亜東印画輯/11
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◎上流にて(鴨綠江)
冬期に伐木された丸太は春になると江岸に搬出され、さゝやかな水を賴りに管流せられて一まとめに編筏せられ初夏の候に流筏となつて江上に浮ぶ。二百里の江水の隨所に筏節が流れ、やがて秋ともなり全山紅葉の十月となると筏の影も江上から消えて伐材の山入りとなる、小屋掛け、伐材、搬出が順次に操返される。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎長白の街(鴨綠江)
鴨綠江を狹んで朝鮮側惠山鎮に向合つた滿洲側に長白の町がある。千古の祕境白頭山の山裾の翠巒を背にして鴨綠江に臨む處で對岸惠山鎮と共に材木と筏に生きるさゝやかな町である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎惠山鎭(鴨綠江)
筏が編まれてから荒海の濤にも似た急湍や激流を水沫を浴びながら流れて來た筏夫の安偖の棹が先づ投げられるのが惠山鎭の町である。筏の町惠山鎭は、宵ともなれば紅燈に灯が搖いで軒々から錆のある鴨綠江節の投げやりの哀調が流れる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎葛田里(鴨綠江)
兩側から迫つた翠巒と巨巖、その峽を緩やかに流るゝ淸冽の碧潭、葛田里附近の景は二百里の江中隨一の勝景と云はれ萬斛の凉味を湛えて居る。若葉を映した江流の山峽に緩やかに流るゝ筏の主も、谷の鶯に誘はれて自づと筏節でも出るにふさはしい詩境である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎筏(鴨綠江)
碧淵に奔流に時には怒濤の中を岩を縫ふやうな筏夫の生活は、翠巒の靑葉に郭公を聞く初夏頃から始まり、三ヶ月の間一竿の棹に生命を托したスリルの日を送るのである。上流から江口迄直行十六日、支那筏は重量が重く日數も六十日も要するので筏の上に野菜を造り養豚などもやる悠長さである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎中江鎭(鴨綠江)
筏流しは上流なほど川幅が狹く流が急激なので奔流、急潭の灘所がつゞく。上流から惠山鎭迄が一區、惠山鎭から新乫坡鎭迄第二區、こゝから中江鎭迄は第三區である。こゝから流が西南に向つて蜿蜒長蛇の巨流となり水流も稍々緩くなるのでこの町は筏夫の骨休みの町となつて居る。對岸は滿洲側の臨江である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎筏流して(鴨綠江)
筏節 唱ひながらに瀨を越せば 谷の鶯連れて啼く…………… 鴨綠江の上流は急峻の巒峯が向側に迫つて、その間に水色淸澄の江流が奔流し或は瀨となり或は淵となつて絕壁の翠色を映しその間を筏の流るゝ風情は實に風景絕佳の境である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎關門附近の夕映(鴨綠江)
江岸の居巖を影繪のやうに映した江上には今し夕映が金波を碎いて、筏夫の流す悠長な素朴なそして一沫の哀愁をそゝりげな筏節のメロデーが、夕靄のうちに江岸の山皺に消えて行く。關門拉子の瀨は鴨綠江中流で灘所と云はるゝ處である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎鐵砲關(鴨綠江)
江流が淺瀨にかゝると流水を導き調節をとるため堰が設けられる。鐵砲堰と云ふのがこれで、筏が此處で編み換へられる暇に濡れた材木の上で筏夫は漸く安偖の思がされ、緩やかに昇る煙草の煙にも一枚下は地獄の戰慄も忘れげに見られる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎落葉松處女林(鴨綠江)
惠山鎭の後方帽子山の上流地方は面積約二百四十萬町步を算する針葉樹の大森林があり、鬱蒼たる落葉松の處女密林は蓄積量約十億尺〆と云はるゝ壯觀なものである。往時淸朝封禁の御獵區で伐材を禁じた處である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎湯の町(五龍背)
湯の町五龍背は處々に溫泉が湧出せられ驛近くの水田の中にも浴槽が見られる。田の面を涉る微風をうけ遙かに五龍山の夕靄を眺めつゝ、水田に圍まれた浴槽にひたるひと時こそそゞろに湯の村の出湯の思出に返る時であらう。飛び交ふ螢の影を水面に映す夏の夕はまた一しほである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎鳳凰の山麓(鳳凰城)
鳳凰城は草河、二道河、南山咀河が靆(異体字。へんは上部が玉に下部が云)河に合流する平野にありこの盆地は煙草の栽培に從事するものが多い。「直上靑雲、振衣千仞」と云はる鳳凰の奇峯に棚引く白雲を背景に、今し耕作を終へて家路に急ぐらしい一群の畵面は正に自然の描く絕好のタツチである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎高麗より鳳凰を(高麗門)
高麗山は所謂柳條邊墻と云はれた長栅六邊門の最南端をなす處で、山中に規模雄大なる高麗城趾の殘影あり幾多の傳說に富む山である。此處より望む鳳凰山の山姿は實に雄渾で峻嶂稜々たる嚴山の半天を摩するあたり一沫の白雲天空を蔽ふ豪華は實に天下の壯觀である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎釣魚臺(釣魚臺)
橋頭の南一里半に釣魚臺の景勝がある。碧潭の河岸に自然と屹立する斷崖の上に丹碧の色も鮮かに普濟寺の寺觀があり、附近一帶滿洲の耶馬溪と稱せらるゝ處、細河の淸流に映る斷崖の投影、老松に楊柳に、春はライラツクの美に、秋は紅葉の錦繡に山容水態相映發する風光美をなして居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎連山關附近(連山關)
連山關は滿洲の輕井澤と云はるゝ淸境で、海拔千百尺あり、分水嶺に近く翠巒に圍まれ細河の碧流に沿ふた土地で、西三里には日露戰役に有名な摩天嶺の戰跡がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎水車小屋(古松子附近)
細河の流れに沿ふて到る處に水車小屋が河岸に見られる、流れを利用して楡や柞を粉末にして線香の材料を製造する處で「香磨」と云はれて居る。 線香つくろとて細河の水は臼をまはすことまはすこと楡と柞とが細河の岸で臼に挽かれて粉となる 野口雨情― (印畫の複製を嚴禁す) -
◎細河のほとり(南坆附近)
南坆から下馬塘に連る間の、細河の碧流に沿ふた一帶は、逶迤たる翠巒奇峰の蟠居する間、河流は潺々として或は急に或は緩に迂曲變化して沿線中特に秀景を唱へらるゝ處である。南坆近く亭々たる老松の聳立する下に鎭座したさゝやかな庙宇の點景にそゝられてシヤツターを握つたのがこれである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎五本松(長嶺附近)
安奉線の連山關から橋頭乃至本溪湖の間は、行く處行く處幾度も車窓に迫り或は去る翠巒奇峰、その間を縫ふ細河の碧潭淸流、處々深淵近くに立つ水車小屋の點景、靑蘿を着た老松の佇ひ、春に、夏に、秋に沿線の到る處景ならざる處は無い。これは長嶺附近の深碧に拾つた五本松の投映である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎五龍川(沙河鎭)
水色のもやのなかにて黃昏れぬ五龍の峯と沙河の柳と 與謝野 寬― 夕近き五龍川(沙河支流)のせゝらぎは、楊柳に凉風そよぎ水田に蛙の聲聞える頃になると、水田の此處かしこに螢の飛交ふ宵となつて五龍山の峰は次第(次第)と闇の中に消えいとも閑靜である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎渡し船(太子河)
舟運に筏に太子河は本溪湖を中心として地方交通に重要なものである。暮れ近く塒に急ぐ人々であらう。何やら渡守と聲高に物語る言葉のうらにも淳朴な地方色がうかゞはれる。やがて渺漫たる江面に夕暉が碎けて對岸の山容に漸く宵闇迫れば逆光を浴ひた扁舟は人も舟も明るく隈られて美しく浮出す。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎通化城門(東邊道)
舊城內は環城區と云はるゝ區域で縣城は略正方形にして周圍僅かに二支里半に過ぎぬ。東西南の三門あり、城內には官公署多く東門の震陽街と南門外通り最も殷賑で大小の商賈が軒を連ねて居る。人口四萬六千餘。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎通化市街(東邊道)
舊名頭道溝と云はれた通化街は同名の省東部に位し渾江の西岸にある町で、之は荒凉たる無人の原野であつたが清の同治年間開放と共に移民の手に開墾せられ光緒年間縣治を布かれるに至つた。今は東邊道資源の開發と共にその中心地となり、新らしい開拓に踏出した洋々たる前途に輝く町である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎通化橋(東邊道)
通化驛から通化神社を左に拜み渾江に架せられた近代的な橋を渡れば市街に入る。街は四圍山丘に圍繞せられ西北兩面には近く丘陵を控へ、東南兩面は渾江に臨み、東南六支里南北二十支里あり、最近梅輯線の開通は人口の集中を見て重工業の中心地として期待せられて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎通化公園(東邊道)
通化の東北隅、渾江に臨んだ高丘の一劃が通化公園區域である。綠葉に覆はれた丘陵の間には丹碧も鮮やかな玉皇廟の一廓があり、一隅に日本人忠烈之碑と云ふ弔魂碑もある。脚下に瞰む渾江の淸流、遙かに連る翠巒の山紫は都人慰安の遊步地である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎渾江(東邊道)
東邊道一帶は嘗つて匪賊の跳梁跋扈した處で住民の窮狀は疲弊その極に達した地方であつたが、新政府治下と王道洽く樂土を謳歌するやうになり今は昔日困憊のあともない。住民のその日のなりはひも穩やかに、河源に衣すゞぐ婦女子もいと朗らかである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎五道江(東邊道)
五道江採炭所の報告に依れば五道嶺區域の炭層は埋藏量一億瓲と云はれ、東邊道隨一の有望炭礦地として露天掘が着手せられて居る。梅輯線開通の現在では交通の至便と共に將來多大の期待をかけられて來た。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎五道江附近(東邊道)
千古の靈峰白頭山を近く北に望み省內に雄渾壯大な峨々たる秀峯を抱く通化省は、或は滔々たる鴨綠の流れに或は淸冽の渾江に彩られて、綠蔭濃き叢林に山紫水明の境を現出してその景勝宛然日本の風光を髣髴せしめるものが多い。これは五道江近く渾江に臨んだ幽邃の淸境である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎老嶼途上(東邊道)
眞夏の陽は赫々と頭上から照りつける都塵を離れた山道の眞畫は騷音もなく悠久のまゝの靜寂で草を食む馬の嘶が聞えるのみ。夏とは云へ高原の大氣は淸新な爽凉の氣が漲る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎老嶺にて(東邊道)
通化省は由來殆ど全部が山岳地帶で、東邊道中でも割合に交通のよい西部はその豐富な木材が伐木せられたが東部一帶は古來樹海と稱せられた密林地帶で、老嶺もその一部をなして居るが更に調査の結果森林に覆はれた山嶺の地下は埋藏量數千萬瓲の鐵鑛產地として新らしくデビューされた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎山中の溫泉(東邊道)
老嶺の嶺つたひ臨江へと下りる途中山峽の草叢の中に滾々と湧出するさゝやかな溫泉に出遇つた。自然そのまゝ設備も無いが、去來する雲を映して淸く登んだ《澄んだ》浴槽は何かしら傳說を秘めた靈泉のやうで、季節の早い秋虫のすだくのも山らしい寂しさである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎臨江下瞰(臨江)
土名帽子山、市街は城壁なく、背山帶江、狹小なる地域に存し街は東西、南北各二條の大街より成る-これが臨江のアウトラインである。帽子山から瞰んだ町は江を隔てゝ相迫る兩側の山に抱かれた田舍町に過ぎぬが、東邊道の開發が飛躍的に進展しつゝある現在では對岸中江鎭に連る要所として將來の發展を豫期せられて來た。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎臨江門(臨江)
臨江の歷史は遠く千數百年の昔から始まる。漢の時代に高句麗の舊都として知られた國內城のあつた處で、渤海、遼、金、元を經て淸代まで及んだが兎角地勢上治安圈外にあつたので近頃迄匪賊の跳梁に惱まされた淋しい町であつた。現在は治安の確保と共に漸く產業線上に浮びその名を識られるに至つた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎國境の町(臨江)
歷史に古い臨江の都は幾多の曲折を經て或は採木業者や人參採集者や鑛山師て賑つた事もあるが、地形の關係上匪賊の跋扈に委せたため僅かに町の形を續けて今日に至つた。滿洲國の生誕を見てから最近資源の開發となり事業の進展となつて昔日の夢を再び現出するも遠くない今日となつた。橋は對岸中江鎮に連る國境の橋である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎江岸の碼頭(臨江)
鴨綠江の上流地方長白縣あたりで組まれ淵に流れ瀨を涉つた小筏は、臨江迄來ると此處で組換られて大筏となり悠々江水に流される。臨江の碼頭は夏季にもなれば採木に從事する人々が夥しく螺集し町はその人々で賑はされる。こゝから上流は筏の往來のみで此港から漸く艚子船が動き下流と連る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎銃眼のあと(臨江)
明け暮れ匪賊に惱まされた日の記念とも思はるゝ物々しい銃眼を備へた白壁がその頃の戰慄を如實に物語る。山を背にして構へた舊家らしい豪家の門構へも今は王道の慈光に惠まれいとも隱やかに、樂土の恰光はこの邊陬にも我世の春を謳へる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎鴨綠江を隔て(臨江)
鮮やかな赭土に綠色を配した對岸の山々、淸洌《淸冽》の江水に浮ぶ白帆の倒影、鴨綠江を隔てゝ望む對岸朝鮮の眺望は映かれたカンパスの美である。江を走る戒克は臨江々岸を最上流の起點として安東へ下に下に流れて行く。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎東邊道の山容(臨江附近)
遙かに望む重疊たる巒峯の起伏は大海の濤にも似、山巓を包み山脚を縫ふた白雲が飛去つた後は綠蔭濃き叢林に或は山峽に清爽の氣滿ちて山容の豪壯は自から神氣迫るの感がある。煙筒溝附近一望の偉容は流石に景勝を誇る東邊道大自然のパノラマである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎煙筒溝附近(臨江附近)
轟然たる爆破の響が欝蒼とした綠樹の山々に反響して眞畫の靜寂を破る。東邊道一帶隨所に採掘の音響と共に大自然は破壞せられて資源が開發され文明が漸次進出されて行く。煙筒溝は臨江から東方約一○粁にありその埋藏量三千萬瓩と堆定《推定》せらるゝ採炭所である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎大栗子溝(臨江附近)
大栗子溝採鑛所は臨江から南西よりの近郊にあり淸時代に一度採鑛せられたまゝ放置されたがが今次本格的調查と共に最も有望なる鑛區として愈々開發せられたもので、主要鑛石は赤鐵鑛でその埋藏量七千二百萬瓩と推定せられ含鐵量六三%の富鑛と云はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎葉煙草賣り(臨江)
重疊たる山岳の間の僅かに鴨綠江に面した狹小な平野の一部分にある臨江附近は、地勢上農業に適さずその產額も少く僅かに古くから知られた山人參と葉煙草や麻等が特產品として擧げられる。今も日當りの良い道端の葉煙草を鬻ぐ店先に集つた人々で世間話が賑つてるらしい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎東陵隆恩門(奉天)
東陵は奉天の郊外約十四キロに參差たる老松に圍まれた幽邃の丘陵にあり、天柱山福陵と云はれ滿洲創業の英主淸の太祖とその皇后を祀る靈域である。黃と碧の釉瓦に彩られた壯麗な三層の樓門は、亭々たる老松に映えて丹塗の柱も昔ながらに櫛風淋雨三百年の靑史と共に今尙絢爛の姿に行客の眼を奪ふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎碑樓(奉天・東陵)
女眞族の英主愛親覺羅が滿洲に覇を唱へ遂ひに中原に出でゝ淸の創業成つたが歷代の帝王永久に鎭もる東陵は規模絕大四境は都塵を離れた松籟閑邃の一劃で、奉天北部の北陵、興京の永陵と共に奉天三陵と稱せらるゝ名所である。これは康熙帝御筆になる聖德碑を藏する碑樓である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎隆恩殿(奉天・東陵)
双眸の中に平原を走る渾河の清洌《清冽》を望む隆恩門を過ぎて更に進めば、舗壁に圍まれた方城の正面に欄干階段悉く大理石の中に丹碧の美も鮮やかな隆恩殿がある。四隅に四つの隅樓と兩側に東西の配樓あり、建築の巧緻結構は滿洲建築の粹と云はれて居る。後に一段高いのが明樓でその後方の圓丘が寶城である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎大理石の石階(奉天・東陵)
その昔歷代の皇帝が綺羅百官を扈從し袞龍の御衣親しく玉履を運ばせられ先靈を禮拜せられた隆恩殿正面の石階で、大理石に刻んだ鑿のあとも昔のまゝ玉を爭ふ双龍の浮彫も一時は時流の變遷のため御幸を斷たれたこともあつたが、新英主を迎へた現在では再び我世の春が甦つた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎明樓と寶城(奉天・東陵)
前方僅かに見えるのが隆恩殿の後部で中央の高樓は明樓と稱へられ太祖の陵碑が祀られてあり、碑は中央は滿洲字、右は蒙古字、左は漢字で太祖高皇帝陵と記されて居る。後方の半圓丘は寶城で周圍約百間位、英主の御靈が永久に安らけき寶域である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎石門(奉天・東陵)
支那や滿洲には寺廟は勿論街頭の人ごみの町角によく石造や木造の牌樓が見られる。或は草叢のなかに忘れられ或は塵埃にまみれて顧る人もないが、皆頌德碑であり表彰記であるのである。これは東陵境內にあつた石門で滿字と蒙古字で皇帝の英勳をたゝへたものらしい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎皇寺前の牌樓(奉天)
奉天城內の小西邊門から少し離れた處に蒙古風の喇嘛寺がある。屋根が燦然たる黃釉の磚瓦で葺かれてるので黃寺と云はれ、又淸初の時代に皇室の勅建廟であつた處から皇寺の名でも呼ばれて居る。奉天名所の一つとして人々の足をひく處である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎嗎哈噶喇樓(奉天・皇寺)
往昔淸の太宗の盛んな頃察哈兒丹林汗國の國母が遙々嗎哈噶喇佛の金像と金字の喇嘛經を白駝の背に運んで來た處、急に白駝が止つて動かず止むなく其地に佛像と經文を納めたのがこの嗎哈噶喇樓との傳說が傳へられるが、今は靈現あらたかな廟となつて善男善女の香華も縷々として賑つて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎法輪寺本堂(奉天)
奉天の城外四方に喇嘛廟があり東方を永光寺、西方を延壽寺、南方を廣慈寺、北方を法輪寺と呼ぶ。共に奉天城(宮殿)中心として淸初に都城鎭護のために建立せられたもので各寺に各々一基の白塔が建てられて居る。法輪寺は北の方市街地に最も近き處にあり碑文によれば佛法弘道のため建立せられたと記されてある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎白塔(奉天・法輪寺)
奉天には彼の皇寺(實勝寺)を始め長寧寺以下喇嘛十餘個廟もあるが特に白塔(喇嘛塔)で知られてるのが東西南北の四廟である。白塔は四個所共殆共通の型で、基壇と中央の圓い塔身の上に相輪の描く釣合ひが西藏型に屬するものとしては代表的なものと稱せられる。これは法輪寺の白塔で淸の世祖の創建による。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎清眞寺本堂
「回子(ホイヅ)」と呼ばれる回敎徒は全支二千萬と稱せらる宗教團體で寧ろ一つの民族の感がある。アジア、ヨーロツパ、アフリカに跨る三億に餘る同一敎義の下に鞏固な團結を保たれて居る。支那に於ては永く漢民族の壓迫下に爭鬪をつゞけて來たが現在その動向は種々な意味で重要なものとして注目を集めて居る。淸眞寺はその寺院である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎清眞寺大殿
淸眞寺の大殿(正殿)は僅かに裝飾的に書かれたアラビヤ文字の扁額と玻璃燈が吊されてある位でガランとしたもので、正面最奧は龕になりこゝにはアラーの神が祀られる。全體が簡素ではあるが大體嚴肅を失はぬ莊嚴さがあり、中央から左方寄りの階段は敎壇で特に正面を避けて設けられてある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎禮拜
回敎には信敎の五基と云ふものがあり祈禱(禮拜)はその內第一の勤行と云はれ、禮拜は信仰の樞軸をなすもので神への奉仕を單的に顯す最も嚴肅な法式とされて居る。頭にターバンを付けた信徒が或は立ち或は跪坐して黎明、正午過、日沒前、日沒直後、夜の五度の禮拜を靈の糧として缺くべからざるものとして行ふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎清眞寺の月樓
支那に於ける回敎徒は由來人種と宗敎を異にするため漢族の壓迫下にあり職業も下層に近く特種階級扱ひを受けて來た。然しその鞏固な團結と連絡は、今も尙ほ「右に劍、左にコオラン」の昔のまゝの爭鬪意識に燃えて「回敎よ何處に行く」の問題は政治的にも重要な關心を持たれて居る。(圖は清眞寺の月樓) (印畫の複製を嚴禁す) -
◎月樓の尖頭
支那、滿洲に見る回敎寺院の建築は文廟に似たもので極めて簡素であり地理的の關係で希臘敎らしいのも見られるが概して發祥地の壯麗さは見られぬ。月樓の尖端、相輪に光る半月形の金月輪と、廂の欄間に畫かれたアラビア文字に何となく異國趣味がそゝられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎沐浴
禮拜が回敎徒には絕對の信條であるのでその條件として禮拜前の身體の清淨は潔癖の彼等に主要なものとされる。淸眞寺には必ず水房(淋浴室)の設備があり、方式は身體の各部を滌ぐ小淨と日本の水垢離と同じ大淨の二つがある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎回々教徒
回敎生活は禮拜を第一信條とし更に嚴格な潔齊が行はれる。この勸行(斷食)は回曆九月に三十日間行はれる苦行で彼等の根强い團結はこれから生まれるとまで云はれて居る。信條の一つとしてメツカ巡禮があるが支那地方では地理的にも容易な事ではないので餘り行はれぬ。頭のターバンは發祥地アラビヤの風習が今も神に對する禮儀として殘されてるものと云はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎回教徒の門構
風俗も習慣も相異るが唯一つのアラビヤ語聖典コオランによつて結ばれた回敎徒の信仰は根强い連繫を保たれて居る。支那だけでも西北の甘肅、靑海から蒙古、滿洲と各々相異る地域であるが、しかも彼等は旅宿は勿論其他總て同族の間に結ばれた信仰の綱を賴つて步く。これはその回敎徒たるを表示する門構の一例である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎回敎中學校
回敎徒の經典コオランはその信仰として絕對に他國語に譯することを禁じられて居るので、各地の淸眞寺には必ずアラビア語を敎へる小・中學校が附屬して建てられ淺葱木綿の支那服を着た小僧が模樣のやうな曲線文字を異樣な聲で習つてるのが見られる。漢人の學校に行かぬ彼等はかうして强力な信徒の卵としてはぐゝまれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎回敎徒の飯店
支那街のやゝ中心繁華地から離れた一角や城外などによく「回々」「西域回々」「淸眞回々」などと白地に黑字で書かれた看板を出してる飯店や點心屋がある。看板の畫にも見るやうに彼等は潔癖のため牛や羊を食ふが、豚は食はぬ、水瓶の畫は回敎徒の清潔を表はしたものである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎山西鹽池(山西省)
山西省の南端、河南、陝西の兩省に狹まれた處に有名な鹽池がある。長さ五十支里、周圍百十餘里と云はるゝ鹹水湖で、地方誌に據れば「數千年來自然利……鱗介不育、冬不泳」とあり舜、禹時代から名の知られた鹽池で產出された鹽は山西、河南、陝西の各省から遠く甘肅迨も輸出せられて來た。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎鹽硝(山西・鹽池)
古くから有名な山西省の鹽池は省の南端運城の側にあり、その產額は詳かでないが輸出の範圍から推しても巨額のものと思はれ、嘗つて閻錫山の重要な財源であつたことでも點頭かれる。丘上の甍は鹽池神殿で、池中堆高く積まれた鹽硝と云はるゝ製鹽の滓で明礬や膽礬として產出せらるゝ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎鹽水汲み(山西・鹽池)
これは鹽池の堰に鹽水を汲み上げる作業で、斯ふして堰とめられた鹽水は搔集められて天日に曝され製鹽所に運ばれる。鹽池は運城の側のものゝ他に鐵路の向側に女鹽池と云はるゝ小さなものがあり、共に海に遠い地方の重寶として昔から遠く奥支那の方に輸出せられて來た。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎運城の樓門(山西省)
所謂鹿を爭ふた中原に近く、遠く堯舜の頃から歷史の舊い地方としては運城は新らしい町であるが近來は古い安邑縣と肩を並べての進展振りである。人口二千余、三層の樓門に揭げられたスローガンにも興亞の意氣がのぞかれ新興の町の勢が覗れる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎運城の町(山西省)
運城は山西省の南端にあり同蒲沿線の安邑と解州の中間、山西省の塩池として著名な鹹水湖に接し昔から塩務處として知られた。僅かな田舍町であるが現在は民心も安堵し街に揭げた日の丸の飜る軒並にも和やかな內に進展に向ひつゝある有望な町である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎古都安邑(山西省)
古い歷史に黃河の治水で有名な大禹帝が夏の國都を奠めたのが現在の安邑で故城は今も縣城の東一支里の處に存在して居る。其後戰國時代に魏も亦此地に都したと云はる三千年の盛衰を語る古い由緒のある古都である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎安邑縣(山西省)
安邑縣は山西省の南にあり同蒲鐵路の終點近くの町で解州府に屬して居る。此地方一帶は黃河文化の發祥地として漢族が支那帝國統一政治の基を礎いた舊い土地で堯、舜から夏、殷、周、戰國時代にかけ歷史と口碑に冨んだ處である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎鹽池神殿(山西・運城)
鹽池に臨んだ丘山の上、石疊も嚴かに築上げられた鹽池神殿は丹碧の彩も古りて守護神として祀られて居る。神殿には舜帝彈琴所の跡あり、妃や姬が帝が彈琴の調べを聽かれたと云ふ海光樓もある。月明の夜でもあらう輕羅の裳もかろく欄杆に凭つて恍惚たる美姬の娥眉が畫のやうに浮ぶ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎鹽池神殿中庭(山西・運城)
鹽池に臨んだ神殿の一劃にはその昔舜帝が石琴を奏でたと云はるゝ舜帝彈琴所の跡や海光殿等がある。遠く鹽池を隔てゝ中條山脈の巒峯を望む形勝の地で、中庭に甍の色も褪せて朽れかゝつた碑亭が昔の夢を語りげに建つてるのも物淋しい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎舜帝彈琴所(山西・運城)
運城の鹽池を望んだ高臺の神殿に舜帝彈琴所の跡がある。政治に產業に治水に朝衣肝食の舜帝が徒然のまゝ琴を慰まれたと云はるゝ處、遙かに望む山容に夕迫り鹽炊く煙も淡くなる頃靜かに石琴を奏づる三千年の夢語りを傳ふる聖君の遺跡である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎祭竈
十二月も末近い頃になると街頭に飴屋の店が多くなる。二十三日の竈祭に供へるためで、祭は一年中家を護つた灶君が昇天して家內の出來事を玉皇に報告する當日で、竈に熾に火を焚き飴の塊を熔かし竈口や竈君の口に塗る風習が行はれる。これは惡事の報告を封ずるためだと云はれて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎春聯書き
竈祭が終る頃から愈々正月の準備に忙しい歲暮景氣となりそろ(そろ)春聯の貼換が行はれ新らしい吉祥文字を連ねた紅紙か門扉に貼出される。街頭には巷の文人墨客が軒下に小机を置いて美辭麗句の達筆を揮つて潤筆料かせぎをするのが見受けられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎紙鳶
紙鳶は支那では風箏(ふおんちよん)と云はれる。正月が近づくと慌しい繁華な大街に蓆小屋を掛けたり、大家の牆壁を利用して凧屋や繪草紙屋が並んで小供等の歡心をそゝる。風箏には蝶、鷹、虎、八封、人物等があり變つたものになると二三間もある手の込んだ籠製のものもある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎門神
春聯と門神に次いで爆竹が意勢よく鳴り出すと街頭は鮮やかに化粧され歲の市の雜踏と共に正月が愈々迫る。門神は大門の門扉に貼られた、色美しい文武の兩神像で避邪守護神として祀られる。白面の文官を秦叔寶と云ひ黑顏の髯鬚のあるのを尉遲敬德とされて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎歳の市
春聯の用意も出來て門神も飾り付けられたので愈々正月の買物で歳の市は賑ふ。正月の必要品は供具、供物は勿論菓子から食料品、はては玩具から日用品の果て迄所狹い迄並べられた歳の市は、物賣りの喧騷の中に何となく心忙しい群衆で熱踏の渦を卷く。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎買物に
お正月の買物に來た太奶らしいのが供花を素見して居る。重さうな風呂敷包みの內には子供等の喜ぶ清和和尚の面や繪草紙もあることだらう、もう少し行くと愛し兒の真紅に塗つた搖籃もありますよ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎春近し
待ちに待つたお正月も明日に迫つた、兎も角も一年の結末も付いつて今は唯明けるを待つのみである。新らしい絹張りの繪燈籠も明るく、サンゼリヤの華やかな光が磨き上げられた欄杆に照り映えて、贈られた室咲きの堂花も綻びて春待ち顏である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎祭壇
祭壇正面は年畫(吉祥畫)を飾り、神前には五供、即ち香爐一、燭臺二、香筒二が並べられ、供花、供宇など吉祥を顯はした供物の他、赤や靑で彩られた供麵、福、祿、壽、喜、星にちなんだ雅緻の供菓や猪頭(豚)、鷄、魚などが所狹い迄に飾られる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎元旦詣り
除夕の夜半も過ぎると愈々元旦で、竈祭に昇天した家の守護神が降臨し嚴かな接神の儀が行はれると爆竹を鳴らし門が閉される。次で祖先や諸神の祭が行はれ全家團欒の御祝となる。一日中三々伍々神詣りする男女の香華で神殿は賑ひ、家の中は大鼓や銅羅で割れるやうな騷ぎである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎爆竹
正月早よ來い 錢貰ろて 錢をもろたら 爆竹買ふて うちでひねもす ばんばんばん (支那童謠) 支那人は小供でも大人でも爆竹が好きらしい、最近は餘り盛大で無いが、正月の街頭は機關銃のやうな音と濛々とした硝煙で肩摩の雜踏のなかを往交ふ人々の頰をほてらす。その消費量も相當のものと云はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎冬林疎影
(北滿) 永い間氷雪に塞された連丘のスロープの處々に疎林の枝影が數へられる頃になると、何とはなしに空に浮く雲の色や薄紅の夕暉を映す地上の陽炎にも甦る季節の萌しが動いて、北滿にもやがて早春の訪れるのが知られ陽當りの良い樹根には雪解けさへ見られる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎先住の移民部落
(北滿) 事變後移民の拓土のと漸く沃土滿洲が認識せられて來がた、遠く鴨綠江を越えた半島の先住移民は早くから進出し苛斂誅求と壓迫に惱まされつゝもよく忍苦に堪へて山林を拓き河岸を耕して來た。低い家屋に溫突の煙も豐かに今では安らかな生活を續ける姿である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎氷上を往く(北滿)
迂曲した河流を挾んだ沃土にぽつり(ぽつり)と集團された拓民の部落は未ださめやらぬ冬の名殘の灰色の寒さに包まれて點綴されて居る。早春とは名のみ、こゝ北滿の展望は河を蔽うた堅氷上を往く車馬の影には春來るらしい氣配さへも覗れぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎馬宿(北滿)
漸く今日の旅程も終へ牛馬に飼養を與へての一憩み、この茅茸のホテルこそ今宵一夜彼等の休息所であり慰安であるのだ。さて明日の雪路は何處へ辿るのやら、風にも雨にも幸あれかし。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎暮近し(北滿)
なだらかな連丘の殘雪に夕の陽は映えて、雪の曠野を貫く轍の跡は遠く山裾の彼方に消える、いぶせき茅家の宿場を圍んだ木柵には馬宿の指標がヒラ(ヒラ)と、雪路をかけた人々の今宵の宿りを待ちげに風に弄ばれ、淺春の宵近い宿場の端れは未だ冬である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎せんたく(北滿)
早春とは云へ堅氷の僅かばかり破れた江上にもう洗濯の群が集うて衣打つ音が水の流に交つて冷たい。洗濯は彼等の生命でありそして誇りでもあるのだ。斯うした饒舌の日が續くうちにやがて河岸の若草も萌出て待ちわびた春も近づく。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎廣場の市(北滿)
月に何回かの市の日には鮮人部落に滿人が種々の日用品を携へて取引に集る、近隣から蝟集した人々のため廣場にマーケツトが開かれ物々交換も行はれる。寒空に毛布を被つた葉煙草賣りの老婆の姿も薄ら寒げである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎城壁の崩れ(北滿)
遠くの昔に遡るまでも無く東三省政權華かなりし頃の遺物であらう、北の邊陬に毁れたまゝ顧るものもない城壁は、治安の維持される今では必要のない殘骸を春淺き寒風に曝したまゝ寂しく物の哀れをそゝつて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎幌馬車の列(北滿)
何處迄續く泥濘ぞ、雪解けの水溜りを白樺の皮に覆はれた蒲鉾馬車が車輪を揃えて行列する光景は北滿ならでは見られぬ風趣である。行先や何處、轍の音にやがて來る春の跫音を傳へて宿場々々に話題を齎すことだらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎雪の鏡泊湖(北滿)
懷しい浦島の童話を生んだと云はるゝ鏡泊湖お昔は華麗な傳說を秘める北滿の景勝である。吊水橋と呼ばれるこの瀑は湖の出口に懸り、落差五丈、白雪と氷柱に彩られた飛瀑は水枯れの日も尙瀑音を傳へて壯觀である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎岱廟より泰山を(泰山)
岱廟(泰廟)は泰安縣城の西北隅にあり泰山の神靈を祀る處、周圍三支里に涉る廟內には碧琉璃瓦の峻極殿を中心に、殿あり、廟あり、亭あり、或は宋以下各時代の碑碣が林立して居る神域である。遙かに雲煙に彩られた靈岳泰山は縣城北門から登山路が續く。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎登山(泰山)
『山は泰山より大なるものはなく』と人口に膾炙せられた泰山は實際は山麓から頂上まで約十五哩、登山道約六哩しかない山で、この字句も山の高さよりも山岳崇拜の信仰から來たものらしい。登山路は凡そ坂路であるが稍勾配の急な個所は悉く石階とされ今では轎子に徭られて僅か十時間位で見物が出來る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎十八連盤難路(泰山)
泰山登路第一の難所に數へらるゝ十八連盤は道中も漸く頂上に近づいた昇仙坊の先の嶮岩相迫る二千餘級の峻坂である。遙か彼方山上には仙宮のやうな紅堊の南天門が落下する瀑布のやうに直立する長段に聳えて見える。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎御帳坪の瀑(泰山)
中天門から進むこと數町、朱欄の雪步橋脚下、兩側の山容が壓迫されて懸崖に瀑布のかゝる處が御帳坪である酌泉亭と云ふ宋の眞宗が駐蹕せられた遺蹟のある處、淙々なる飛瀑が屹立せる巨巖から落下するあたり正に南畵好みの絕景である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎獅子峯(泰山)
『國を泰山の安きに置く』と古來から云慣はされた泰山の偉容、玉皇頂のある天柱峯を中に東の日觀峯、西の月觀峯など數ある秀峯の中でも巍峨として聳立するのは碧霞宮前の獅子峯である。縹渺たる雲海を隔てゝ望む山東の沃野、銀帶の如き黃河の流れ、遠き渤海の碧など實に天下の絕觀である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎南天門附近の宿房(泰山)
頂上に近い十八連盤の最難所を昇りつめると南天門の紅堊が聳えて居る。漸く頂上に近づき一憩みする處で附近の岩窟には十數戶の宿房が軒をつらねて登山客に備へて居る。登山の季節ともなれば靈山頂に近いこの邊にも脂粉の香さへ漂ふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎日觀峯(泰山)
日觀峯は泰山の山頂玉皇頂の東に連る五六町にある秀峯で山頂には乾隆帝御筆を納めた碑亭がある。山上遙かに望む渤海の波濤、雲煙の平野を奔る大黃河の銀蛇に映じて東天より昇る旭日の壯觀は、蓋し孔子をして『天下を小ならしむ』と嘆じせしめた所以であらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎碧霞元君廟(泰山)
泰山は陝西の華山、河南の嵩山、湖南の衡山、山西の恒山と共に支那五岳の靈山と云はれ特に泰山はその最上級に置かれ萬物の始めで生死を司り運命を支配する神靈として尊敬されて來た。これはその本廟たる碧霞元君廟で古來幾度か皇帝の親拜せられた處、靈現あらたかな神靈が祀られて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎泰山頂の無字碑(泰山)
泰山々頂玉皇頂の門前にある無字碑で、良質の花崗石をよく磨き上げた高さ十五尺、幅四尺、厚味三尺の石柱である。昔から秦の無字碑と云はれ或は漢の武帝が建立しその儘刻字されずに殘されたとも云傳へられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎泰山々頂から(泰山)
古來泰山の名は色々な字句で日本人の間に親しまれて來た『義は泰山より重く』とたゝへられたこの山頂、脚下に古來鹿を逐ふた中原を望み靑史を綴る黃河の流れを下瞰する時、誰か幾變遷の興亡治亂の夢に入らざる。しかも歷代の帝王が封神に祭祀に運命を托した靈廟は今も尙變り行く下界を眺めつゝある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎芝罘の港(芝罘)
芝罘港は山東省最古の開港場として滿洲方面との貿易が發展して來たが其後附近各港の開港ありその繁榮を奪はれたが現在でも尙戎克貿易は斷然他を凌駕して居る。背後に柞蠶糸、絹紬の産地を控へ更に落花生、パーマネント等の輸出あり、滿洲行苦力の往來等で通商取引が盛んに行はれて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎小蓬萊から(芝罘)
芝罘の埠頭から西に約十五丁の毓墴山頂に蘇東坡の遺跡と言ふ小蓬萊(玉皇廟)がある。明代建立の廟宇で、此處から瞰む展景は全市街を一望に收め彼方煙臺山を隔てて遠く碧波に浮ぶ崆嵱島を望むあたり風景絕佳である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎煙臺山(芝罘)
芝罘の東海岸中央に突出した丘陵が煙臺山で、昔倭寇來襲に備へた烽火臺の跡と言はれ煙臺の地名もこゝから生れたものである。此一劃は外人團の經營になつた處で東海岸は白沙淸澄の海水浴場として外人の避暑多く、季節になると米國東洋艦隊の避暑地として「夏の芝罘」のエキゾエツクな情緒が描出される。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎威海衞の燈臺(威海衞)
威海衞は灣口五哩ばかり劉公島及び日島、圓島、黃島等の小島が防波堤をなす不凍港で、甞つて北洋艦隊根據地として日淸役の知名の處である。後英國の租借地となり自由港となつたが一九三一年返還せられ今日に至つた。主として戎克貿易のみで餘り發展は豫期せられぬ現在である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎威海衞城門(威海衞)
威海衞の市街は城內、埠頭街、劉公島の三區あり、埠頭區と劉公島は共に元英政廳の直轄に屬した區域で、城內は埠頭より西南約一哩にあり城は明代の築造にかゝるもので東西南北の西門を備へて居る。城內人口約五千、芝罘の人口は廣範圍の舊租借地全部で十四萬と言はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎登州の皷樓(登州)
山東半島が遼東半島と渤海を扼ずるところ、登州から北に海中に碁布せらる廟島列島を涉り老鐵山水道を越えれば關東州の旅順である。人口約四萬、往昔水城を築造して倭寇に備へた地、有名な蓬萊閣のあるため蓬萊の地名でも呼ばれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎龍口の町(龍口)
龍口は山東半島の北海岸約中央にある港で、一九一五年開放された通商場であるが港灣遠淺のため碇泊に不便で兎角發展せず唯對岸營口との交通あり、滿洲行山東苦力往來が年十萬位と算せられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎榮成市街(榮成)
激流の渦巻く山東岬角の突端を西に廻つた處に榮成灣がある。榮成縣は榮城とも言はれ、漁澇を業とする軒の低い茅茸の家並が城壁に圍まれた人口三千餘の小さな町で、背後地から集る落花生、大豆等の穀類が產出される。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎帆を繕ふ(榮成)
寒い舊正も終り春の跫音が黃海の波濤に乘つてこの山東角の磯邊に訪れる季節となると、此處漁村の砂濱はやがて來る出漁の準備に忙しく、暖かな陽の光を浴びて處々に網すく人々や帆を繕ふ群が賑ふのである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎山東角の潮
遙かに東を望めば朝鮮半島あたり水天髣髴として春近い海原のうねりは魔の難所とも思はれぬ、木葉の如き扁舟は徭られて北の方遼東半島に急ぐらしい。山東角の巖頭に立つた一とき唯宇宙の莊嚴につゝまれ、濃霧一度來れば風浪幾度か船腹を吞む魔所も今暫くは渺々たる悠久あるのみである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎濟南鳥瞰(濟南)
濟南は昔から濟水(黃河)の南岸にあることからその名で知られた古都で、山東の省城であり、津浦、膠濟の兩線が交り、更に黃河水運と連る中原の中心をなす都市である。市街は內外城に圍まれた城內と商埠地の二區に分れ人口五十萬、過去に於いて幾度か戰亂に禍されつゝも尙必然的の發展を豫想せらるゝ町である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎大明湖の夏(濟南)
濟南內城の北隅に城內三分の一を占める大明湖は景趣幽邃の淸遊地で、支那一流の濃艷な裝飾に彩られた畫舫に楚々たる綺羅の裳裾を薰する蓮池の舟遊は夏に最もよく、湖畔翠綠滴る凉風に眞菰の間を縫ふ畫舫から流るゝ絃歌を聽くも又一しほの興趣である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎鐵公祠(濟南)
濟南名勝大明湖の周圍には歷下亭、李公祠、張公祠、鐵公祠、匯泉寺、曾公祠、北極臺、百花隄、北渚亭、天心水面亭などの古蹟や勝地が點在してそれ(ぞれ)の風趣を備へて居る。古來文人墨客が葭蓮の舟遊に詩趣を湧かし一夕の淸遊に遊子が紅恨をかこつた故地である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎龍洞寺(濟南)
濟南城の東南五里、翠綠奇巖を彩る深山に丹碧美しい龍洞寺の大(空欄一文字分)籃がある。唐代の古刹と云はれ境內に龍泉洞あり四時淸水を湛へ昔龍の棲んだ處と傳へられる。山頂の展望は頗るよく近く濟南の都城を脚下に收め、遠くは黃河、小淸河の白帆を一望のうちに眺めるあたり眞に絕景である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎千佛山(濟南)
千佛山は濟南城の南方にあり、昔帝舜が此地を耕したとかで舜耕山とも云はれる。山頂に名刹興國寺あり山中に多數の佛像が岩崖に彫刻せられてゐるので千佛山と呼ばれる。佛像は年代から推すと六朝藝術のものと云はれるが今は俗惡な塗料で修正せられ嵩高面影を偲ぶよすがも無い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎黄河の鐵橋(灤口)
總工費六百萬圓、全長一三八〇米の黃河の鐵橋は、津浦線の北岸鵲口に終る東洋第一と稱へらるゝ大鐵橋で、幾度か戰亂のためその都度破壞の憂目を見せられた。遙か左方小高き丘陵は扁鵲が神藥をねつた遺蹟と傳へられる鵲山である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎灤口碼頭(濟南)
濟南から北方五粁餘、灤水が黃河に入る處が灤口の船着場で、黃口の南岸上流に市街あり一名洛口とも云はれる。濟南と黃河を連ねる水運の第一門とも云ふべき地點で上下流への移出入品は小麥粉、棉花大豆等の農產物及び雜貨、石油等が扱はれて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎渡し船(濟南)
「百年河淸を待つ」と云ふ諺が生れた黃濁の黃河の流れは、遠く黃帝の古からその流域に五千年の榮枯盛衰を湛えて支那文明の變遷を物語つて居る。兩岸見渡す限り肥沃な黃土地帶の續く彼方、甞つて惱まされた動亂も今は治安の平靜に甦り河岸の渡場に覗く眞晝の夢もいと長閑である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎村の葬式
郊外の淸流に畫のやうに懸つた跨橋をさゝやかな葬式の一群が行く。翠綠の影を映した水面には浮草を動かす小徭ぎもなく初夏の眞晝はいとも靜かのまゝ綠一色に溶け、その內を陽をうけた白い喪の一團のみが僅かに靜寂を破るのみ (印畫の複製を嚴禁す) -
◎黑河の船(灤口)
これは灤口の船着場に帆待ちする船の群で、黃河を涉る船は大低《大抵》五六人の水夫に操られる扁平な吃水の淺い堅牢な帆船で、遠く河南省の蘭儀から下流は河口に近い利津の間を往復する。冬の結氷期と危險な夏の氾濫期は航行不能とされる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎草原の朝(蒙古)
朝まだき見渡す限り天地もなく薄紫に包んだ朝靄がどこからともなく絹を剝がすやうに拭ひ去る頃になると、悍馬に跨つた牧夫の鳴らす長鞭につれて家畜の群が朝露に沾れた草原へと急ぐ。一望遮るものなき曠野はいとも靜かに人も馬も淡い陽光を浴びて淸々しいうちに明ける。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎罌粟の花(蒙古)
なだらかなスロープのつゞく草原に、赭土の山肌を背に廣々と展がる罌粟畑の粧ひは高原に見る御花畑の盛りのやうに美しい。罌粟は一般には栽培を禁止せられて居るが地方によりてはこれを財源として許可してる處もある (印畫の複製を嚴禁す) -
◎沙丘はつゞく(蒙古)
嘗つては靑々とした草原も永い間の氣候の影響と風化作用により砂原となり更に季節風に煽られて現在の砂丘が形成された。僅かに殘る草叢の名殘はよくこれを物語るもので奧蒙古に入れば幾日も幾日も一草一木さへも見ぬ熱沙の丘が續く (印畫の複製を嚴禁す) -
◎草原の廟(蒙古)
喇嘛敎は蒙古では絕對の宗敎で、甞つて淸朝の初期に蒙古の懷柔策としてこれを利用した處無智なだけにその盲信はよく成功して今日の結果となつたのである。今でも荒漠たる人跡も稀れな草原の處々に丹碧の喇嘛廟が鎭座し黃衣の僧侶の讀經が開かれる (印畫の複製を嚴禁す) -
◎蒙古の女(蒙古)
燦然たる銀の纓絡に飾られた蒙古婦人の盛裝姿で、大方は親子であらう見るからに頑健さうな眉宇に覗かるゝ體軀には、その昔成吉斯汗を育くんだ血潮が流れて居るのだらう、永い間潛められたその昔の血潮が甦り潑剌たる《潑溂たる》蒙古がやがて彼等から生れる日が愈々來たのだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎蒙古包の組立(蒙古)
遊牧を生活の基調として牧草を追うて日々を營む蒙古人には必然の要求として移動家屋「包」が生れた。包は木骨を組立てこれを羊毛の氈子にて覆ひ上に綱をかけるもので、その行く先々に解體携帶して移動の居を換へる。然し愈々安住の地が見當れば固定包を作りそこに落付くのも居る (印畫の複製を嚴禁す) -
◎蒙古包の内部(蒙古)
これは組立てを終つた蒙古包の內部で、正面は主人公の座席、床團樣の敷物や小さな卓子等が雜然と置かれ、手前の中央は炊事用らしくそのまゝ食卓にもなるらしい。移動を主として年中居を換へる遊牧生活なので調度品も極く簡單な物のみである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎牛糞を拾ふ(蒙古)
草木の少ない蒙古沙丘地帶では牛糞は唯一の燃料とされ、乾燥貯藏して冬季の用意に備へるため老少、婦人等は籠を下げて集めて步く。牧草を漁る放牛の群、松葉搔きを手にした老爺の姿、遙か草原の地平にかすむオボの配列など蒙古ならでは見られぬ圖である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎水を求めて(蒙古)
唯見る草原と沙丘のみ續く蒙古に活きる遊牧の群には水のオーシスは尤も尊いもので、牛や馬や羊の大群が三々伍々遠く數里の先から水を求めて集る。今も水を求めて小流に來た放牧の駱駝の群は、グロ味たつぷりな姿に白日夢見るやうな愛嬌ある顏で集ふて居る (印畫の複製を嚴禁す) -
◎草原の夕(蒙古)
炒りつくやうな一日もはや暮れかゝり夕暉の空一ぱいに赫々と彩られた雲がひろがると、今宵屯する包の屋根も夕の帳に包まれて人々も夕餉に急がしげである。やがて夕風が地上を匍ひ人々の歡談もつき漸く一日の憩ひに入る頃となれば、假寢の包からもるゝ哀調の一曲が草原を涉つて闇は迫る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎塞外の町(包頭鎭)
京包線を陰山々脈を北に仰ぎ西へ西へと鐵路を辿れば最終點包頭の驛に達する。所謂西夷の街包頭は聯盟成立以來厚和と共に特別市に改められた塞外の都市で、街は南に面し山に凭り馬蹄形の土城に圍まれ、人口城內八萬城外四萬、西北方面と京津を繼ぐ貿易地である。黃河貿易は里餘南に當る南海子の沿岸で行はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎土城は古りて(包頭鎭)
今次の蒙疆聯盟の成立は赤色ルート線の野望を遮斷し中國、滿洲國に金城鐵壁の防共陣が布かれた。包頭鎭はその昔塞外の鎭として韃靼人に冒された地、その後漢人の移住あり今も日、滿、蒙、漢、回の五族の內漢族尤も多數を占めて居る。色褐せた土壁に鈍色の夕陽が投げられ遙かに望む陰山々影と共に灰白色に包まれたあたり塞外らしい寂しさが漂ふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎陸の運搬機關(包頭・南海子)
包頭の交易は遠隔地は黃河の船便により獸毛等が運ばれ、雜榖其他附近產出の物資は駱駝の背に搬ばれる。晝も夜も默々として幾日も幾日も人里稀れな草原や沙原を步く駱駝の群は、更に冬季結氷期となり黃河の舟運も絕えると白皓々たる氷上を西北邊疆へと通ふ。彼等は斯くして陸の運搬機關として邊疆になくてはならぬ存在をなして居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎河畔の夕映(包頭・南海子)
洋々たる大黃河の波上に夕映は碎け今し對岸に渡る船の纜が解かれるところ、水も空も一沫の黃に溶けた大自然のうちに落暉の靜寂が凝りて大氣の微動さへも感じられぬ。圖中僅かに見えるは羊皮筏で羊や牛の皮に獸毛をつめて遠く寧夏の奧地方から黃河を下つて來るものである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎船人の夕餉(包頭・南海子)
包頭は京包線の終點で更に西北への貿易據點である。黃河の水運は寧夏、甘肅、靑海等更に沿岸の產地から獸毛其他雜穀等を集め永きは三四十日の航程を經て此處に陸揚げせられ一路鐵道で京津に運ばれる。貿易額年一億圓と云はれ、船は扁平な團平船のやうなもので牛や羊の皮筏が年一回上流から下つて來る。今暫し船上に夕餉を樂しむ船人の姿である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎唄を聽く群(包頭・南海子)
取引も無事に濟んだ、いとしき者への土產も調ふたので後は船出まで暫く憩ひの船人達、折柄河岸の空船に陣取り唄ひ出した小娘の唄に耳を傾ける。幌馬車を下りたのも、駱駝を止めた男も、老も若きも暫し恍惚の一時、哀調の蛇皮線に輕い鄕愁をそゝられるものもあらう。唄は洋々たる河面を涉つて遙か塞外の空へと流れて行く。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎馬糞の乾燥(五原)
五原は包頭から安北を經て更に西北に在ある塞外の商業地で五原平野の中心にあり附近產出の雜穀の集產地である。十數年前は人跡も無い草原であつたが、「隆興長」なる一商店が出現して以來これを中心として形成せられた町で今もその名を町の名として居る。燃料の不足な此地方では屋根の上に馬糞を乾燥してるのがよく見られる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎草原の馬宿(五原街道)
包頭を出て右に陰山々脈の連丘を仰ぎ左に滔々たる黃河の巨流に沿ふて五原街道が西北に連る。草原の只中を默々として駱駝を追ふて來た群が今漸く宿舍の指標を見付けたのだ、今宵はこの泥の院子に一日の疲勞を醫やし明日はまた五原へと旅路を辿るのであらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎馬上の王樣(五原街道)
包頭から五原へと續く草原の途上、馬上豐かに從者を引具した某旗の王樣に出遇つた。甞つては外蒙よりの蘇聯の壓迫に更に南京政府の桎梏に喘いだ此地方の人々もその昔東歐までも鵬翼をのばした成吉斯汗の夢が甦る日が來て聯盟の自治が生れて以來その成果は上り、今は人々の眉宇にも自と氣魄が覗かれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎烏拉山遠望(五原)
漠々たる五原の曠野を隔てゝ遙にか望む烏拉山の緩やかな起伏は草原の彼方に薄紫にかすみ、暮れ近き陽の脚は靜かに逃げて山の端は刻々と暗濃色と變る。烏拉山は東北に走る陰山々脈に對し包頭平地の西北にあり、石綿の産地として名あり南の方山を越えれば鄂爾多斯(オルドス)の沙漠が展開される。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎山中の喇嘛廟
熱河地方には承德の八大廟を始め到る處に喇嘛廟が散在する、峨々たる赭土の山丘を背に丹碧の彩も鮮やかに鎭壓するこの西藏式の伽藍は國境に近い一つで、喇嘛敎は西藏から傳はり東蒙特に熱河地方には黃敎と稱する一派が蒙古人の生活に深く食ひ込んで居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎喇嘛廟内殿
薄暗は伽籃の內は金、朱、紺、碧などの燻つた色彩が鈍い光線に照されて怪奇な佛像や密畫が魔のやうな夢のうちに包まれる、喇嘛殿には本尊の阿彌陀佛の他に吉祥夫母や金剛佛更に怪異な歡喜佛などが祀られて如何にも密敎らしい氣分が漂ふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎大喇嘛
喇嘛敎には生れながら佛と尊ばれる活佛を首位に僧階があり、地方の寺廟には達喇嘛、副達喇嘛以下住持が居るが、財政が餘り豐かではなくその生活も潤澤でないらしく、何十年も手入れされぬらしい煤けた壁を背に默念と珠數をつまむ老僧の皺にも枯淡と云ふより苦鬪から築かれた寂しさが味はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎野外の法要
黃の鶏頭のやうな烏帽子型の僧帽に赤や紫の外套を羽織つた僧侶の一團、ヘルメツト型の帽に古びた黃衣を纏つた番僧らしい一群、物々しい旗差物のうちに大太鼓が鳴りチャラメルが吹出されると喇叭と讀經が賑やかに法要が始まる。如何にも物々しいがどことなく神秘と云ふよりも異形な空氣のうちにグロ味が漂ふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎法要の供物
三角形に造られた供物には花紋の彫刻がされそれに朱や綠や紺の色彩がつけられて居る。これは法要になくてならぬ供物で骨粉と粘土で固められたもので法要が終ればその儘燒捨てられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎喇嘛廟の舞臺
喇嘛廟前庭に設けられた舞臺で舊正月と四月の祭事に行はれる跳塔の日は近郷近在の善男善女が螺集する。跳塔は宗敎劇とも云ふべき珍奇な舞踊で、髑髏舞、伽羅樓の踊、惡魔と菩薩の舞などが巨大な大太鼓や銅羅などの賑やかな音樂につれて舞ひ踊るグロテスクなものである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎百萬遍
蒙古語のマニイ、コホルグと云ふ祈禱用具で、大小の相異はあるが圓筒の周圍に「オンマニパタマホン」即ち南無阿彌陀佛の妙號を記されたもので、圓筒內は尙妙號を記しに御神籤樣のものが入れられ妙號を唱へるかはりにこれを廻轉して百萬遍唱號にかへるものである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎喇嘛僧の盛裝
喇嘛の服裝は判然として規定は無く唯儀式の時は特殊の服裝をして各位階が分けられる。一般に黃色の外袍を纏ひ達喇嘛以上になると美しい袈裟をかけ帽子も獺の毛などをつけるが其他は日本の海軍將校の禮帽樣のものやヘルメツト樣のものなどで、珠數は普通百十二個を聯ぐものが用ひられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎喇嘛僧と僧房
喇嘛敎は淸朝の始めに蒙古懷柔策として蒙古人の軟化誘導方法として宣傳されたもので、僧侶も九族昇天の思想と多分に政治上の不滿も加味して出家したものが多い。垢染んだ蒙古服に色の褪せた黃袍を纏つた老若の姿を見ると、干乾びた彼等の敎養と生活が想像される。宿房は廟內と廟外とあり大抵三四人が一房に住んで居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎法燈
薄暗い迴廊を裏に迴ると厨房近く小喇嘛が法燈の用意に忙しい處であつた。濕ぽい板間で何百年か燃えて來た油の香を嗅ぎ明滅する燈心にポーと浮ぶ幼年僧の童顏を見ると、お伽噺のやうな淡い聯想が相起されて昔の夢のうちに吸はれて行く。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎招牌の始まり
看板は支那風に謂へば招牌である。識字階級の少い時代や或は田舎などで商品の種目を現すために現物表示をやつた事は當然の事で、軒先の棒に本物の煙草を吊した店などを今でも見かけるが、これは亦生々しい肉をブラ下げた血腥い看板で餘り購買慾をそゝられない無氣味なものである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎現物看板
半圓の車輪形に軒先に飾られたのは馬車の御者がピユー(ピユー)と鳴らす鞭で、現物が表すやうに皮屋の看板である。文字の普及の不完全な頃は原始的な野趣のある舊式看板がよく見られたが、今では漸次影を潛めて僅かに田舍にこの薄らいで行く土俗趣味が覗はれる位である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎刷毛屋の店先
古風な窓枠の建築から見ると老舗であるらしい。何代目かの刷毛屋であらう種々多樣な商品見本が軒先に吊されて居る。文化が進むにつれ招牌(看板)が文字になる迄には未だ距離のあるやうな現物表示を見るあたりに支那の廣さがあるとも思われる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎金銀飾屋
これは陳列もあり看板もあり可成進んだ店頭であるが、店先きの街路に飾られた金、朱、碧に彩られた樓門型の裝飾は矢張り現物看板の一つである。巧緻な細工で銅錢、蝙蝠、寶珠など吉祥の緣起から生れた模樣が現はされて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎トーテム看板
南米邊りの土人が自然崇拜のため動物の像などを彫刻して禮拜したトーテム柱に似た看板柱がよく街頭に見られる。金色がベタ(ベタ)と塗られた柱には必ず龍首の彫刻がつけられるが、これは吉祥と發財を表す街頭宣傳用のもので種々の商標をつけて初めて營業標識として用ひられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎寶龍
店頭を飾る五重塔は「寶龍」と云はれる裝飾看板塔の一種でそれに添へる文字や彫刻などで營業種目が表示される。菱形に黑丸のある板は藥屋で、黑圓は膏藥を表し尚珠數樣のものが下げてあるは丸藥を表すと云はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎龍頭の標竿
軒先から街頭に突出た看板を吊す標竿は主として龍首の彫刻が取付けられるが、別に營業種目を標識させる意味はなく單に誇張された裝飾で、龍や麒麟や雙魚などは吉祥の緣起から看板や廣告によく用ひられる。雲の圖案は進士をシンポライズする。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎冥衣舗
支那の葬式には紙製の供人形や馬車、家などが行列を飾り墓地で燒却される習慣がある。紙製の馬を軒先に吊した店がこれを製造する葬儀屋即ち冥衣舗の看板で、識らぬ人々には一寸變つた表示である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎田舎の旅舎
支那の奥地を旅するとよく棒の頂上に籠と鯉魚を附けた標竿を見受ける。これは一日の憩を求める旅人への目印で、籠の目は護符の意で旅の安全を暗示し、鯉魚は昔田舎から進士の受驗に及第して榮達の登龍門に昇る緣起と謂はれる。曲輪に赤い布を附けたのは料理屋である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎文字看板
文明の進化は廣い支那に識字階級の數を殖やすと共に土俗趣味の豐かな現物招牌は影を失ひ、漸次吉祥を加味した吉祥看板や裝飾を主としたトーテム型なども拂はれて文字の看板が多くなつて來た。これは大都會の中央にある質屋の看板で場末になると「當」の他に「押」の字を用ひたのが見られる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎水都紹興(紹興)
紹興城内は水路四通八達、軒から軒に小船を操る水鄕情緒が見られ古くから紹興酒の聲名と共に有名な處である。產物は酒を第一とし米、雜穀、絹織物、紙、扇子等があり、浙江財閥の本據であり富有な町として知られる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎紹興全景(紹興)
杭州から三十餘哩、寧波まで約六千哩、寧波運河の岸に並んで紹興の町がある。昔から杭州、寧波と共に浙省の三大都として商業繁華の地で、人口約二十萬、甞つて寧波に上陸した遣唐使や留學僧などが立寄つた古來から吾國と由緖の深い土地である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎迎恩門(紹興)
紹興の古城は堅牢な城壁周圍二十支里、水陸の三門があつて西の門を迎恩門と云ふ。今は苔蒸した礎石の上に雜草が伸びるにまかせた城壁は甍落ち石古りたまゝであるが、外に運河の濠を圍らす要塞として幾度か戰塵に包まれた跡である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎古城の跡(紹興)
紹興は禹貢の揚州の域で、春秋には越王勾踐の都せし地、秦漢には會稽群に屬し南宋に至つて紹興府となつた歷史に富む古都である。水寂びた運河の面に影を映した古城の姿は幾度榮枯盛衰の跡を殘して昔の變遷を物語る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎東浦の酒鄕(紹興)
ずらりと江岸に並んだ酒瓶の列、白壁に滲み込んだ酒の香り「銘酒は灘」と云はるゝやうに著名な紹興酒の產地は紹興の町から少し離れた東浦がその釀造地である。產額年一億六千萬斤、(六十四萬石餘)古來支那東西南北この酒瓶を見ぬ地は無いと云はる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎大禹の廟(紹興)
堯舜の後を享けた夏の大帝大禹は宵衣肝食よく治政に勤め治水の大業を成し人心をその德を慕ふた。大夏八年地方巡狩に際し遇々會稽(紹興)に病を得て遂に此地に崩御したと傳へられる。後人祠を建てゝ祀つたのが禹陵で稽山門外約六支里の地にある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎府山の望海亭(紹興)
紹興の城内舊府署の西に聳える丘陵を府山と云ふ。都人遊歩散策の地で山頂に望海亭と呼ぶ小亭あり、眼下運河に浮ぶ白帆を隔てゝ遙か杭州灣を望む眺望絕佳の勝地である。陰曆端午の節には遊人多く熱鬧を極めると云はるゝ (印畫の複製を嚴禁す) -
◎三江閘の大東橋(紹興)
紹興の南仙霞嶺山脈に源を發した浦陽、曹娥の兩江は町の近くを過ぎて杭州灣に注ぎ、一道の運河がその中央を橫斷して東西に貫通し紹興から寧波に通ずる水利の便をなして居る。三江閘はその堰をなすところで滿々たる江上に架せられた石橋が大東橋である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎會稽山を望む(紹興)
春秋戰國の砌、彼の越王勿踐が忠臣范蠡を用ひ苦思焦心遂に吳王夫差を降し覇をなした會稽山は紹興府の東南約十三支里にある。春秋二千餘歳、膽を坐に置き坐臥、飲食にこれを甞めた臥薪嘗膽も今は昔、水明の山容にその夢物語を包むのみ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎鵜飼ひ(紹興)
永い白亞の續く町裏の流れに沿ふてなめらかな水が漂ふ、晝下りの陽ざしを受けて一隻の鵜飼船が小波をたてゝすべり出すと魚をあさる鵜の群が水面をかき亂す。水の町紹興の白日はいとも長閑に江南の春は今闌である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎景德鎭の窯(景德鎭)
鄱陽湖の東岸、昌江の南畔にある景德鎭は古來から製陶で識られた町で、遠く宋代の景德年間勅命を以て御器を製してから其名が生れ、明代を經て淸の初期に隆盛の極に達したが現在は材料の粗雜と技工の低下にやゝ衰へを見せつゝも尙多數の燒窰から黑煙が絶え無い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎練泥(景德鎭)
窯場の最初の作業は練泥作業で、山から運込まれた原料陶土は手馴れた練工の手で數回も數回も捏り上げられ、或は濾され或は漉かれて完全な陶泥となつて次の坯房に廻される。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎做坯(景德鎭)
軒の低い薄暗い坯房の隅でグウ(グウ)と鈍い音を立てゝ日ねもす廻る轆轤につれ無心な工人の指頭にあやつられつゝ陶泥は手際よく素型に造り上げられる。これを做坯と云ふ。出來上つた物は更に修模(カタナホシ)の手を經て乾燥へ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎成坯(景德鎭)
轆轤にかけられて鉢となり皿となり花瓶となつた素型は、罅裂を防ぐため蔭乾しされるので薄暗い屋根裏の棚や陽蔭の場所を選んで並べられる。これを成坯されると云ひ、展げられた乾燥場の中はムーとする土臭い胸をつくやうな香に包まれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎印坯(景德鎭)
成杯され乾燥された器物は未だ生乾きのうちに再び轆轤に廻され印坯(カタナホシ)の作業が行はれて整形される。こゝで更に利坯(キリトリ)の仕上も終ると愈々本格的な階段に進む。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎畫坯(景德鎭)
薄暗い坯房で少年畫工はせつせと畫筆を揮つて居る、淡彩に濃暗に靑に紅にこの無垢な美術家の指先のまゝ素朴な藝術が生れて行く。畫坯(ヌリエ)に用ひる顏料は南昌地方から產出され洗料工(エノグツクリ)の手で造られたもので、尚巧緻な彫鏤(ホリモノ)を施した物も彼等の手で作られる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎蕩泑(景德鎭)
乾燥して整形された物や色彩を施されて終つた物は此処に來て蕩泑(クスリカケ)の作業にかゝる。何を思ひうかべたのやら上釉の杓の柄を握つた小年工の純朴げな輕い微笑は工房に何となくユーモラスな氣分を漂はして居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎燒窰(景德鎭)
景德鎭に見る燒窰は長方の圓鉢を逆に伏せたやうな形狀のもので、內部の高さ幅共に丈餘、深さはその倍もある耐火煉瓦造りで、仕上を終つた陶器は匣鉢(ヤキバコ)に入れて積まれ火入れと共に扉を閉ぢ三日目に開窰される。匣鉢は火の直接を防ぐため圓筒形の陶器である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎鉢の山(景德鎭)
なんと堆高く積上げられた鉢の塔よ、强い陽を享けた光と影の交錯が濃淡の色彩に和げられ房一ぱいが新鮮な柔い感触を漂はす。やがて梱包せられ船積されると九江燒の名で津々浦々まで展げられる日も遠くあるまい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎庭先き(景德鎭)
日當りの良い窯場の庭先きに雜然と並べられたキズ物の群、床の置物から花瓶、食器もあれば玩具まで何れは李家の床に張家の應接間に綺羅を飾る物もあつたらうに、達磨や關羽の嚴しい面貌も阿彌陀樣や布袋の慈顏も斯ふ眩しさうに轉んでては一文の價値も無い。 (印畫の複製を嚴禁す)