亜細亜大観/01
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正金銀行支店 (大連)
大連市の中央大廣場にありヤマトホテルと對立す、日露戰爭のころ我軍の金融機關として明治三十七年八月設立せられ、大連最古の銀行なり。|滿洲に於ける銀券(支那通貨の銀貨に對する兌換券)發行をなし、特產物の取引資金に當て、對歐米為替は主に本行に於て取扱はるゝもの多し。 -
朝鮮銀行支店 (大連)
大連市の中央大廣場にあり、大正五年工を起し九年竣成す、花崗岩及白煉瓦混造にして結構精致を極む。|大正六年從來正金銀行に屬したる金券「邦貨に對する兌換券」の發行權當行に移り、同時に國庫事務を取扱ふ事となり、正金銀行と共に大連に於ける二大銀行なり。 -
警察署 (大連)
明治三十八年六月、關東州民政署の編成なりて其一分課として警務部を設け警察行政を行はせ、爾來二十年種々組織に變遷あり民政署より獨立し警務署として警務、保安、衞生等の事務を取扱ふ。大正十四年名稱を大連警察署と改む、大連大廣場中最も古き建築物の一なり。 -
兒童
女児は無地赤色又は更紗の衣を纏ふもの多きも時、縞物を用ふるものあり、往時より女は纏足の習慣ありしが、近時辮髪と共に廃れ行く傾向あり、特に大連中流以上のものは殆んど其跡を断てり。蓋し我治政の下に教育の普及せる徴証と謂ふべし。 -
賣卜者
支那の街頭至る処、路傍に悠々として筮を算ふる処、支那ならでは得難き情緒なり。古来より筮を粥ぐもの、薬を兼営する慣習あり、下流社会としては比較的読書運筆を能くするものあり、概して老人多し。 -
餠賣
満洲至るところ、路上に餅を粥ぐもの一輪車を用ふ。|餅は糯米又は糯粟を用ひ、之に棗実を搗き交へたるものにして秤を以て価を定む。 -
埠頭待合所 (大連)
大連港頭船車連絡場にあり、設備の完全規模の廣大且美觀なる事蓋し東洋に冠たり、屋内には切符賣場、朝鮮銀行出張所、案内所、電信取扱所を始め、各種賣店及支那料理店、和洋料理店等あり、定期船の發著毎に送迎の人を以て滿たされ、此所に吞吐する旅客は一箇年四十萬人を降らず、夏季は屋上を開放して市民の納涼場に充つ。 -
ヤマトホテル (大連)
五國飯店とも稱し市の中央大廣場にあり、ルネツサン式の宏壯なる建物にて、大正三年より五箇年を費して竣工せるもの、建坪六百六拾坪客室百拾五室を有し三百人を容るゝ宴會食堂あり、其他設備至らざるなし、宿泊は純洋式にて室料一人一日金參圓五拾錢以上、食事朝食一・五〇圓、晝食二・五〇圓、夕食三・〇〇圓なり。正面の銅像は初代關東都督大島義昌大將なり。 -
星ヶ浦ヤマトホテル (大連)
大連を距る西南壹里餘、星ヶ浦公園の中央にあり、夏涼しく冬暖にして、客室より窓を通して海島點在せる靜波を眺め、テニスコート、ゴルフ等の遊技場あり、避寒避暑共に適す宿泊は米式を採り一泊金拾圓以上なり。 -
電氣遊園 (大連)
市の西方伏見臺の高地に在りて大連市を一眸に收め、又遙かに大連灣を隔てゝ大和尚山に對し、眺望最も佳なり、園の特色として電力の應用至らざるなし、溫室、花園、動物園、圖書館、撞球場、メリーゴーラウンド等の遊技場あり又和、洋、支の料理店あり、夜間は全園イルミネーシヨンを施し、萬燈晝を欺き眞に壯觀を極む。 -
阿片
阿片と云へば直に支那を連想する夫れ程阿片は支那人に必須のものである、けれ共最初から支那に有つたものではなく古代は地中海沿岸に栽培され夫れが長年月の間に東漸して支那に入つたもので其歴史は随分古い、之を吸ふ者は大概横臥して煙槍(エンチヤン)を酒精ランプの上に横たへ静かに白煙を鼻孔より吐き何時しか夢境に入て楽園に遊ぶと云ふ。 -
埠頭事務所 (大連)
大連港頭に聳ゆる大建物の一なり。年額七億圓の貿易に對する鐵道、倉庫、船舶等の全ての業務が此建築物の中で整理されて居る。輸出品は大豆、豆粕、豆油、其の他の雜穀、石炭を主とし大正十一年度參億八千萬圓。輸入品は石油、麻袋、麥粉、金物、其他雜貨品大正十一年度参億餘圓。 -
滿鐵本社 (大連)
大連市東公園町の中央にあり、本建築物は元露西亞統治時代商業學校校舍なりしを滿鐵が之に數拾萬圓を投じて改築及増築をなし現在の如き壯大なるものとなる、復古式にて總建坪二六八五坪、約二千人の男女社員が此内に働て居る、滿鐵は明治三十九年十二月七日の設立に係り資本金四億四千萬圓、半官半民營にて其出張所を東京、ハルビン上海、紐 に公所を奉天外五箇所に置てある。 -
民政署市役所 (大連)
大廣場にありヤマトホテルと隣す。|總工費四十萬圓を費し大正八年四月竣成す。大連市は大正四年特別市制を布かれ半數議員は官選なりしが、大正十三年純然たる自治制度となれり。人口今や十五萬人郊外を合すれば貳拾萬人を超ゆ、内日本人七萬人、滿蒙開發の機漸く熟せんとする今日本國の將來期して待つべし。 -
日本橋 (大連)
市の中央に位し大連驛を隔て舊露西亞町と本市街とを連絡す。|工費拾五萬七千圓鐵筋石造にして規模廣大大連に於ける一美觀なり、|橋上より西を望めば、臺子山の容姿富士山を彷彿せしむ、名けて大連富士の稱あり。橋下は大連驛構内なり。 -
浪速町 (大連)
大連市に於ける銀座通にして小賣商買の中樞をなし市中最も殷賑なる處なり。|夜間露店の開くるありて、食後散策の客肩々相磨するの狀、三都の夫れに劣らざるところなり。 -
露西亞町埠頭 (大連)
大連埠頭の築港内部は汽船のみを取扱ひ其他の船舶は凡て此處に着發す、此處に集散する戎克(ジヤンク)の數は夥しきものにして遠くは上海、天津、芝罘、龍口より北は安東、貔子窩等に來往す、貨物は大豆、其他の雜穀及各地の雜貨品にして年額數百萬圓に達す。 -
西公園 (大連)
大連市の西南隅にあり、園中曾て猛虎を飼養せしに因り虎公園とも稱す。露治時代創設せられしものにして西靑泥窪村の殘影なり。楊柳胡藤の喬樹鬱蒼として全園を蔽ひ、櫻桃李花其間に點綴す。|園内五十餘萬坪山あり、谿あり、運動場あり、料亭あり、花朝月夕佳ならざるなし。 -
黃鳥飼
支那人概して小鳥を愛養す、就中黄鳥(雲雀に似たる小鳥)を最とす。|春暁郊外に群れて上天に向ひ、鳥篭を捧ぐるの状、真に大陸人の悠長さを現せり。 -
旅藝人
日本に於ける越後獅子の如きものと、阿呆駄羅経の如きものとあり、手に竹切を持ちて拍子を取り、節面白く歌ひては踊り歩くものなり。|背後の店頭に房状の如きもの吊しあるは飲食店の看板にして、凡て赤色なり。 -
農家
親子三人水入らず。|盛夏の炎暑を避けて屋前に憩ふの状なり、机腰掛等支那人独特の風を味ふべし。 -
老翁
支那人の勤勉なるは今更云ふ迄もなし。|辮髪髭髯漸く霜深うして尚船夫の業に勤しむの状、以て他山の石となすべきか。 -
水師營會見所 (旅順)
旅順を距る西北一里にあり、明治三十八年一月二日、日露兩軍の委員此家に於て旅順開城規約を議定し、越江て五日、我故乃木將軍露國關東軍司令官ステツセーリ中將と會見せる所なり、今や勇將逝て幾世霜!東亞の天地愈々多事ならんとする秋、當時を回想すれば感慨無量只秋風蕭々として淋しく棗の梢を渡る。 -
麻雀 (まー ちやん)
麻将(まーちやん)とも称す上流社会の室内遊戯の一なり、四人一組となりて翫ぶ骨牌の一種にして形稍長方形をなし甚だ厚く牛骨又は象牙に竹の裏打ちをなしたる札百三十六枚よりなり各人十三枚宛持札を取り残八十四枚は伏せたるまゝ舛形に組み各人一枚宛目繰り持札と取替へ、勝負は二串八圏と云ひ四人八廻り宛親を勤め三十二回にして終る。此遊戯は今や世界到る所に流行せり。 -
老虎灘 (らう こ たん)
大連市の東南一里の海浜にあり、電車三十分にして至る。海水弯入する処、藍碧深く湛へて周囲に奇岩を廻らし、背後の丘陵には松樹翠色を滴らし、前は煙波浩蕩として白帆去来す。四期の遊覧に適し、湾口の突出する大岩礁恰も老虎の空を仰いで嘯くに似たるを以て、老虎灘の称あり。湾内釣魚に適す。|(印画の複製を禁ず) -
表忠塔 (旅順)
舊市街の中央白玉山の頂上にあり、巍然として中空に聳ゆ、明治三十七八年戰役旅順攻圍戰に於ける我陸海軍の戰病死者二萬二千餘名の英靈を慰め、其遺烈を千載に傳ふる為東郷、乃木兩大將の企劃になり、工費三十萬圓を以て明治四十年六月起工、同四十二年工を竣れり、高さ二百八十尺、頂上より旅順市街及要塞地帶を一望の下に納むべし。 -
水源地 (大連)
北沙河口にあり、電車水源地停留場より數分にて到す、貯水池は市を距る西南四里王家屯の谿谷にあり、水面貳拾貳萬坪雨水と泉水とを湛へ自然流下にて此處に送水し、之を濾過して大連二十萬市民に供給し居れり、一日二萬一千立方米の給水能力を有す。 -
星ヶ浦 (大連)
市の西南一里餘、電車の便あり、露治時代は黑石礁と稱する半農半漁の寒村なりしが明治四十二年滿鐵之に數萬金を投じて花卉樹木を配し、洋風の公園となして以來、膠州灣の靑島と共に、支那在留外人より大陸の樂園と稱せらるゝに至れり、避暑避寒共に適し、海水浴場、ホテル、旗亭、和洋支の貸別莊等設備至らざるなし。|(印畫の複製を禁ず) -
埠頭船車連絡 (大連)
大連港は、不凍港にして東洋唯一の自由貿易港なり、明治三十一年露支條約により、露國が東洋進出の大商港を企劃し築港に着手せしが、日露戰爭の結果滿鐵の手に移り大増築を加へ、現在最深三七尺の岸壁は三十六區に分たれ二萬五千噸級以下三十六隻の船舶を同時に岸壁に繫留し年額六百萬噸の貨物を吞吐し得べし、構内は凡て鐵道により貨物の搬出をなし、又内地聯絡船に對しては、旅客列車を此處に著發せしめ、貨客共に船車聯絡の設備完備し居れり。|(印畫の複製を嚴禁す) -
大廣場 (大連)
大連は、日本人が所有する最も文明的の新式市街にして、大廣場を其中心となし十大街路蜘蛛網狀に放射し居れり、大廣場は直徑貳百米突の圓形地にして通路の外は凡て芝生となし、之に草花樹木を配し、市民の遊歩と市街の美觀をなす、ヤマトホテル、正金銀行、朝鮮銀行、民政署、市役所、遞信局、法院、警察署、中國銀行、英國領事館等大建築物のみを以て圍繞す。 -
金州城
支那では城といふも日本の名古屋城とか熊本城と云ふ様な規模の宏大な家屋が有るのではない、唯枢要の地域(市街がある)を写真の如き城壁を以て取り囲んで居るに過ぎない、此の金州城は今から約五百五十年前に築造せられたもので、東西七町十六間南北八町三十五間周囲三十一町四十二間あると云ふ、城内には有名な孔子の廟が在り、又北門外には珍妙な像を列べて地獄極楽の状を仮想して現はした天斉廟がある。 -
東鷄冠山北砲壘 (旅順)
難攻不落と稱せられた旅順要塞は、實に天然の要塞たる地形に、加ふるに斯くの如き人工的堅固なる幾多の防備を有したのである、砲壘は巨大なる石材及混凝土を以て築造せられ、掩蓋の厚き所は約二米突からある、而して内部は散兵坑は勿論司令部、救護室、軍需品倉庫、貯水池等を設けてある、敵はコンドラチヱンコ將軍が之に據つて死守したのであるが、我鮫島將軍之を猛擊し穿坑爆破惡戰苦闘遂に明治三十七年十二月十八日之を占領した。 -
閉塞隊記念碑 (旅順)
あの數多の砲臺と軍艦と水雷とを以て守られたる旅順港に對し、其の港口閉塞てふ大膽不敵の計畫を遂行して天晴名譽の戰死を遂げたる我が誠忠義烈の勇士等こそは、實に護國の神にあらずして何ぞや!大正五年十月、老虎尾半島の波打涯の巨巖の上に建てられた此の記念碑は、永遠に尊き勇士等の英靈を擁して後世に其の偉勳を傳ふるであらう。 -
旅順博物館
亜細亜の太古、それは人類最初の発生地であるまいか、而して凡そ其れ以来の物ではないかと思はれる位の考古物を始め、現代の動物植物鉱物の標本及人工の傑作が陳列されてある、就中衆人の珍奇と目するものに西蔵にて発掘したりと云ふ男女の木乃伊が二体ある本館と別館と何れも新市街に在るが写真は本館の方である。 -
工科大學 (旅順)
明治四十三年一月二十日開校し旅順工科學堂と稱したが、大正十一年四月一日を以て大學に昇格した、學科目は機械工學、電氣工學、採鑛冶金の三科である、奉天の醫科大學と共に滿洲に於ける文化の二大源泉と云はねばならぬ、建物は露西亞統治時代海兵團の營舍であつたものである。 -
龍王塘水源地
大連から旅大道路に沿うて行く事約七里(旅順より三里)にして此処に達する、三方は山を以て繞り水源池として天然の好適地、一方の堰堤延長百七十九間余、集水地域二平方里余、貯水池容量一千六百三万二千二百噸、水深最大七十五尺、工費百八十円円、関東庁技師倉塚工学博士の設計に係り、大正九年八月工を起し、爾来満四箇年の日子を費し這般略竣工を見た、之ぞ大連二十五万の人口を潤すに充分なる竜王塘の貯水池。 -
支那藝者
支那では日本人が謂ふ所の芸者の事を俳優と呼ぶ(それと芝居を演る役者とは別であるがどちらも俳優と云つて居る)やはりよく唄ひ、よく弾き、よく喋舌る、踊る方は余りやらぬ様だ、客席に侍るのは時間制ではなく一宴制で、一宴席大概三円位が普通だ、耳輪をはめる事は支那の女に珍しい事ではないが、毛髪は前の方は切り後は髷げて居て、夏等は男と同じ様にパナマ帽でも冠つて出かける様な所は一寸妙である。 -
囃し
支那人は概して喜怒哀楽を卒直に表現する写真の如さ芸人達の演ずる処は実に賑かで日本人には少し喧しい位である、彼等芸人の中、女は種々の歌を唄ふのであり、十歳位から二十歳迄位が多く、男は主に弾奏の方を演るので偶には四十五十の爺もある。 -
乞食 (大連)
大連には可成支那人の乞食が多い、燒き付くやうに暑い夏の日中、暈の仕相な強い舗道の反射も物かは、勝手口から塵箱へと野良犬の樣に廻て歩く、彼等は飯、汁、肴、木、着物等凡そ人間の生存に有要なるべき何物でも手に入りさへすればそれでよいのである、勿論虱や南京虫に年中嚙まれる位の事は何の事でもありやしない。 -
鑄掛師
支那人は、手先の仕事は割合に巧みである鋳掛屋はバケツや、洗面器類の修繕は無論だが、玩具の壊れも直せば、茶碗の破れ目なんかも銯を打つて止める、そして生活程度が低いからでもあらう、僅に一銭二銭の仕事にも応ずる、担いでゐる天秤棒が馬鹿に長い如うに彼等の気分も亦至極悠長にさうに見江る。 -
支那木挽
機械でやれば十分間で片付きそうな仕事でも、彼等は一日かゝらうが二日かゝらうが、そんな事は考へて見た事もあるまい、そこは大悟徹底したもので、兎に角上と下と二人掛りで鋸を動かしてかへ居れば矢張り角材が板になる、要するに満洲ではなまじつか機械を使用するより、労銀の安い彼等を使用する方が安上りなのである。 -
望兒山 (熊岳城)
溫泉と果物とで有名な熊岳城で、今一つ知る人ぞ知るのは此の望兒山である、驛より近い東方の畑中にヌツと聳江立つ岩石より成れる岳で其の頂上に見ゆる塔に就ては一つの傳說がある、昔一人の寡婦があつて、其一人息子が海を渡りて都に上り年を經るも歸り來ず寡婦愛慕やる瀨なく此の岳に登りて、愛兒を待て共(待て共)其の子は歸らず、彼女は終に此岩頭にて悶死した、望兒山とは之に因るといふ。 -
孔子廟 (金州)
孔子の廟は支那の各地に祀られてあるが寫眞は金州城內のそれである、この廟は今から約七百四十年前に建てられたものだと傳へられて居るが、幾度か修繕せられて今日に及んだものゝ由、日本に於ける天神樣と同じ樣に學問の神樣と崇められて居る丈けあつて、此の地は支那でも昔から學問の盛んな所で偉い人を多く出して居るとの事である。 -
豚饅頭製造所
と云ふと大きく聞江るが、事実又はやり屋になると馬鹿にならぬ売上高を算するさうだ饅頭の中には餡の代りに豚肉の小刻みにしたのと、玉葱や韮等を混ぜ合せて詰め込むのである、これに好い加減の鹹味を附けてあるから、鱈腹食つても胸のヤケル心配は少いが、息の臭い心配は大にある、而し韮等を入れず日本人向に拵へたのもある、支那の料理のうちで安価で量の多いのは之が一番である。 -
小平島
大連より約三里半、黄海に突出した一小半島である、人口約七百、住民は半農半漁の生活をして居る、昔は遼東の要津であつて、山東への要路に当り殷賑を極めたと云はれて居るが今は其面影もない、半島の尽きて海に没する処を王皇頂と云ひ、海抜三百尺の絶壁をなし奇巌屏風の如く、白波脚下を噛むで痛快勇渾の趣がある。 -
大和尙山
海抜六百七十四メートル関東州内第一の高山、金山から東約八キロメートル(二里余)の地に在る、巨岩奇石累々として屹立せる処多く、山麓では老樹鬱蒼たるものがあるが山上には草樹少く山容正に大入道の相を具へて居る、山中には朝陽寺、響水寺、勝水寺、石鼓寺等の古刹多く探るべき風景に甚だ富み大連より一日の行楽には最適である。 -
紛條子(支那素麵)
粉条子[フンテヲズ]は粉干とも云ひ、日本人は皆支那素麺と称して居る、緑豆又は吉豆とも云ふ青小豆の澱粉を主な原料とし、之に高粱、包米若くは馬鈴薯、薩摩芋等の澱粉を混じて作り、一度煮沸して干し上げたものである、一見美しくて柄の良いものだから、支那土産として喜ばれる、日本人の口には大して美味いと云ふ程のものではないが、スキ焼の時よく使はれる。 -
普蘭店の鹽田 (關東州)
關東州內の鹽業は年を逐て盛となり現在鹽田の面積は百七十萬坪に達し其輸出高年七十萬石三百萬圓に上り重要なる輸出物の一である此寫眞は大日本鹽業會社經營の鹽田の一部で斯んな風車を鹽田內に數士箇所設け海水を汲揚げて天日製鹽を為して居る。風車の樣式は古來形で最強風力六粍で一時間百六十石の海水を汲み揚る事が出來る、尚此處では海水百石に對し一石の鹽を得る事が出來ると云ふ。 -
靑龍山の喇嘛洞
熊岳城の東方約八キロメートル(二里余)地方は東山千峯の連なる所、就中青竜山は古くから最も名高くして勝景に富み、奇巌天に迫れるかと見れば、又渓流に老樹の姿を宿せるあり、処々蒼苔巌を染め、全山宛ら仙境の思ひがある、山中の古刹たる此の喇嘛洞の如き、殊に一種云ふべからざる神秘的の感に打たるる所である。 -
高粱の取入れ
高粱は支那人の主なる食糧であり、恰も日本に於ける米の如く重要な作物である、而も稲の如くに水や旱天の心配は要らず一雨降つて一箇月余りも照り続けるといふ様なこの満洲辺りの夏の気候は高粱を取つては誂へ向なのであろ、実を落すには乾かして置いて、その上を写真の如く馬に石臼を洩廻はらせるのである、葉や茎は馬糧にもなり又よく燃料に用ひられて捨てる所はない。 -
古墳 (遼陽)
遼陽は、滿洲最古の都と言はるゝ丈けあつて其の附近には舊蹟、古刹古墳が多い。|これは其の古墳の一つで、立つて居る石塔の碑文が殆ど消江てしまつて居るところを見ると餘程永い間風雨に打たれて居るものと想はれる、土盛りの周圍は黑煉瓦で築き固めてあり、上は雜草が生い茂つて居るが、土中の秘密は知る由もない。 -
白菜の山
と云ふと少し大袈裟にも聞ゆるが、十月頃取入れ盛りに支那農家部落に行つて見るとどこも彼処も白菜が山の様に積まれてある、それを又多くの男女が総がかりで彼等一流のお喋舌りをしながら撰り別け揃へて居るのである、之をチヤンと貯蔵して置いて冬から春にかけてそろ(そろ)大連、奉天等の大都市へ送り出すんださうだ。支那料理で一番先に出る例の酸菜と最後に出る火鍋子(ホウクオヅ)の材料の一つは必ず此の白菜付が物である。 -
魁星樓 (海城)
驛より東南方約二キロの地、海城城の南門内に在る、この樓の來歷は詳でないが頗る古い建物であつた事は確かで、自然に殆ど腐杇に傾いて居たのを、最近に於て修築したものの由、村人の曰く、更に百年位は大丈夫であらうが孫が曾孫の時代には又建て直すだらうと -
觀音寺の僧 (遼陽)
この觀音寺は唐朝時代以來のものとは傳へられて居るがはつきりした事歷はこの住職子にも判らぬと云ふ。|古い詮穿はさて措いて、この坊さんの面魂を御覽じろ、とても素晴らしい高僧の風貌をそなへて居るではありませぬか、こんなドテラまがひの法衣を着せて置くのは勿體ない樣な氣がする。 -
支那の女優
芸も財産では有るが、それよりもつと高い財産はこの人等にとつては顔であらぬばならぬ、表情の仕方に就ては西洋及日本女優の如く研究が積んでゐない様だが、美しい容貌の点に於ては異議を申立てる人も有るまい。|頭の飾りは真珠の玉で、之も亦彼女達にとつて頗る大切なる財宝なのである。 -
老婆と孫 (南滿)
之は大石橋附近に住んで居る旗人の老婆と其愛孫とである、旗人とは日本で士族と云ふが如き者である、其昔滿洲には八旗と云て約二十萬人の兵士が親藩兵として駐在して居た淸朝の北京遷都以來累代の朝廷は之等旗人を保護したが彼等は農を好まず恩寵に狎れ其生活放惰安逸に流れ賜給の土地は禁を破て漢人に轉賣し遂に生活窮迫して自滅するに至つた然して今は其名のみ殘て居るに過ぎない。 -
大石橋戰跡
向ふに見ゆる丘陵は紅旗山で大石橋の東南約四キロの地点、此の附近一帯は日清、日露両役の戦跡地である、大局より観て南は金州城、北は遼陽城の略中間に位するこゝら辺りは、蓋し大軍の準決戦地としては好適の地勢たるに相違ない、千軍万馬の古戦場も今は平和の農耕地となり、駄馬の鈴の音も静かに秋の日は暮れて行く。 -
海城の城壁 (南滿)
海城は遼東に於ける古い城市の一とされて居るで所ある、市街をば城壁を以て取り圍んでゐる圖は、支那では何處も同じ筆法である。此の城内に人口約一萬五千の世界が展開してゐると聞いては、聊か意外の感は致しませぬか、支那の町は平地から見たのでは一種の謎であり無言の岩である。 -
輾子と磨
輾子は日本の杵又は上臼に相当し、磨は下臼に相当する役目を勤める農民の取入道具である、高粱でも粟でも磨の上に載せてそれを輾子で廻して殻皮を剥ぎ、又粉に砕くのもある、驢馬に目隠しをしてあるのは、めまひを起させぬ為ださうな、驢馬は全くよく盲従して居る、山東の或片田舎で支那人に誘拐された日本の女が、この驢馬代りに轆子を曳かせられて居たと云ふ話を、いつぞや聞いた事を想ひ起して嘸やつらかつたゞらうと考へた。 -
大石橋全景
此の地は二三十年前迄は、殆ど人形も稀な淋しい所であつたのが、鉄道が通じて営口線との分歧点となつて以来、交通上の要地として漸次に開け、現今では人口約千五百を算すると云ふ、手近に見ゆるは大石橋神社で、此の附近一帯は至極見晴しの佳い公園地になつて居る。 -
機織
かう云ふ光景は日本でも極く田舎へ行くと未だ見られる図である、之は金州城外陽当りのよい処で機織屋が糸を揃へて居るところであるが、機織屋と云つても家庭工業の域を出ない幼稚なものである、勿論工場を建て機械を据ゑて動力でやつて居るのもあるが、之は左様でない矢張パタン(パタン)とやる手織である。 -
(解説文なし)
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白塔 (遼陽)
滿鐵線遼陽驛の東方約五百メートルの所に在る、名の如く正に白色の塔であるが、建設以來一千餘年を經たものと云はれて居る丈けに亦古色蒼然たるものがある。八角形で周圍には佛像が彫んであり、十三層で其の高さ七十七メートルとは全く見かけより以上である、此の邊りは東漢時代に建立せられた有名な廣祐寺の遺跡で、今は白塔公園となつて居り、遼陽人士お氣に入りの遊歩地である。 -
首山
首山は遼陽の南方約六キロの所に在る、高さ七十メートル許りの丘陵に過ぎないが、平野の中に独立してゐて遼陽城を瞰呼し、之を守るにも攻むるにも極めて重要なる地位に在る、日露の役には露のシタケツベリグ中将が三箇軍団を率ゐて此の高地を死守したが、我奥軍は猛撃三日にして之を占領した、丘上には千古の紀念として狼煙台が建てられてあり山下には草樹姿を競ひ、亦渓水声あり風趣に富む、写真は山腹の古刹たる清風寺の門前より撮りたるもの。(印画の複製を厳禁す) -
雪の五佛頂 (千山)
千山の雪景は遊士の觀賞するもの頗る稀である而も其閑寂淸勝の狀は其春秋の風趣に見る事の出來ぬものがある、左の詩に依て幾分か其氣分を味ふ事が出來やう。|千山遇雪(千山雪遇)史褒喜|撩亂雪花撲面飛(撩亂タル雪花ハ面ヲ撲飛ビ)、寂寥千岫鳥聲稀(寂寥タル千岫ハ鳥聲稀ナリ)|白憐駿骨乘危磴(白ラ憐ム駿骨危磴ニ乘スルヲ)、堪怪漁人失釣磯(怪ニ堪タリ漁人ノ釣磯ヲ失フヲ)|山靜謾勞持繡斧(山靜ニテ謾リニ勞繡斧ヲ持スルヲ)、雪深應許褰氈幃(雪深シ許應テシ褰氈ノ幃)|行々暫駐香巖寺(行々暫ク駐ル香巖寺)、笑共梅花一振衣(笑テ梅花共ニ一ビ振フ衣ヲ) -
大孤山鐵鑛區
貧鉱処理法で名を売つて居る満鉄鞍山製鉄所用の砿石採掘所で、日支合辦振興公司の経営鉱区である、東西鞍山、桜桃園、王家堡子等と共に埋蔵量二億噸と称せられて居る、其初め湯崗子の西方小丘の鉄石山なる名称に興味を惹いて、其実查を行つた所鉄鉱山である事を発見し今日に至つて居る。|写真は下石橋子より見た大孤山全景である。 -
龍泉寺 (千山)
龍泉寺の名は千山に於ける多くの古刹中、堂宇の宏壯にして且つ善美なる點に於て特に聞江て居る、而して其位置亦極めて形勝にして、眺望絕佳、眞に淸澄の氣豐なる境地である、省京通志に依れば、明の隆慶五年、即ち穆宗の時に建立せりとある、後殿に雄大なる塑像の三尊の彌陀を安置して在る。|尚龍泉の名は山腹の窟中より流泉の湧出せるより起つたらしい。 -
千山の絕景
温泉の里湯崗子より約二十キロの東北にある、千山は南満洲に於ける最大の雄景であり仙境である、山骨皆巨岩より成り、粉飾するに緑樹花木を以てす、到る処巌頭は天に聳江幽谷は下界に通ず、水晶の如き谿水は其間を縫て走り、実に全山大自然の技巧を表現せざるはない、下方大石に洞天一品の刻字を見る。 -
靑雲觀 (千山)
(千山二十三道觀の一)|松風の音!秋草の薰!岩淸水の流れ!俗世界を離れた此仙境、淋しい秋の陽を享けて輝く古刹の甍!靜にして閑なる事太古の如し!!とでも形容する事が出來やう。此環境に身を置いて心を養ひ、身を練る道士達の姿こそ自然の詩其ものではないか、 -
千山普安觀
(千山二十三道観の一)|道観とは道士の修業場であり、道士とは道教を信奉する者を謂ひ、道教とは老子の教へであつて宗教的の呼方に外ならぬ。而して今日道教と仏教とは相互に共通し融合した点が多く、朝夕共犒鐘し、又堂前に礼拝し読経するが如き全く一様である。因に図中の人物は道士である。 -
支那美妓
パツチリとしたる眼!肉付の豊なる頬!白絹の如く艶麗なる皮膚!唐の楊貴妃も斯くやと思はれる計りである、流石満洲第一の美人と肯かせる丈けの容色と魅力の持主である、今時めく支那某大官の愛を一身に蒐め芳紀将に十九、奉天平康里にて其人ありと知られた美妓である、因に平康里とは日本で謂ふ所の遊廓と云ふが如き名称である。 -
東陵の樓門 (奉天)
東陵はまた福陵とも呼ばれ、奉天城の東方約十二キロの地に在る、北陵、永陵と共に滿洲の三陵と稱せられ太祖高皇帝の靈を祀れる御陵である、地は小丘にして老松連り山水の趣甚だ豐で、其の間に聳ゆる朱壁綠瓦の樓門は亦實に支那古來の工藝の美を偲ばする好箇の畫題たるを失はぬ。 -
東陵の祭殿 (奉天)
年往けど靈は往かず、殿堂は老ゆとも靈は老いず、禮拜の踵は昔日の如く繁からずとするも太祖の威德は炳として永へに變るところはない。|支那神廟は概ね經費の關係上衰頹に委せらるるの傾きあれど、東陵は東三省の守たる張作霖氏の厚き信念に依り、神事奉祭は極めて慇懃に維持せらるといふ。 -
支那の公園 (奉天)
雜踏の都であり、喧噪の都であると云ふ樣な印象を旅人に與ふる、滿洲第一の都會である所の奉天の城内にも、斯うした俗塵を拂ふに足る鄙びやかなる一境地があるのである、冬は敢て訪ふ人も殆どないが夏季陽炎の舞ひ騰る比ひは、淸楚たる華人の逍遙甚だ繁く、湖面には舟さへ泛んで涼味津々たるものがある -
滿洲の冬
満洲には胡藤や柳の葉が散つて了うと間もなく冬がやつて来る、そして鵞毛のやうな白雪がそろそろ降り出すのである、嵐は寒く道は凍るけれ共俗に謂ふ所の三寒、四温即ち三日寒くて四日温かいと言ふ様な天気の廻り合せがあつて南満洲では陽のキラ(キラ)照る暖い日も少くない、然し冬の候を偲ばしめるには矢張り「荒寥」たる情景を現すところに趣がある、写真は大連の郊外老虎灘街道で、路傍に支那人労動者の小屋もあれば現代式の文化住宅も散在してるといふ一場面である。 -
烏拉草 (北滿)
滿洲の冬の寒さと一口に言つても南の旅順や大連邊りのそれと奉天附近のそれ、更に長春、哈爾賓方面のそれとは大に―各十五度位の―差がある、奉天地方から北にかけては冬になると、支那の勞働者階級の者は靴の中に此の烏拉草を入れて足先の寒さを防ぐのである、寫眞は奉天城外の路傍で老人が其の烏拉草を打つて柔くしながら賣つて居るところ、烏拉とは蒙州語で靴を味意して居る相な。 -
山楂賣
山楂は山梨の実を芯にして其れを水飴にまみらかしたもので一種の御菓子である、一見したところ真珠の紅玉を串刺した様で非常に美しいが、其の紅色は飴に色を着けたのではなくて山梨の皮が紅いからである、小串は一本二銭大串は四銭位で売つて居る、小娘が今一串買ひに来たのはいゝが少々寒いので震へて居る。 -
大法寺の仁王 (奉天)
大法寺は奉天の北方約四キロに當る景勝の地に在る、現在は兵燹の廢殘を曝して居るに過ぎないが、舊時の結構宏壯は殘破の建物に據りて略之を想像する事が出來る、寺の南門に仁王の塑像がある、其の大きさ我が東京の淺草觀音の仁王の匹敵するが、酷く毀損し纔に仁王の形態を止めて居る、又碑像は寺の東方橫手に在りて文中に乾隆五十年八月建立の由を刻しあり、藩陽縣志には崇德三年の建立と記せられてをる。 -
觀音寺の僧 (遼陽)
この觀音寺は唐朝時代以來のものとは傳へられて居るがはつきりした事歷はこの住職子にも判らぬと云ふ。|古い詮穿はさて措いて、この坊さんの面魂を御覽じろ、とても素晴らしい高僧の風貌をそなへて居るではありませぬか、こんなドテラまがひの法衣を着せて置くのは勿體ない樣な氣がする。 -
羊飼ひ
支那人がよく家畜を飼養する事は古来よりの伝統的習俗である、斉しく家畜と言ふも之を主として食料に用ゐむが為のものと、営利の為に飼ふものと自ら適当の種別がある、豚、牛の如きは前者に適し羊馬の如きは後者に相応する、尤も畢竟するに何れも経済的欲望を満たす為のものに外ならないが、唯支那人は天性家畜や家禽を飼ふ事を好んで居り、又之を扱ふ事に妙を得て居ると云ふ所から、趣味的欲求も手伝つて居るものと見る事が出来やう、写真は安奉線橋頭附近の村落に於て雪の途上に収めたものである。 -
埠頭の壯觀 (大連)
滿蒙の門戸たる大連港の其の表玄關とも謂ふべき大連埠頭は滿鐵會社の經營する所、其の施設は年と共に改良せられて來たが殊に近來旅客の海路聯絡の為に理想的設備を完成すると共に構内の模樣は革まり大に面目を一新した。|寫眞中央の階段は船客待合所に通ずる入口にして、埠頭事務所、郵便電信局、電車の起點及車馬の待留する廣場に直面せり。 -
大豆の囤積 (開原)
毎年結氷期に入ると、田舍から澤山の大豆が毎日馬車に依て町に運び出されて來る、所謂豆屋さんたる特產商なり油房なりが、之を買ひ込んで、或時期迄持越さうといふ時に、斯の樣な具合に安平で圍ひをして、中にバラ積の盡貯へる、この保管の方法を囤[トン]積と呼ぶのである。 -
馬宿 (開原)
收穫の秋が過去つて寒い蒙古颪が吹き出すと、滿洲では沼や河はもとより満ちも畑も全てが凍てしまつて、何處でも馬車が通れる樣になると、程なく田舍から大豆や高粱や其他の穀物を積だ馬車が日に幾百となく町へ驛へとやつて來る、寫眞は其馬宿の光景である多い時には此幾倍もの數に上ると云ふ。 -
蒙古の王樣 (蒙古の王様)
蒙古の王様は、或地域を相する領主であつて、大地主とでも言ふ事が出来る、そして其の領地は夫々住民に貸下げて農耕牧畜に利用せしめて、若干の年貢を収めて居ること、恰も日本の昔の大名の如くなのである。|写真は外蒙古に親王府を有たるゝ哲里木盟和碩温都爾親王[デヱチモミホシヲウントウルチンワン]である、特に秘書長を通じて撮影の意を得たもの。 -
剃刀的
日本でも昔はあつた田舎廻りの床屋さんである、道具箱と腰掛を天秤棒で担ひ片手に一尺二三寸もあろうと云ふ音叉を持ち指先でビーンピーン鳴らし乍ら流して歩く、客があれば何処でも荷を卸して仕事にかゝる、夏の正[ひる]午下り只さへ眠い処へ、此の消江入るやうな音叉の音を聞かされると益々睡魔に引入れられ堪へられなくなる相な。 -
玩藝(ワン エイ)
御祭なんぞの盛り場で見受ける旅芸人の一つである、口上宜敷あつてドラ鐘の囃しにつれ、種々の芸当を演じ、投げ銭を貰ふのである。斯うした芸人は、日本では入場料を取るが、支那では投げ銭で公開する習慣が多い、又演者が女である処に興味が湧く。 -
籠子
これは萩や柳の小枝等で編んだ篭に、紙を幾重にも張りそれに豚の生血を塗つて造るもので、酒、焼酎、油等の容れ物に多く用ゐられるものである。|油房(大豆を搾で油と粕とを造る所)又は酒屋で使用する何斗と容る様な大きいのもやはりこの紙張りで造られてあるが、此の写真に見る位のものは大概支那人の家庭に於て焼酎や灯油等の容れ物として居る、軽くてなかなか壊れないのが此の篭子の特長である。 -
鳳凰山觀音閣 (安奉本線)
鳳凰城驛の東南二里餘の處に奇巖稜々中天に向て聳江て居るのが鳳凰山である、山中に大溪谷を抱き朝陽寺、趙遙寺、娘ゝ廟、と共に此の觀音閣は有名な古刹である、殊に附近は眺望絕佳にして夏は靑葉に、秋は紅葉錦を彩り、冬は白雪奇巖を掩ひて美觀云はん方なく四季を通じて杖を曳くものが多い。 -
田舍路 (安奉沿線)
馬夫の方が、おんぶしてゞも行け相に見ゆる可愛らしい驢馬に乘つて通るのを、支那の田舍路ではよく見受ける。|この小父さんは、お正月が近づいたので買ひ物にでも行くのでせう?雪晴の暖かい田舍道を町の方へと驢馬を急がせて居ます、村はづれの小祠の前、枯れかゝつた古木、夢の國から來た樣な驢馬の顏、まるでお伽噺にでもありさうではありませんか。 -
蝎
昔から蛇蝎の如く、と云て嫌はれて居るのは此虫の事である、動物学上蜘蛛類に属し、大きいのは六寸位もあつて、主に石垣の間や塵芥の中に棲息し、夜間出て小虫を捕へ尾端の毒鈞を以て螫殺して食ふ、人若し此虫に螫さるゝ時は、局部腫れ上り一昼夜位は堪へ切れぬ痛を感ずるが、生命に関する程の事はない、漢名では蠍と云ひ日本では普通サソリと云て居る。 -
沙漠に轉がる骸骨 (蒙古)
祖先より墳墓の地を持たない遊牧の民蒙古人は、其家族死するや之を布に包み喇嘛僧を招いて讀經を乞ひ、苞の附近に遺棄するが故に食に餓ゑた沙漠の鳥獸等は忽ち之を知り群集し來て屍の肉を喰ふ、斯て殘された骨は雨露に曝され沙漠の到る所に轉つて旅行者を驚かすのである。彼等は死人が鳥獸の為に其肉を食はれ速に骸骨となれば成佛したとて喜び然らざる時は再び僧を招いて中宇に迷ふ佛の成佛を祈るのである。 -
支那の上流家庭
雲泥の相異とは支那の富者と貧者との間隔を説明する語ではないかと思はるゝ程それ程物質的生活の差異を上流と下流との家庭に見別けられる、富者必ずしも上流とは言へないが大体に於て上流家庭には富者が多いのは事実である、之等上流家庭の人々は身自ら労すると云ふ事は殆どなく、家庭は全然自由の楽園其のものゝ如くである、食物は濃厚なものを豊富に摂り、花木小禽を愛づるを以て日を送る、中には一夫多妻の家庭もあつて内面的紛騒も時にあると云ふ。 -
吸水煙
支那人には吸煙家が多い、習癖と言つて了へばそれ迄であるが一種の交際的道楽的に弄ばれて居ると見られぬ事もない、吸煙具に数士百金を投ずる者も珍らしくはないと言ふ。煙袋と言へば煙管即ちキセルの事であるがそれに水の字が附て居るのは煙管の下部に水を入れて煙を漉して吸ふ装置になつて居るからである。 -
支那農家の井戶
丘の下立木の傍等に無雑作に掘井戸を拵へてあるところは、日本の農村等と変りはないが、唯水汲みの方法を異にして居る、即ちハンドル付の木車によつてつるべの綱を捲き揚げるのである。 -
天地佛 (奉天)
奉天城外北方約三粁の所に法輪寺がある。法輪寺には護國之塔があり亦天地佛があるので名高い、天地佛とは天地即ち陽陰の兩性相擁するになぞらへたる像である、本殿内の中央に安置せられ其の東に太陽、西に太陰を表象する像を配し、左右兩側には大菩薩を列べてある。 -
北陵の中庭 (奉天)
北陵は奉天の北方約四キロ地にあり。一名を照陵と云ひ、太宗文皇帝の靈を祀れる所である。瑩域甚だ廣く、周圍は古松鬱蒼として崇嚴の氣自ら滿つるが如くである、陵は正面碑閣の内の後丘がそれである。|此の中庭の左右にある二頭の石馬は大白、小白と稱せられ、太宗の愛乘せられし龍馬に擬して造られたものと云ふ。 -
露天掘 (撫順炭坑)
滿鐵の經營に係る撫順炭坑―大山坑、東鄉坑其の他大規模の坑所が機箇所も有る―中にも此の露天掘こそは正に撫順炭坑をして東洋一の稱あらしむる所以であらう、露天掘は其の字の示す通り靑天井の野原に於て恰も土や砂を取る如くに石炭を掘り採る所の最も安全有利なる採炭方法である、此の方法は言ふ迄もなく石炭の層が地表に露れて居るか又は極めて近く且つ廣く厚きを要する斯くの如き天然の條件を包含してゐる、撫順大炭田の炭量は無慮八億噸と稱せられ、一年間八百萬噸の出炭を為すも優に百年の命脈を有すと。 -
營口埠頭 (営口埠頭)
営口は一に牛荘とも云ひ、遼河口より約十四浬の上流左岸に在る、埠頭は二区に分れ一を汽船及西洋形帆船の碇泊区域とし、一を民船戎克の碇泊区として居る、汽船碇泊区域は延長一、七〇〇呎、河幅二、五〇〇呎ある、港内の水深は頗る深く干潮時四〇尺あるも干満の差甚しく、冬季十一月より三月迄は結氷して出入不能となる事と、河口に閂洲ある為営口の発達を非常に阻害して居る。 -
支那街所見 (營口)
こゝは營口天后行宮前の大道である。|物賣りも集つて居れば、的も無ささうに、ブラ(ブラ)して居る男も居る、そこを今しも支那兵の一隊が步武堂々と行進しつゝある。|これを今日の支那の社會の縮圖と觀る事も出來はすまいか。 -
胡弓の名手
胡弓は支那で最も一般的に弄ばれてゐる楽器である、僅に二本の糸で情緒纏綿たる音律を出すことは、恐らく多くの楽器中随一であらう。|この小父さんは胡弓弾の商売人で大連一の名手だと云ふ、支那の芸妓は歌を唄ふ丈けで、鳴物の方は斯うした男の弾手が、伴奏するのである。 -
北海の瓊華島 (北京)
舊皇城の西安門と西華門との間一帶を西苑と呼び、其の西苑中三つの大なる池がある。其の最も北に位するのが北海で、其の北海の眞中に築かれてあるのが即ち瓊華島である。島には承光門方面より碧喬が架せられてあり鬱蒼たる樹木で殆ど全島蔽はれて居り、亦奇岩怪石多く布置せられ、眞に幽邃の趣がある。山頂高く聳ゆる白塔の下には、銅龕の中に顏面手足等各十數宛を具へて居る奇怪なる喇嘛佛を安置してある。 -
萬壽山の廻廊 (北京)
萬壽山の一週觀覽を為すには必ずこの長廊を巡らねばならぬ、其の長さ數千尺、梁棟には彫刻を施し、花鳥山水を描き、五彩の美は全く人目を眩する許りである、廊間に留佳亭、寄瀾亭等を配設してある。|西太后が巨萬の海軍充實費を流用したのはこの廻廊等に多く費した為で、然うでなければ戰艦二隻を建造し得て、日淸戰爭にもあれ程脆くは敗けなかつた筈と云ふものもある程である。 -
弓橋 (北京)
これは北京萬壽山の處々に架せられてある弓橋の一である、斯る橋でも總べて大理石造りであつて豪者の跡を物語つて居る。|圖中の小舟は池中の鯉や鮒を突き捕へて居るところで、目の下一尺位のものはザラに居ると云ふ。 -
正陽門の箭樓 (北京)
この箭門は、淸末の英傑袁世凱の築造したもので、爾來戰爭のある毎に使用されて居るさうである、この箭樓を狹んで東側に京奉線の起點たる、東火車站[ポーチヨーチヤン](東停車場)があり、西側に京漢線の西火車站がある。|この附近は北京でも最も交通の頻繁な雜踏する場所である。 -
天壇 (北京)
北京には壇と稱するものが多い、天壇、地壇、日壇、月壇、社稷壇、先農壇、先蠶壇等は其の著名なものであるが中にも規模の最も大きなものはこの天壇である、天壇は正陽門の南方永定門內に在り、今より五百五年前明の天子の建造せられたもので、皇天上帝を祀られた處である、壇は天に象つて圓くしてあり、上中下の三層に築いてある、毎年冬至の日出前に天子が、此の壇上に登つて天を三跪九拜したものであると云ふ。 -
龍王島 (北京)
北京風光の第一勝地たる、萬壽山の影をさかしまに映して見せるものは昆明湖、其の昆明湖の鏡の上に浮んで居る一群の樹林が龍王島のそれである、舟を賃して湖を橫ぎるもの終りに此所に上りて島内の廟に詣で、それより大理石造りの十七穹を開いた玉帶橋を渡つて歸るのが順路となつて居る。|(印畫の複製を嚴禁す) -
景山 (北京)
景山は舊皇城の神武門の北に在る、五つの峰が列んでゐて、其の中央(この寫眞に向て右から三番目)の峰が一番高い。|この山は、元の世祖が都を北京に奠めて城を築いた頃庭苑として態々築いたものであると云ふ、歷代の春苑で一般の登攀を許さないが風致甚だ秀雅であるとせられて居る。 -
農家の春
咲き乱れた杏花の下、夫を野良に送り出した妻は暖い春光を浴びつゝ、あどけない児等の会話に微笑で居る。幸福其ものゝ様な農家の春、それは我関東庁治下を離れては彼等に希まれない生活である。それ程に、関東州内に住む支那人は平和に幸福な生活をして居るのである。写真に見るが如き家の構へは、満洲では中部以南に限られて居る様である。 -
摘草
広々とした若草の原、軟かい陽の光、草摘む少女の鄙びた姿、姿こそ変れ春を楽む状は日本の田舎と変りはない、満洲と云へば寒い殺風景な処位に考へて居る内地の未知の人々に、是非見せ度いのは満洲の春である。 -
種蒔
冬の眠りから蘇つた大地の微笑む頃となつた。これから農夫等や驢馬があちこちから田圃へとやつて来る姿が日に増し多くなる。|蒔かれた種は間もなく芽を吹いて、強い日光に照りつけられ、グン(グン)繁茂して広い地面を大袈裟に蔽ふて了うところは、ほんとによく大陸的の趣を見せる。 -
家庭用具 (蒙古)
無論これは遊牧を業ひとする部落民の什物ではなく、むしろ土地の有產階級の家庭にあるものである、鹿の角をつけた板は索倫(ソロン)で出來る飾物、一見笛にまがふものは刀であつて肉を切つて喰ふ時に使用する、角い袋はお守袋、丸い銀製の腕輪は支那人のと餘り異らない、其他は帽子、皿。 -
堆石(オボ) (蒙古)
堆石(オボ)とは字義の通り石を積んだ塚であつて、佛を祭る一種の石段である、もとは一箇獨立した宗旨であつたが今は廢れてたゞそうした形骸だけしか殘つてゐない、此のオボは蒙古何れの地にも見られる、從つて其種類にもいろ(いろ)ある、旅び人は一路平安を祈る為め石を一つ宛積んで行く。 -
堆石(オボ) (蒙古)
オボの祭典は夏季催されることになつてゐる、祭りの當日には喇嘛王も僧侶も兵士も百姓もみんなオボの周わりを踊り廻はると云ふ此の寫眞は堆石の上部であつて、此處には布に畫いた女佛像が納められてある、毎年の祭典毎に新しいものと取り替へられる、それは雨露に風化されるからである。 -
唐克里廟 (蒙古)
四洮線臥虎屯の驛西二十五支里の處に唐克里廟(タングリ)と云ふ喇嘛寺がある、天の廟と云ふ意味である、附近に馬里近と稱する村がある、その村にも喇嘛廟があつて東西二村ともこの廟を有すこれはその西廟と云つてよからう、和碩溫都兒親王の家廟で嘉慶年間慧豐寺の寺號を勅賜されてゐる。 -
唐克里廟 (蒙古)
蒙古に於ける寺院のすべては喇嘛寺であるそれは此の國では政敎一途であつて國王は即ち喇嘛僧でなければならぬ、王宮は喇嘛寺であり喇嘛寺は王宮である、そうした關係から喇嘛僧の勢力は此の國では絕對力である、今この西廟には喇嘛僧八百人と稱せられ何れも寺院の周圍に居住してゐる。 -
洮南の薩鷄街茅土 (蒙古)
洮南城內の北部に今なほ保存せられてゐる一基の枯木である、その地方では薩鷄街芽土(サチガモト)といつてゐる、洮南市街の出現以前は此の樹を見當に各地方から旅行者が集つて來て、此處で市場を開き物々交換をやつたと傳へられる、そうして從つて樹の名もそれから起つたと傳へられる。 -
松花江の筏 (吉林)
北滿の都の一つとして吉林は何としても重鎭であらねばならぬ、乾隆十五年吉林將軍を置いてから其名著しく稱せられると云ふけれど、その松花江の雄は何としても吉林の生命である、吉林の背後を擁する大森林は此の松花江が無くては生きない、山紫水明の天地を點ずる筏の雄渾を見て貰ひたい。 -
農夫 (北滿)
北滿の地が南滿一帶に比して頗る豐沃なるは、長春哈爾賓間の旅行に於て車窓からの一瞥ですぐそれは知れる、松花江に沿ふ一圓の地、それは一望際涯なき平野、そうして其處には肥料の必要もなくたゞ天惠の雨露と日光とを待てばよいのである、寫眞は種蒔に當つて掘つた土をおろす農夫である。 -
石棚(ドルメル) (普蘭店)
普蘭店を距る五里亮甲店附近に大小二箇の石棚がある。これはその一つである。歷史以前石器時代の遺物であつて三千年以前此の地方に在つた東古斯族の遺跡と云ふ事が發見された。此の民族は當時遼陽附近太子河を境として居住しそれを境とした南北の民族は全然趣を異にして居たと稱せられる。 -
松花江の渡船 (吉林)
吉林市街は松花江に臨んで東西に延びその長さ十五支里、南は丘陵北は平野である、そうして城壁は江岸を除いて三方面をめぐる、自然松花江に面する方面への交通は渡船である、此の舟は場合によつては四隻ても五隻でも併行せしめて幅廣の一隻の舟となし大貨物を積載舟揖するに便にしてある。 -
御大典紀念附錄 滿洲里風景 露支國境