敷いた蒙古の旗制は淸朝が滅んだ今日も尚殘つてゐる。旗は我國の昔の藩とでもいはうか。旗の堺界には標識として鄂博[オボ]が立つてゐる。|鄂博は又寺廟の境内にもある。この場合鄂博は一種の交神機關で、之によつて神に交る一種の祭壇である。|單調な旅を續ける蒙古の旅人は、果しなき野末にこの鄂博を發見することによつて云ひ難き慰を與へられるといふ。|(一九、二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
蒙古犬
蒙古名ネワン、ノヘイ、譯して細狗といふ細狗の最も優秀なるものは柳條邊墻の近くに居り、興安嶺地方に入るとやゝ劣り、興安嶺を西に超ゆれば全く居ない。恐らくは蒙古人古來の家畜ではなくて、その移住以前からこの地方に飼はれてゐたものだと思はれる。遼代の墓から發掘された犬の木塑の如き輕快、番犬より狩獵用に使ひ、普通では耳を切る。それは狼に嚙りつかれぬ用心である。|(一九、二七、一〇撮影)(印畫の複製を禁ず) -
蒙古人の定住聚落
洮南の西北方、洮兒河[トールホー]の岸邊に見出でた蒙古人の郭村である。彼等本來の生活樣式は放牧漂泊、移動式天幕に居住するものであるが東部內蒙古も特に洮昂鐵道に近い漢人の蒙古地越墾の地域にあつては、蒙古の民族が著しく漢人化して、定住した多くの平房子[ピンフアンズ]が匪賊に備へた銃眼防臺と土壁とに護られながら集團してゐる。土造平屋根は寡雨な大陸型の建築を示すもの、附近に放牧の畜群は流石に蒙古を忍ばしめるものである。|(一九二七、一〇、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
古刹の石香爐 (東京城)
東京城の興隆寺は元石佛寺といひ、金時代の創建と傳へる古刹である。寺庭に蓮瓣の古石香爐あり高さ約二丈、春風秋雨幾載月、風蝕せられつゝも古い文化の紀念に立ち盡してゐる。|(一九二七、一〇、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
支那の護衛兵
東京城[トンキン]の市街にさしかゝつた護衞兵の一隊である。すべて支那の奥地を旅行するに當つては執照と名付くる旅券を要する。これを縣知事に示す時は必ず護衞兵をつけて呉れるのであるが、旅行者にとつては有難くもあり又迷惑なこともある。彼等は酒手の無心もするし又途上に於て徵發的なことも敢てする。然し相携へて長い旅路に就くために愛情がうつつて、愈々袂をわかつ際には哀別の情こまやかなものもあるといふ。|(一九二七、一〇、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
酒屋の門
阿什河の新街で撮影した、とある酒造りの家の門である。斯る壯美な結構を有する門は稀に見るところ、その算段構なるがこの建築の特徵であつて、鞍形で棟瓦の無いのは王宮寢殿造の型である。|(一九二七、一〇、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
秋風阿什河(アシホ)の廢墟
國亡んで山河猶存す。こゝは夫の金の古都白城の廢趾、頽れかゝれる土城の内は桑滄變じて今農耕の地と化し果てゝゐるが、掘り出ださるゝ一個の礎石、一片の古瓦とても感懷なくしては看過し得ない。|試みに秋の一日こゝを訪はむか、遠方に這ふ山並に低迷するは暗雲、無心の風に鳴るは高粱の葉ずれの音、うたゝ遊子俯仰の思に堪江ざらしむる。|(一九二七、一〇、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
寧古塔(ニングタ)
寧古塔の語義は滿洲語で「六箇」である。淸朝ではこゝに寧古塔將軍を置いて吉林全省を統べしめてゐたが土地僻遠のため後、將軍府は吉林へ移された。尚こゝは既に古く渤海、金時代から政治上歷史的に著聞されてゐる。今人口三萬五千、豐沃な牡丹江流域平野の農產物集散地である。圖中圓筒狀の建物は支那番兵の屯所、このあたり匪賊出沒の盛なことの一證左である。|(一九二七、一〇、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
牡丹江の渡場 (東京城附近)
午さがりのしづもりの中に、晩秋の日射しを受けて、今し河水を渉つて來た牛車も岸の小舟もくつきりと明暗を作つてゐる。|逝く水は疇昔の史實を語らず、雄族隆替の地域牡丹江の流れ!只江面の微風にさゞめくは岸邊に寄する細波のみ。|(一九二七、一〇、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
松花江(スンガリ-)の結氷 (ハルビン)
水漫々たる春夏秋の江上のどよめきに引きかへて、この冬景の如何にひつそりしたものであるか。波がしらを白く蹶つて輕快に走りまわつた川蒸汽があ江なくも悉く冬籠りを餘儀なくさせられてゐるのだ。|天昏く吹雪さへ加はる中に只しゞまを守つて徐ろに來る春の雪解の日を待つ―こゝは傅家甸[フージヤテン]の河岸、船側の結氷を深く掘り下げてゐるのは氷の壓迫に依る船底の破壞を防ぐためである。|(一九二七、一〇、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
冬の河上交通 (ハルビン)
北の國の冬は水あるところを總て銀盤に化する。わけて河上は無障碍の交通路となつて自由自在なコースが撰ばれる。|對岸の部落へ往復する客橇が美しい露西亞毛布をかけて客待顏のもの、露西亞人を乘せて矢の樣に辷つてゆくもの、河心に一列を成して特產の大豆を搬送する牛車等々、いづれも此の水深き大江の上の活動とは想像も難い。|(一九二七、一〇、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
露西亞娘
二の腕もあらはに、はち切れさうな肉體美を見せて斷髮の娘さん[パールイシニヤー]は陽光のもとに坐る。物言ひたげなその瞳、知らず秘めたる思ひのあるや無しや・・・・。|「猫[コーシカ]を抱いた女」―異國情調を帶んだ好畫題ではあるまいか。|(一九二七、一〇、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
新溪寺 (金剛)
新溪寺は、內金剛の長安寺、表訓寺、大本山榆岵寺と共に、金剛四名刹四大山の一である。|寺はもと新羅時代法興王の創建にかゝり、其後屢々祝融の災に會ふて昔日の面影を失つたが、その大雄殿は近代の再建とは云へ、名刹に相應しい落着を見せて聳え立つ。|境内に千六百年前の石塔ありて由緒を續ぐ|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
神溪川 (金剛)
金剛の美は岩と樹の奇のみを以て言はず、山に配するに水、水に配するに山、山と水との遺憾なき綜合の美に其の眞を見る。|神溪寺より北に向つて行くこと少時、連峰重嶺の谿間に一棧の棧道あり、川はこの道を洗ふて走る。時に飛爆となり時に淸淵となり岩を縫ふて走る。實に人外の境である。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
新萬物相 (金剛)
金剛山中奇景多しと雖も、新萬物相を以て其の奇の第一とする。岩怪石群立橫臥、應接に遑なき天城の奇景は人の魂を奪ふ。|新萬物相 金龍山|白雲邀我行 數里路初平|有瀑從天落 滿山齊發聲|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
立石里の奇勝 (海金剛)
立石里の海は、何れも優れた海金剛の中に更に光つた眺望である。高城の東南約一里にあり、俗に立石浦と呼ばれる。|海に點ずるに巖、巖に冠するに松、海は廣からねどこの山蔭に漁舍十數戶、波浪荒く暗礁多きこの近海では屈強の漁舟の足場である。海凪ぎて釣船を出せば、巨口細鱗とり(どり)に上る。海金剛の秀逸である。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
叢石亭 (海金剛)
嘗て奇勝四仙峯の上峯に存したる亭閣は、その創建の年を知らず蒼然たる雅致を以て金剛名勝の雄を占めたが、過る甲午の歳に倒壞して數十星霜、漸く八年前土地の富豪金寅濟巨費を投じて之を再建し、又昔日の俤を偲ばしむるに至つた。|亭上に立てば洋々たる日本海の波濤を望み脚下には岩を嚙む怒濤の聲を聞く。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
網干し (海金剛)
海金剛の濱邊、白砂の上に立てられた丸太には數知らぬ網が干されてゐた。午後の日射しは靜に廻つて行く。|餘念なく網を捌いてゐる老漁夫の背中に、春らしい光が一杯に流れる。かうした長閑さも亦海金剛の一景である。|附近多く鰭、鯖等の漁獵に豐である。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
通川平野俯瞰 (北鮮)
このあたりの眺望は最もよく日本内地に似る。平野の東に立てる一峯は連塔峯と名けられる。山頂眺望の大は附近に其の比を見ない。遙に紺碧の色靜かなる金蘭の濱を望み、九折して山の彼方に走る流れの奇しきを見、脚下より彼方の山麓に及ぶ點在村落のとり(どり)に展けたるを指呼する。|一條の白路は、この景色に於て、正に畫龍點晴である。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
洗劍亭 (京城郊外)
京城の北郊、新羅の武烈王が高勾麗軍を粉碎した蕩春台の古戰場の畔に、一溪流あり急湍をなして走る所、懸崖に六角の亭あり洗劍亭と名けられる。李朝十五代光海君が王位を纂奪されたのを、仁祖の陵陽君等擬君廢立の事を擧げた由緣ある史上の舊蹟である。|亭名は當時義士血を啜り劔を磨したるに因むとか。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
玉泉庵の白佛 (京城郊外)
傳說に云ふ、この白佛はもと新羅時代の作、北溪山城城塞の守備寺觀藏義寺の境内に在りしもの、後年李大王の時代に至つて白亞に塗換へられしとか。|とまれ郊外水溫む小川の岸邊、一塊の巨石に怪しくも彫りつけられしみ佛の、麗しき朝鮮美人式慈容、尊くも亦嬉しい。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
官妓 (平壤)
李王宮に於ける官紀の肅清擴張によつて、官妓の實は既に其の昔亡んでしまつた。然し其の名は尚妓生の優なるものゝ中に寇され殘されてゐる。|畫中の佳人は平壤の官妓と呼ばれる吳山月の艷姿である。其の名を秘してこの畫を示せば、果して何人かこの佳人の本土を言ひ得やうか。時と共に妓生の生活にも革命が齎される。|(一九二八、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
萬壽臺 (平壤)
臺上今は僅に駐輦忠魂の二基の碑石と、亭々たる幾株かの松柏の枯木とを殘すに止る。赫山風趣の訊ぬべきもの少けれど、日淸の役に遡れば滿丘老松鬱蒼として繁れる大森林にして、敵はこの地に根據し、我が軍を傷く惱ましたりとか。今更に今昔の感に堪へないものがある。|今丘上に立てば、町及其附近一望の内に觀る。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
箕子陵 其の一 (平壤)
箕子は傳說による朝鮮の一始祖である。|周の武王の時、殷の箕子は五千人の亡命者を率ゐて遼水を渡り、朝鮮に入つて平壤に都したと言ふ。朝鮮の史書はこの說を眞實しやかに傳へてはをるが、其後の研究によれば、その平壤と云ふのは、今の滿洲の遼陽であり、從つてこの墓も今日では全く怪しいものと見られてゐる。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
箕子陵 其の二 (平壤)
傳說朝鮮の始祖箕子の墓は、平壤北門外玉兔山に在る。この墓には箕子の骨あるに非ず、その冠と劔とが納つてゐると言傳へられる。|裏面の碑文によれば、一度豐臣秀吉の朝鮮征伐に燹けたるを重修し、更に光緒十五年、即ち我が明治二十二年に改修して今日に至つたものである。墓の眞偽はとまれ、松籟頻りに鳴り、聖箕子の眠るには相應しい閑寂境である。|(一九二七、撮影)(印畫の複製を禁ず) -
樂浪發掘の戟戈(平壤中學所藏)
戟戈とは捻身又は鉾身に類する古代武器の刄部である。|この戟は楽浪の古墳より発掘せられしもの全部銅製にして光沢を有し、質極めて佳良、刄部は鋭き両刄をなす。其の柄の部に刻む文字に読めば、秦の時代今の陝西省西安府の附近に於て造られたもの、戟戈そのものの価值は固より、その柄の文字も亦金石学上の好参考として、共に天下一品の名を冠せられるものである。|(印画の複製を禁ず) -
咸興俯瞰 (咸南)
咸興は咸鏡南道の樞府、北鮮東海岸屈指の都會である。|地は交通の便に富み、附近は物資豐富に、年と共に其の人口を加へ、昔は僅に政治的一中心たりしもの、今日に於ては北鮮商業上の一大中心となつた。|朝まだき南丘に立てば、遙には洋々たる城津江を、樹間には殷盛の街路を霞の中に見る。(印畫の複製を禁ず) -
人蔘栽培 (開城)
不老長壽藥としての人蔘の名は早くより世に聞え、殊に朝鮮產は効力最も偉大なりとして珍重せられる。然し之を深山溪澤の間に探すには幾多の困難が伴ふので、今日では盛に平地で栽培されるに至つた。開城は其の中心地である。|畫中握舍の如き列が其の栽培場である。播種後五年又はそれ以上にして市中に出される。|朝鮮人蔘は今や總督府の專賣品である。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
廢樓門 (水原)
京畿の一樞都水原は、史上屢々其の名を見るの古都、然し其の昔を語る城壁も、時と共に無用の長物視せられ、風雨に虐げられては日に日に其の影を亡して行く。|畫は其の西門、丹靑の美を誇つた城門も、今は荒れ朽ちるに任せ、毀たれた樓門のあたりに、亭々たる古松長く影を落せるも亦あはれである。|(一九二七撮影)(印畫の複製を禁ず) -
鰯の豐漁 (北鮮)
秋と共に押し寄せた鰯の魚群が、降ろす網毎に其の舟に溢れた。網はその獲物と共に濱に引きつけられ子供も、女も、その魚を引離すことに手傳はされた。|初冬の日が緩かに流れて、白衣黑衣とりどりに忙しい人々の背を暖める。鰯の鱗がやんはりとその光を反射して、忙しくも亦平和な濱の一時である。(印畫の複製を禁ず) -
御宮籠り (朝鮮)
古い國程色々な迷信が憑き纏ふ。幾千年の歷史を有つ朝鮮には、かうした迷信的祈禱が今尚行はれる。|病に罹つたものは、その病源であると信ぜられる惡鬼を拂ふために、かうした御宮に朝々立籠つて、病魔の退散を祈願する。いぶせきこの小舍も、その意味に於て聖域であり靈場である。(印畫の複製を禁ず) -
子守の女 (朝鮮)
子供を背中に括りつけて負ふことは、最も原始的な子守方法だと思はれるが、その方法にも色々ある。南洋や亞弗利加土人のやうに、首から背中に吊し下げた橫木の上に坐らせてゐるのもあれば、日本見たいに足を分けて負ふのもある。|一般に朝鮮では、子供を自分の肩よりもずつと低く、恰も腋の下から負ふた子に乳が飲ませられる位に負ふ。(印畫の複製を禁ず) -
(説明文なし)