亜東印画輯/08
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●滿洲里遠望(興安北省)
滿洲國の最西端露滿國境の町滿洲里は、東支鐵道敷設と共に開けた町で、以來種々の方面から重要視されて來た處である。時勢の趨移は近來昔日の俤はないが現在人口六千四百内邦人三百五十人政治的には國境都市とし、軍事上には國防線として最も樞要なる町で、遙か彼方國境の山續くあたり一沫の妖雲が漂ふを覺える。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●滿洲里驛(興安北省)
北鐵西部線は滿洲里を終點とし、こゝからザバイカル線に連絡してチタ、イルクツクを經て歐露に續く。滿洲の西の窓口として文字通り白と赤との分岐點で嚴重な監視が行はれ、何となく緊張された氣分が漂ふ。驛を中心として片側は鐵道從業員の街で片側は市街である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●滿洲里市街(興安北省)
滿洲里は海拉爾に次ぐ此地方での市街で、石炭、乾草、魚類等の取引行はれて居るが、滿洲里事件其他で災され今は往年の繁榮の影も失せて商業不振の結果は生氣の乏しい町となつた。路行く人々の姿にもどつかにロシヤ氣分の濃厚な處があるが何となく陰氣な空氣が覗はれる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●甘珠爾廟(興安北省)
甘珠爾廟は海拉爾より約二〇〇粁の處、乾隆時代烏爾順河の蒙古包に人々の信仰を集めた喇嘛廟が後年勅旨により現在の地に再建されたもので、西藏、庫倫と共に三大活佛の一つである。曠野の中に唇氣樓の如く浮ぶ丹碧の伽藍は流石にそれと思はしむる。こゝで有名なのは毎歳陰暦一月十五日から開かれる活佛祭に伴ふ『牧民市場』で、遠く内蒙の各地から集る物々交換の人々で廟の廣場は包に埋もれ大殷賑を極める。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●神に禱る(興安北省甘珠廟)
嘛喇廟の一日は黍明の勤行と共に明けて、重い經典の凾を背負つた婦人の一團は輪をなして經文を口すさみつつ廻る。住民の殆んどが信者で且つその生活は宗敎が凡てゞある。銀飾りに盛裝した女とその夫とが今難病を療さんと呪文を唱へながら幾回も幾回も或は伏し或は立ち廟の周圍を廻つて居る。凡てを神にたよる無智の姿が可憐らしい。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●包を組む(興安北省)
遊牧の生活を恒とする蒙古人は牧草を追ふて所定めぬ放浪の旅をつゞける。昨日迄屯した一群も今日は西に東に袂を分つ。蒙古包は生活に則した簡易な移動家屋で、疊込式に柳材で編んだ外側と、傘の骨組に似た穹形の屋根と絨氈だけで半時間程で組立てられる。周圍に散らされてるのは家財の全部である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●祭典の後(興安北省甘珠爾廟)
年一度の祭典と市は終つた。昨日迄は歡樂と雜踏の渦に、餘興や邂逅の團欒に盡くるなき日を展開した廣場も今日は又元の殺風景な草原に歸つた。包を疊んで四散する人々の中には來年迄は遇はれぬ人への盡きぬ名殘りを惜しむ人もあらう、駱駝の背に首の鈴の音をきゝながら妻女への土產話にほゝえむのもあらう。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●廟の修理(興安北省)
索漠とした蒙古の旅の無聊を慰めるものに、華麗な喇嘛廟の丹碧がある。一望千里轍の跡を砂塵を浴びながら西黄旗廟に辿りつひて一憩した一行は、軒先で赤や靑の繪筆を弄して裝飾の修理をしてるのを見た。眞晝の陽は強くこの藝術家を照りつけて濃厚な色彩を鮮やかに浮ばせて居た。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●絨氈を造る(興安北省)
部落々々から買集めた駱駝や羊の毛は、拙稚[牛+隹]な工人の手に綿打され石灰水で固められ足踏されて絨氈となる。ダライ湖西北の部落で拾つた圖で、遮るものなき曠野の中に暢氣に足並を揃へて踏みながら口にする歌の音は果てしなく流れて行く。やがて黄いベールが地面を匍ふ頃には牧歌的な夕暮が訪れることであらう。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●察罕諾爾炭坑(興安北省)
滿洲里より南西四里計りの處に察罕諾爾炭坑がある。採掘量も少く炭質も粗惡な炭で、僅かに滿洲里市民の薪炭代りに使用される位である。晝も夢を見てるやうな悠暢な駱駝を使役してる舊式な作業はこの邊ならでは見られぬ情景である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●海拉爾全景(海拉爾)
海拉爾とは蒙古語で「アルバン、ホト」の意、副都統都市をあらはす語で、呼倫貝爾政廳の所在地その地方一帶の中心として蒙古貿易が盛んに行はれて來た。人口一萬五千餘、市街は伊敏河の左岸にあり、鐵道の北側は瀟洒なロシヤ街、南は城内で滿蒙人が雜居する商埠地である。現在は北鐵沿線の主要地として經濟上にも軍事上にも將來益々樞要な處である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●海拉爾公園(海拉爾)
海拉爾は低い砂丘に圍まれた町で西方に松原に包まれた小丘がある。楚々たる綠樹の間に點在する小廟を眺めると日本の内地らしい趣がされる。地方土着の人々が永く神林と崇敬し來た處で今は松原公園と名付けられ都人の遊歩地となつて居る。なだらかな起伏の上に建てられた新らしい忠魂碑は未だ血腥い尊い追憶を喚び起させる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●海拉爾舊市街(海拉爾)
一歩外へ出れば蒙古包やオポなどが見られる程海拉爾は蒙古包の豐かな町である。城内は屋根の低い廂の突出した軒並が續いて、滿蒙兩語の看板を掲げた老舗の店先には蒙古人相手の金銀の首飾り細工や裝身具が多い。その中を裸かの悍馬に乘つた買物の蒙古人が行交ふあたり古風な蒙古趣味が味はれる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●暮れ行く郊外(海拉爾)
海拉爾郊外暮れ行く曠原の空は、草原を匍ふ夕靄のうちに靜かに陽は傾く。一沫の寂寞をたゝへるなかに、默々として家路へと急ぐ無心の畜牛の群を見る時、泌々と牧歌的な懷しみのうちに融合されて行く。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●毛皮を乾す家(海拉爾)
呼倫貝爾地方一帶は獸毛皮の產出多く、海拉爾はその集散工業地として交易品の主位を占め馬具皮靴其他の工作品となつて輸出される。皮革工業は盛んに行はれて居るが未だ一般に屋内工業の域を脱せず、海拉爾に二三の整つた工場を見る位のものである。此の町では随所に日當りの良い空地に天日に乾されてる毛皮が見られる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●呼倫池[ダライノール]の漁澇(興安北省)
蒙古人は由來信仰上の關係から漁澇を行はなかつたので呼倫池は永い間魚類の繁殖場として保たれて來た。ロシヤ人が入込む頃から漁澇が行はれ漸次企業化され漁場も二十カ所にも及んで、一時は產額六、〇〇〇瓩もあつたが亂獲のため半數位に減少されて居る。漁澇は冬期主として西沿岸に行はれるが圖は夏の閑散期の蝦採りの實況である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●呼倫池[ダライノール](興安北省)
呼倫貝爾地方の地名を生んだ呼倫池は滿洲里の南方約四千粁の處にあり、草原を縫ふて走る烏爾順河によりて貝爾池に繋がる。周圍約百五十粁あり日本の琵琶湖に倍し、豐富な水量は縹渺として海と異ることなく、幾日も砂原と草原のみを見馴れた眼がこの水天髣髴の景に接する時、身は砂漠の旅にある事を忘れる。池は淡水魚の漁澇で名高い。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●札賚諾爾[ダライノール]炭坑(興安北省)
滿洲里驛から東方約二十七粁の處に札賚諾爾驛がある昔からの炭坑町で露支事件前迄は相當に活氣のあつた處北鐵直營で品質不良の褐炭が主なため需要は少いが鐵道沿線にあるため有利である。埋藏量七〇〇〇萬瓲と云はれ、採炭は露天堀で主として冬期に行はれる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●ロシヤの農夫(興安北省にて)
さゝやかな背戶の畠に播かれた農作の収穫に、一家は擧つて嬉々として鋤をとつて居る。大方は國を追はれた家族の集ひであろう、華かなりし帝政の思出も今は昔の惡夢、土に微笑む面持ちこそ自から物語る安住の境地であるまいか。ダライノール炭坑近くでふと眼に止つた一情景である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●國境の山(興安北省)
遠く外蒙庫倫に源を發した克魯倫[クドロン]河が國境を越え內蒙に入るところにトイールグインウラー山がある。丘上より一望すれば眼前に展開せられた曠原の彼方此方には放牧の屯が點在し、クドロンの淸流は銀蛇の如く蜿々としてその間を縫ひ、遙か視野のつくるあたり右方幽かに見ゆる連丘は國境アンドロノウタウ山である。 この山一帶は瑪瑙の原產地として名がある。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●荒木大尉の碑(興安嶺)
事變以來描かれた「戰の繪卷」のうちでも、昭和七年十二月三日吹き荒ぶ朔風のなかに肉彈を挺して花吹雪と散つた荒木大尉の物語は涙ぐましいものである。興安嶺環狀線の手前西行した鐵路の左側に、當時突放車に積まれた石塊を疊み墨痕も鮮かに築かれた石碑がそれである、低徊暫し點禱を捧げで過ぎる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●札免公司林區(興安嶺)
興安嶺と云へば、永い間忍苦を續けて來た札免公司の辛酸が想起される。前方僅かなる屋舎の屯は嘗つて公司從業員の宿舎で小學校もあつた處であるが、事變の際兇徒の兵焚に禍され二ヶ月餘も密林深く逃避した折の其儘の姿である。全山廣袤四國大の林區から無盡藏に伐り出される材木は主として枕木として搬出される。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●山の宿驛(興安嶺)
大隧道西口を出ると間もなく、白樺と針葉樹に圍まれたさゝやかな興安驛がある。冬は嶺を渡る吹雪に閉され夏は燎爛の御花畑に、永い間秘められた「山の話」の主興安嶺にふさはしい宿驛である。今は飜る日章旗の下に攻防の第一線として重要な存在を物語つて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●興安隧道東口(興安嶺)
露西亞帝國の野望が莫大な經費と永い歳を費して環狀線を作り、三千米突の大隧道を穿つた事は興安嶺の重大性が窺れる。爾來幾多の經緯を經てその間隠れたる尊き犠牲が捧げられ今日に至つた。今靜かに車内の客となる時轉た感慨無量のものがある。圖は東口より前方を望みたるもの遙か白樺の内に見ゆる小舎は守備隊の兵舎である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●白樺の林
刻々と移り行く高原の空は、今迄澄み切つた蒼穹に一沫の白雲動くと見る間に、嶺から嶺へとなだらかに續くスロープを包む。悠々たる興安の連丘の中、白樺の眞白き木肌のみが靜寂のうちにくつきりと純眞な感觸を齎らす、高原の夏はあはたたゞしい。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●齊々哈爾城内(齊々哈爾)
齊々哈爾は往年ロシヤ帝國の北境侵略に際し邊 防のため築かれた城廓で、一名卜魁と呼ばれ、地方政治の中心地として省城を置かれ今日に至つた。現在は黑龍江の政廳所在地で事變後師團司令部及飛行場あり軍事上樞要の地となつて居る。人口約十萬その内邦人五千人を算する。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●齊々哈爾舊市街(齊々哈爾)
外城は今は殆んと破損して舊形を止めないが、昔は南北三十町東西二十六町よりなり五門ありしもの、内城より新市街に續く間は商工業地區にて、舊市街は北滿の町によく見る屋根の低い軒の突出た家並が續く。商埠地開放と共に蒙古人は漢民族の壓迫に追はれて今は殆んど影もない。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●魁星樓(齊々哈爾)
内城の東南隅に孔子廟あり、こゝに丹碧の甍美しい魁星樓がある。内城は磚城と云はれ東に承暉、西に平定、南に迎恩、北に懷遠の四門あり、城内は官公衙、官舎等置かれ商舗の少き點は他の北滿で見る都市と趣を異にして居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●商業街をのぞく(齊々哈爾)
迎恩門より南門外南大街を望めば、大商店軒を並べ往來馬車自動車輻輳延び行く齊々哈爾の殷盛が覗れる。昂々溪にて北鐵と連ると共に、平齊、洮昂の兩線に續き交通上重要な處であるが、農工業餘り振はず生產都市と云ふよりも寧ろ消費都市の感がされる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●筏の午餉(齊々哈爾)
齊々哈爾の西門外廣漠たる原野に續く處に嫩江支流西泡子がある。夏期は漁澇も盛んに行はれ帆船の航行もあり、上流より燃料を滿載した筏は流れ來て遠く松花江に行く。筏の上アンペラかはりの白樺の小舎に晝餉をとる筏夫の顏に夏の陽は長閑に照る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●水ぬるむ(興城郊外)
閉された冬の帳がとられ地殻がぬるむ頃になると、水面にも柔らかな小波が搖られ、やがて迎へる春の氣はいが水際の小枝の色にものぞかれる。春とは名のみ軒をさす陽の光は弱いが、柔らかな感觸のうちに自づと甦る陽炎はやがて紅の大袿兒[タクヲール]燃ゆる姑娘[クーニヤン]の胸に訪れの喜びを囁く日は近づく。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●祖氏石坊(興城)
醫巫閭山、錦州の塔、義縣の大佛と共に奉山線の四大名勝に數へらるゝものに興城の石坊がある。明末の奇傑袁崇煥の部將祖大壽の建立したものと云はれその名あり二基共に三丈六尺、精巧な彫刻は塵にまみれては居るがこの邊には珍らしい牌樓である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●梨の貯藏(綏中)
綏中の驛近く煙突のやうな格構に土を盛り上げた通風筒の立ち並ぶのが見られる。附近から產出された梨の實を地下に貯藏して置く穴倉の裝置で、梨は年額七十萬圓から百萬圓位の產出を見る地方の主要物產である。遠く熱河地方から集るものも總稱して綏中梨として輸出されて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●城壁(綏中)
澄み切つた蒼穹の下に曝された灰黑色の破壁に春の陽は照りつけ、代赭色の畝の起伏にはやがて萌ゆる草の香がかげらふ。どこかに驢馬のだるい嘶きが聞えて日は今盛りである。 綏中城は唐末の建設にかゝるものと稱せられて居るが壞れかゝつた殘壘の跡には未だ新らしい事變の苦戰を物語る記念も殘されて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●綏中城門(綏中)
綏中縣は所謂關外第一縣と云はれ今も滿洲國と民國とが境を接する地である。綏中は熱河を經て對蒙貿易の上に發展して來た町で現在は昔日の面影は失せて閑散であるが、嚴めしい城門に新たに掲げられた大扁額は更正の町綏中として往年の殷盛を約さるゝかに見える。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●綏中(奉山線)
綏中は縣公署の所在地で一名を中後所とも云ひ、周圍約五支里の城壁に圍まれて居る。地形上縣內の物資は勿論隣縣の一部も皆此處に集められ、熱河地方に輸移入さるゝ物資の通過地として以前は殷盛を極めたが事變や兵匪のため現在は疲弊の姿であるが、熱河の肅靜は必ず扼復再起を促すものと豫期されて居る、現在人口一萬七千余あり。(印畵の複製を嚴禁す) -
●角山寺(山海關附近)
角山寺は角山上にあり樓賢寺と言はれ寺内に觀音大師を安置して居る。境内よりの眺望は絕佳と言はれるだけに、渤海は遠く平野に續きて銀蛇の如き灤河の淸流はその間を迂曲し、頭を廻せば興亡治亂二千星霜の間幾多の烽擧干戈を物語る長城の偉容は峯より峯に蜿蜒と山腹を縫ふて遠く北方に消ゆるあたり實に天下の壯觀である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●姜女祠[ギヤンニイツイ](萬家屯)
長城覇業の犠牲とされた亡夫を慕ひ、遠く浙江の奥から慘苦の旅を續けた妻は漸くこゝ迄辿りついた。其日から夜な夜な悲戀の哀哭は柵上に聞かれ、追慕の淚は城壁を壞いたと言傳へられる民謠哀話『孟姜女[モンギヤンニイ]』のヒイロンをまつる祠である。文天祥の 秦王安在哉萬里長城築怨 姜女未亡也十秋片石銘貞 と云ふ有名な聯がその内にある。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●羊を追ふて(山海關附近)
殘壘破壁二千の齡の間、興廢悲喜幾度か反覆、今は苔蒸す長城の靑史をよそに、山海關の巒峯にも漸く平和の陽春が訪れて山あいに羊を追ふ牧夫の面上にも暢々とした情景が漂ふ。遙かに見る長柵の蜒りは餘りに古りたが一頭の驢馬に身を托し一日を行樂に分ちて過ぐる事變の思出を弔ふのも又一しほである。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●春淺し(山海關附近)
山海關附近の丘陵を歩いて居ると珍らしい松原に出遇つた。未だ枝も寂しく桂にからまれた巨木の幹に吊された古鐘の下には名もないものだろう古びた廟が鎭座して居た。かつてはこの絕域に征馬を進め樹梢に響く暮の鐘に戎衣を沽ほし幽林に風をはかなんだ昔も愢ばれるが、無心の鐘に人の世の移ろひを尋ぬるよすがもない。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●興城の町(奉山沿線)
興城の町は地勢上から軍事的樞要地とされ昔から山海關防備の第一線として堅城を築かれた歴史はあるが、地方經濟上には何等見る可きもの無い一時葫蘆島築港問題に關聯して有名になつた處である。城壁は周圍五支里四門あり、城は田舎には不相應な嚴しいものであるが街は唯その内に圍まれて雜然と並んでる田舎町の感がある。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●興城溫泉(奉山沿線)
興城の驛から東南一邦里の處に興城溫泉がある。輪廓の整備は當時この設備に着手した當局の企圖も覗はれるが未完成の内に事變に相遇し今漸く新らしく溫泉遊覽地として修築工事進涉中であるから、他日滿洲有數の溫泉場として都會の人士を吸収する日も遠くはなからう。後の山は首山と云ひ秦の李信將軍が屯した處と云はれ頂上中央の臺座は狼煙臺の跡である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●葫蘆島(一)(奉山沿線)
奉天軍閥の華やかなりし頃、表の大連に對坑するため極祕の裡に葫蘆島築港の工事が起工された。完成の曉には偉大な繫船能力に貨物の吞吐を大連から奪はんとした計畫で巨額の費用が投じられた處であるが今はその殘骸のみである。圖は海岸より鋭角の護岸工事が施され更に海上に直角的に築造された防波堤の跡である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●葫蘆島(二)(奉山沿線)
世が世なれば大規模の築港と豪壯な建築に軍閥の隆盛を禮讚さるべき葫蘆島完成の夢も今や影もなく、半ば築かれた防波堤は崩るゝに委せ無心の波はその脚底を洗ふて萬噸の巨船の換りに僅かにジヤンクが岸に繫留せらるゝのみである。今は唯淋しく船付場に並ぶ帆影に嘗つては此處に滿面の得意を夢見た落魄の將を愢ぶのみ。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●葫蘆島(三)(奉山沿線)
葫蘆島は連山灣口に在る島の名稱で築港はこの島と海岸の間を埋立て渤海に面する一大港灣を工作んとしたものである。この大規模の計畫が事變と共に畫餅に歸してからは廢墟同樣雨曝しのまゝに殘され、雜草に埋れて銷び付いた軌條や臺石などに轉變の哀れを物語るのみであるが、自然の風光明媚は此地一帶に新に大遊園地としての計畫が進められて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●宿場の午時(奉山沿線)
嬉々として戯るゝ小孩のたゝずまひ、いとし兒を抱く母の微笑み、暫しを憩ふ宿場の午時は人も馬も家も渾然とした一幅の畵の中に純朴な暢々した姿で描かれて居る事變迄は苛斂誅求と兵匪に禍された地方も今では王道の天意に抱かれてどの邊陲にも、斯ふした樂土の面影が見られる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●連山風景(奉山沿線)
裸の木立の下に曝された土檣とその内に積重ねられた泥の家並、どこの町にもあるやうな城壁もなければ街らしい整つた町並もなく永い間の内に自から螺集した人間の寄世帶、一すぢに王道樂土の平和に慕ひよる土民の集りが連山の町である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●龍仙池(奉山沿線)
水滑らかな池の面はゆるやかに映された投影をたゝへて水邊をわたる微風の動きさえもない、龍神が棲んだと傳へらるる怪說も今は夢語り、柔らかな白雲は徭ぐともなく空にたゞよい池畔の春は未だ淺い。 大虎山西郊外にある龍仙池の景で彼方に並ぶ一廓は驛の建物である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●大虎山(奉山沿線)
山中で猛虎が捕へられたと云ふ昔噺から打虎山(舊名)と云はれ後大虎山と改められその儘地名ともなつた。大虎山驛背後にある高さ二百米突計りの平坦な小山で、緩やかな途中の傾斜と山頂の眺望は附近住民唯一の遊歩境とされ夏季には納涼の小屋などさえ見られる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●錦縣の日本人街(奉山沿線)
八角形の巨塔で知られて居る錦縣は昔から遼西の政治經濟の中心地として永く殷盛を續けて來た。事變頃から種々の事件に災されて渾沌たる狀態に陥つたが、近來は漸く蕭淸を見ると共に日本人の進出も多く活氣を呈して來た。圖は三千の邦人を抱有する日本人街の一部でどことなくそれらしい雰圍氣が形成されて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●當舗[ダンプー]の招牌(北滿)
在來產業に見る可きもの少く消費貸借が盛んであつた支那では、當舖(質屋)は錢舖[チエンプー]と共に庶民級の金融機關として發達し相當な勢力を握つて來た。門前の龍頭を掲げた『當』の招牌は昔大當舖特に官當[クワンダン](官許質屋)に皇帝より使用を許可せられたものと云はれ、普通は『當』のみで官業の名の下に福國利民の機關として如何に重視せられたかゞ判る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●當舗の入口(北滿)
門を潛ると兩側の城壁然とした丈餘の煉瓦壁に威壓されて過ぎると入口がある。昔から名物の馬賊によく襲はれる商賣だけに遉に嚴重である。扉をあけて這入ると拳銃を腰にした好々爺らしい見張りが余り賴りなさそうな恰好で鹿爪らしく立つて居る、大方は舊軍閥將校の尾羽打枯らした成れの果であらう。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●入質者の群(北滿)
一段と高い鐵格子の内と外とで聲高の掛引が日毎に繰返される、やつと頭の先だけ出る位の高い窓口の内側に並んだ看貨的[カンホーデー](鑑定人)は、當舖中でも主要な役割で相當の經驗者である。堅い格子も高い窓口も皆警戒のためで、暮夜秘かに軒燈の下を人眼をさけると云ふような淡い羞恥の氣持などは味ひやうにも無い。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●望月牌[ワンイヱーパイ](北滿)
店内の見易い個所に望月牌(質出期限早見表)が掲げられて居るのが普通で、これは『千字文』を順に書き並べ一字を一月とし漢字の下には滿支一般使用の數字を書き、該當記號の質物の期限や利子を簡單に判るやうな便法である。流質期限は一定せず店の大小により異り一般大當舖は永く十數ケ月に及び利子も安い。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●貴金屬の保管(北滿)
當舖の御客樣の内には相當階級の顔振れも仲々多く入質品は重に裝身具の金銀細工品で、これは特に倉庫でなく經理(支配人)室備付けの滿洲式金庫に保管される。帳簿方、出納方、鑑定方、書記、倉庫方等數多い店員の内でも最も信用あり確實な相當年輩者がその監視人として任用されピストル携帶で晝夜頑張つて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●倉庫の入口(北滿)
店から裏庭を抜けると倉庫がある。『流通天地大精神』とか『接續國家眞命脉』の業々しい對聯が貼られて居る煉瓦建の倉庫は當舖の最も重要な處で、『號房重地閑人免進』の文字通り嚴重に取締られ火氣は絕對に近づけぬ鐵則である。此の嚴重さが金融のみでなく財產の保管場所としても滿洲では重視せらるゝ所以である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●倉庫の内部(北滿)
風呂敷包や麻繩で縛られた典物は見上る程高い倉庫の天井近く棚一ぱいに積重ねられて居る。そして『千字文』の字順に番號を附して整頓された間を高梯子で薄暗い燈に手際よく出し入れされる。當票[ダンピョー](質札)は絕對の證據で『認票不認人』と明記されてるやうに、人より一枚の札を認める處に未だ地方の戸籍や警察の制度の不備さが覗かれる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●銀行の兼業(北滿)
『裕國便民』の文字通り利子の高低が直接庶民の生活に影響せるため社會政策として利下けの強制をさした程、質屋は舊時代には金融機關として重視された。今でも大當舖は資金や信用の關係上有力なる背景を必要とされ、大資本の銀行、錢舖(兩替屋)燒鍋[ショーコウ](造酒屋)等が兼營してる向が多く、事變前各官銀號が『官當』と稱して兼營したのがそれである。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●估衣舗[グーヱープー](北滿)
どこも同じやうに質物の主なるものは衣類で毛皮や裝身具等がこれに次ぐ、從つて流質物も着衣類が多く大當舖では附設の估衣舖を兼營してこれを捌く。新らしい旣製品や反物迄も加へて『質流品廉價賣出し』の看板の下に需要者を吸収する事は日本と同じで、旣に立派な吳服店の態をして居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●街の質屋(北滿)
質屋には官許を得た當舖の他に資本の多少に依り小規模な質舗[ジープー]、押舗[ヤープー]の名があり、支那町に随所に見る『當』の招牌も今では判然した區別はされぬが極く短期な零細な貸出も行はれて居る。看板の形は本來は『金銀が手に入る』と云ふ偶意から將棋の駒の形をとつて四角の兩上隅を落したもので、赤地や黑地に金文字で『當』と書いてある。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●國境の望臺(興安北省)
此處に來ると蒙古も放牧やオボの詩に夢見る牧歌的存在でなく、緊張した武裝された國境線の現在である。一里幅計りの緩衝地帶を界に外蒙と對峙する望臺、熱の夏寒の冬、寸時も離さぬ雙眼鏡には何が映されるか、雨?風?唯水草を渉る風のみが國境も知らずげに西に東に無限の草原を疾走するのみ。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●塹壕の跡(興安北省)
滿洲里郊外遠く往年露支紛爭の折に築かれた塹壕の殘骸である。唯見る坦々たる果なき草原を縫ふ塹壕の跡に長閑かに放牧の群が水草を追ふてるが、境を隔てゝ秘境外蒙に接する此邊りには『アジアの嵐』を孕んだ龍巻が何時この靜境を破る響をこだまするやら、心なしか眼界のつくる邊り幽かに一沫の妖雲の漂ふを見るのみ。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●草原の旅舎(興安北省)
蒙古旅行は今こそ爆音を立てゝ何處でも通れるが時邊前迄は政治的にも難行であり旅も苦行であつて、重大任務を帶びた幾多の人々が蒙古潛入に如何に尊い犠牲を拂つたか。黄昏迫る頃、穴居に等しい旅舎の暗い燈の下に單座し往年の碧血の跡を愢ぶ時、地圖を辿る苦闘の面貌など想起され果てしない追憶にそゞろ淚ぐまるゝ。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●蒙古の警察官(興安北省)
阿爾泰面[アルタイメン]と云へば地圖には相當大きく誌してあるが蒙古包二十餘位の小邑で、新巴爾虎右翼旗に屬し今は王道治下に昔ながらの生活をして居る村である。さゝやかなる包に嚴然と建てられた滿蒙兩語の警察署の表札とその側に整然と並んだ官吏の偉容、如何にも蒙古らしい原始的な警察官の姿に微笑まれる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●蒙古の小學校(興安北省)
滿洲國となつてから蒙古人敎育を獎勵せしため向學熱も盛になり小學校が八十を數へ中學校迄も出來た。主として實業の實際敎育を施し日語や滿語も課せられてある自然淘汰の搖籃にはぐゝまれた頑健な體軀、眉宇に漲る父祖傳來の慓悍さ、この靑少年が鐵騎よく中亞に及び一世を震駭せしめた成吉斯汗の霸業を回想する日、歴史は新しき彼等に何物を敎へるであらう。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●羊毛の運搬(興安北省)
呼倫具爾[コ江ンパイル]地方一帶は國內でも地味肥沃水草豐富のため放牧に適し、羊毛は第一の生產地で主として海拉爾に集散せられる。在來は羊肉及毛皮用として飼育された關係上羊毛は副產物として取扱はれ概品質不良であつたが現在は着々その改良に從事されて居る。今刈取られた計りの羊毛が裝填されて送出さる處である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●燃料の製造(興安北省)
苦熱に喘ぐ夏が過ぎると秋を迎へる間もなく蒙古には骨を刺す嚴寒が訪れる。永い冬季をつなぐ燃料は彼等の生活に尊い必須品で貯蔵された牛糞は財產の一つとされて居る。この積重ねられた燃料は牛糞と草を泥土で煉炭のやうにねり固めたもので、白露の人々が造るやゝ進歩した體裁のものである。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●克魯倫[クドロン]河畔(興安北省)
滿洲里から阿爾泰面[アルタイメン]に車上の人となり緩やかなスロープを越え大草原を疾走する途上ふと克魯倫の河沿ひに眼に入つた畵趣である。靜かな六月の晝下り、河岸の水揚車は緩やに廻り繫がれた扁舟は水面に微動さえも映さぬ靜けさで、炎暑のうち一掬の涼味をたゝへるあたり、昔を物語る歴史のあとも大自然と共に融和された悠久そのものゝ境地である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●克魯倫[クドロン]河の漁撈(興安北省)
蒙古人は昔から宗敎上の關係で漁撈はしなかつた。呼倫湖[ダライノウル]や貝爾湖[ポイルノウル]を中心とし附近の河川の魚類が市場に出たのは露人が始めてからで今では各所に漁場が設置され企業化されて居る。圖は克魯倫河畔の漁場で一般に簡單な舊式な手法であるが今では地方一帶の產額が相當に上つて居り此邊は主として鯉鯰等が獲れる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●香莨(興安北省)
錦のやうな袋に大切に納めて腰に下げて居る香莨は蒙古人の日常生活になくてはならぬ裝身具である。香莨は文字通り香のある煙草で訪問の折や途上で互にそれを交換して香を嗅ぎ隔意なき挨拶を交わすのである。商用にでも來たらしい二人の朴訥な挨拶の儀禮は如何にも原始そのもの物腰である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●虎林の碼頭(濱江省)
五月初旬になると冬の間閉された北滿の河川に流氷がなくなり哈爾濱からの船が漸く虎林の碼頭に着く。途中の町々の便りと商品を積込んで十月初め迄船舶の出入が續く。先頃迄匪禍の不安に動搖しがちな町も漸く落付いて、明るい陽光が町の隅々までも沾ほし今では脂粉の香さえも漂ふ。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●河沿ひの町(濱江省虎林)
虎が棲んだ地方なので「虎林」の地名が生れたやうに昔は狩獵を生活とした遊牧民が居つた舊い町で、初め呢嗎口[ニーマーコー]と呼ばれ光緒年間縣城設置と共に虎林と改稱された。烏蘇里河を隔て蘇聯イマン市と對する江岸の彎曲に並んださゝやかな町で、人口二千二百餘、縣公署あり對岸の山の下はイマンの町である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●虎林の街(濱江省)
阿片と賭博と密輸と揃つた變則な繁榮を續けて來た虎林は商工業の見る可きものなく、縣內も北陬によつた僻地で人口稀薄の上永い間匪賊に惱まされ住民も縣外に逃避せるもの多く漸く今から第一歩につく町である。然し治安の確保は地理的に重要なこの町に進展を齎らす日が來ると思ふ。圖はその中央通。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●罌粟の栽培(濱江省倒木溝)
罌粟の栽培は烏蘇里地方農作の主要なもので、栽培地は旣耕地より隔つた山丘地方に多く相當地區も廣く、傍ら荒撫の高地を開拓しつつ移動して行く。四月になると各地から萬を算する勞動者が集り相當額の產出を見たが、事變後は栽培區制限のため產額が減少されて居る。圖は倒木溝附近の畑の一部である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●鮮農の水田(濱江省四道河)
鮮人の出稼ぎは實に北滿開拓の先驅車で、その忍苦と農作技能は着々効を齎らして北の邊陬迄進展されて居る。此邊の住民は多く蘇聯方面から越境土着せるもので烏蘇里沿岸方面から低地を追ふて孜々として鋤犁を下して進む、耕作の主ものは米作で陸稲もあるが大部分は水田で治安の工作と共に此種の移民は益々有望視されて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●蘇聯國境監視所(濱江省)
船は蘇滿國境松阿察[スンガジヤ]河の流れ僅か十余米幅の國境線上を走る、夜來不法の射擊に神經を尖らした一行は對岸の蘆荻にふるゝかと思はるゝ船の中に靜かな緊張を續けて行く。手にとるやうに見える草原の間に建てれらた造營物はケ、ペ、ウの國境監視所で、何となく心なき雜草の戰きにも氣がを置れる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●興凱湖の漁撈(濱江省)
滿洲沿烏蘇里の河川沿地方及び興凱湖一帶住民の三分の一は漁撈に從事して居る。四月解氷と共に始められ鮭が烏蘇里河を遡る季節が書入れで、特に秋鮭の大群が遠く松花、黑龍の兩江支流に上る頃は收穫二十萬尾と云はれ一ヶ年の生計費が生れる。興凱湖は水溫高く種々の魚群豐富で夏期閑散の折はエビ漁が行はれる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●興凱湖畔(濱江省)
烏蘇里河から分れた松河察[スンガジヤ]河が興凱湖に注流する湖畔の蘆荻繁茂する濕地の中に戶數十戶足らずの龍王廟の邑がある。興凱湖はその北三分の一に兩國境界線あり、北方蘆荻叢生する地峡を隔てゝ通稱小興凱湖と呼ばれる東西に長い小湖達巴庫[タパク]湖がある。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●興凱湖(濱江省)
北滿の東北隅、南北九六粁東西平均五〇粁と云はるゝ興凱湖は支那本土の洞庭湖と比べらるゝ大湖で、地變による陷沒湖らしく附近の河川を集め再び烏蘇里に注流される。渺々たる水面は海の如く、群り來る白雲は湖面を覆ひ一沫の涼氣波紋を渉り漁舟はを揖を止め靜寂にひたるあたり正に絕好の畫である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●蓮江口碼頭(松花江岸)
佳木斯の對岸五支里遡る處に蓮江口あり、此處より北に百支里餘奥に入れば鶴立崗炭坑あり、蓮江口とは石炭輸送鐵道によりて連り、此處は貯炭場で且つ輸出港である。鶴立崗炭坑は阿片栽培のため耕作の折偶然發見せられてから今日の企業化を見るに至つたもので、炭質良好露天掘で採掘された石炭は主として北滿各線等に送られ埋藏量六億瓲と云はれ將來を約されて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●曳き船(黑龍江)
僅か百噸足らずの船が幾倍かの大きさの船を曳きながら緩やかに海のやうな江面を滑るやうに走る。行違ひにふと双眼鏡をのぞくと船の上には大砲が積込んである。よく見ると物々しい武器もあれば碧眼の兵隊も居るのだらう、如何にも國境の河らしい情景だ。黑龍江の烏蘇里河近くで拾つたスナツプである。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●江岸の廟(黑龍江岸)
船の中でけたゝましい爆竹が鳴る煙火が擧げられる、デッキに出ると船客は皆跪座して江岸を禮拜して居た。見れば碧翠滴るやうな江岸の濃綠の中にさゝやかなる海神の廟が見える、江を往遡する船客は必ず此處にさしかかると途中の安穩息災を祈願感謝するのださうだ。撫遠を去る間もなくの地點である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●饒河の街(烏蘇里江岸)
道幅の狭い泥濘と砂塵の街路に屋根の低い商店が兩側に並んで居る、ヂリ(ヂリ)と焦げつくやうな日ざしを受けた軒並、道端の白い日覆に直射をさけて茶でも啜つてるらしい二人の老頭兒ののんびりした顏、餘り人にも知られなかつた奧北滿のからびた街にも今では王道の陽が照り映える饒河の商店街の眞晝時である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●饒河江岸(烏蘇里江岸)
饒河は滿洲國沿烏蘇里地方で最も活氣のある町で團山子とも云はれ、烏蘇里航行の船は必ず往還に纜を休める港で縣公署あり人口三千餘、冬期は富錦虎林に自動車の便がある。此處で捌かれる商品は阿片蜂蜜等が主で附近の村落からは大豆、玉蜀黍等が耕作される。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●鮭の漁場(烏蘇里江岸)
北滿の奥にも春が訪れる頃になるとソロ(ソロ)烏蘇里河に鮭の大群が上つて來る。鮭の漁期に入ると江岸一帶の漁夫が三倍の數に昇り、彼等には附物の『娛樂』の設備さえが必然のものゝやうに出來て賑ふ。収獲は春よりも秋が多く約二十萬尾と云はれる。これはその中心地海靑鎭漁場で江岸の魚籠は魚を貯へるものである。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●虎林縣公署(烏蘇里江岸)
虎林の町の一角『虎林縣公署何々』と嚴めしい標札に似合わぬ古々しい門構と平家の支那家屋、門前に薄汚い軍服に眞黑な平べつたい顴骨の高い兵隊の鹿爪らしい面が立つてゐるあたり、どうやら縣の懷具合ものぞかれる事實縣內は廣い割に未墾地が多く人口が少く、永い間匪賊が跳梁して居たので内容が充實される迄には先がある。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●祭に集る天幕(興安西省大板上)
喇嘛廟の祭典は年中行事として大低年二回行はれる。祭の日が來ると今迄遮るものもない草原の中に四方から螺集した人々で包や天幕の歡樂境が現出され、廟の周圍は僧侶の讀經と善男善女の奇異な祈禱と香煙の渦に包まれる。圖は興安西省大板上の祭典に集ふ天幕の賑やかさである。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●喇嘛僧の群(興安西省大板上)
色の褪せた黃袍の裾を曳き、紅頂のある黄色帽に失はれつゝある儀容を正した老、壯、少の雲訥共が丹碧の殿堂を後に、今日の佳き祭典を集ふ群衆を相手に嬉々として影の淡い法悦にひたつて居る。口にして居るのは大喇叭で長さ二間に及ぶものもある。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●怪異な跳鬼(興安西省大板上)
數限りなく立並べられた長旒と大旆と幡旗、中央に飾られた咒符の裝飾、その間を髑髏を頭にのせた怪異な假面の跳鬼が喜怒何れとも見分けられぬ面貌で、牛、馬、鹿等のグロテスクな獸面の仲間を交へて旋廻跳舞する頃が祭典のクライマツクスである。圖は踊り終へた跳鬼の一隊が息ついた處である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●髑髏の舞(興安西省大板上)
大太鼓、小太鼓、銅鑼、大小の喇叭等、音の強烈な激調の伴奏が騒々しい中を薄氣味の惡い髑髏の跳鬼か躍り出した。道化役者のやうな間の抜けた足どりで可笑しく踊る所作を見て觀衆は譯もなく喜ぶ。何となく時代に置去られる者の狂燥曲を聞くやうに想はれる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●裝飾された咒符(興安西省大板上)
一しきり祭典の行事は終つた、金銀や丹碧に飾られた髑髏の付いた三角形の屋根型の飾物は祭典の中心となつた惡魔退治の咒符である。世のあらゆる惡魔は讀經でその中に封込められ祭典の終りと共に燒捨てられるのである。積重ねられたのは太鼓で縱に柄の付いた處が變つて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●餘興の力技(興安西省大板上)
祭典の餘興として觀衆を尤もアツピールするものは角力である。短かい上衣と緩やかな袴をつけた二つの肉塊が東西より出て活佛に合掌の挨拶をする、そして土俵のない芝生で倒れる迄渾身の力を漲らして爭ふ龍驤虎膊《龍驤虎搏》、日本の柔道に似て洗練されぬ野趣の橫溢した處に面白味がある。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●優勝した力士(興安西省大板上)
戰は終つた數度の健闘に息する暇もなく最後に選ばれた見るからに逞しい慓悍な壯漢、きらびかに飾られた銀金具打つた名譽の上衣を着用した悠然たる不敵の面魂、彼は今日の榮ある優勝者なのである。力士は多く僧侶から選ばれるが、今では半職業的のものもある。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●祭の馬市(興安西省大板上)
喇嘛廟の祭典には必ず市が開れる。年二回の祭典を目的に遠くから集つた蒙古人や滿洲方面の商賣人の手で急造の大幕市が設けられ物々交換が行はれ、雜貨、毛皮、家畜等が主として取引される。祭が終れば金を懷にした人々は蒲鉾馬車に搖られて又草原の遠い旅路につくのである。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●天幕の露店(興安西省大板上)
祭典の雜踏を避けた一隅に種々の天幕露店が開かれる、參詣旁々金儲けに來た人々の群であらう。さゝやかに並べられたどうやら日本品らしい陶磁器・・・大方は遠く草原を越えて來た參詣の人々が物珍らしさに留守居の人々を喜ばすお土產となるのであらう。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●祭見物の娘(興安西省大板上)
指折り數へた祭の日が來た、薄化粧する頃の娘心にお祭りは嬉しい幾日であり懷かしい想出でもある。明け暮れ寂しい草原に夢を結ぶ蒙古娘に祭は胸をおどらす憧憬であつた。兩親に連れられた戀知る頃の娘さん、參詣も終つたらしく何を求めるのやらさても楚々たる姿よ。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●古塔を望む(朝陽)
朝陽の三座塔は遠く遼金時代に建設されたものと傳へられその儘地名となつた程有名であつたが、櫛風沐雨幾星霜今は二基を殘すのみである。 その昔驛々聳える塔は旅路を辿る人々の唯一の道標とされたもので、振分けの負荷も重い旅人達が薄暮迫る頃遙かに群鴉繞り飛ぶ塔を隱見した折の喜びが、今も夢のやうに立つ塔の姿に偲ばれる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●城外へ(錦縣)
灰色の塵埃にまみれた城壁は嚴然として地方に君臨した昔日の偉容もなく、遼西の政治經濟樞要地として盛時をうたはれた殘骸のみが靑史をよそに悠久の日に曝されて居る。 麗らかに晴れた城壁の外側を、今しも一群の家族を積んだ馬車は土煙も輕く城外へと馳けて行く。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●郊外風景(朝陽にて)
赭土の路に映り返される陽光 灰色の塵にまみれた土壁の香 楊樹と柳條の投げる長い斜影 遠い鶏の聲も人の囁きさえも聞きとれる静寂の中に、洋畵のタツチを見るやうな感觸の誘惑にふとものされた一枚、朝陽郊外秋淺い日の午後。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●朝陽の町(朝陽)
朝陽は遠く晋末五胡一六國時代から東蒙の古都として聞えた町で、市街は大凌河の左岸にあり、昔周圍四キロ半に渉る煉瓦壁に偉容を示した城壁が廢頽のまゝ殘されて居る。現在人口二萬五千、地方經濟の中心で人馬の絡繹は縣公署前通りの景である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●大凌河(朝陽附近)
遠く熱河の奥を發し蜿蜒と遼西の野を曲折迂走した大凌河は渤海の海に注ぐ。圖は朝陽の附近を走る支流で、遙か幅廣き河床を隔てゝ眺めると東は麒麟山脈南は鳳凰山脈あり、稜々たる岩骨に描かれた山皺の起伏を褐色の河床に殘された砂洲に映じて流れる樣は雄大である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●憩い(赤峰にて)
焦きつくやうに烈しく照りつける殘暑の陽をさけて土壁の小門に汗を拭ふ野菜賣りニーヤ、側らに腰を下ろして話かける老頭兒、長い煙管からは紫の煙が屈托もなげに舞上る。聲高な四方山の談はいつ迄續くやら、さても長閑なシーンよ。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●赤峰の街(赤峰)
赤峰は遠く乾隆の初め蒙古貿易の最前線として開市せられ、地形上農牧地帶の交界地として一時殷盛を極め、其後幾多の曲折を經て近年迄は衰退を續けて來たが今は漸く恢復せられ、人口約三萬、皮革、甘草等の取引行はれ地方集散地として進出して居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●紅い山(赤峰)
赤峰の名は蒙古語名烏蘭哈達[ウランヘツタ](紅い山の意)から轉改されたもので、河を隔てゝ望む東北の紅山は全山紅の岩質に蔽われ、特有の紅い夕陽に輝り映える頃遠くからこれを望めば眞紅に燃ゆるやうな處から此の名が生れた。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●赤峰郊外(赤峰)
赤峰は西遼河の上流附近にあり、古來熱河地方の中央に位置を占め經濟の中心地であつた。東北と南に山を控へ西南は一望の平野あり、往時松州及松山縣名を附せられた處を見ると昔は附近に松樹多かつたらしいが今は跡方もなく泥の町である。(印畵の複製を嚴禁す) -
●祭の芝居(烏丹城にて)
ふと烏丹城の町で廟の祭典に出遇つた。けば(けば)しい隈取りと紛裝で鋭い聲を張上げる支那芝居の一幕、立並ぶ露天の汚い食堂と雜貨の陳列、嬉々としてその間を縫ふのんびりした群集、覗き眼鏡に時の立つのも知らぬげである。 烏丹城一帶は地味瘦薄で特記すべき生產がなく、無盡藏と云はるゝ甘草のみが此處を中心として多く輸出される。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●東門を望む(林西)
林西はもと巴林右翼旗に屬し、察罕木倫[チャガムロン]河支流北岸の平地にあり、東西は丘陵に抱かれ南は平野、北は谷地となつて居る。周圍二支里半の土壁を繞らし東西南北の四門がある。巴林の西に位置を占めてるため林西の名が起つたのである。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●中央大街(林西)
東西南北の四門を十字に結ぶ街衢は林西の主要幹路で中央大街と云ひ、更に左右二條の小街があつて劃然とした町である。元來が商業地でなく寧ろ對蒙上政治及び軍事の重要點として存在した處であるが、近來は漸く交易も柘けて活氣を呈して來た。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●林西の町(林西)
林西は北東は直ちに蒙古地帶に展開し、地勢上西は經棚に望み南は烏丹城を經て赤峰に通じ各地との交易地で、近時開放せられた接續の蒙古地帶は地味肥沃のため家畜集散の地となり急激な發展をしつゝあり、移出品は畜產、羊毛、獸皮、甘草等である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●淸眞寺内部(林西)
淸眞寺の堂内は一般に裝飾らしい裝飾がなく、こゝも普通の洋燈が中央の壇上に吊され後壁には紋樣の亞刺比亞文字の額が掲げられて居るのみである。回回敎徒は支那には珍らしく幹淨[ガンチン]を愛する人々で堂内には必ず洗身に用ふる淸水が供へられて居る。嚴然と並んだ僧侶とアラビヤ文字でのみ綴られて居る敎典[コーラン]はよく頑迷と云はるる信仰の内容を物語る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●淸眞寺(林西)
片手に敎典[コーラン]、片手に劍のマホメツトの回回敎(一名イスラム敎)は遠く西域より遙かに東邊滿洲に來り布敎せられてから百數十年の歷史と現在約十萬の信徒を有する。敎徒は回民[ホイミン]と云はれ豚肉を吃せず他敎徒と交らず、牢固たる團結の下に嚴格な宗規を遵守して居る。淸眞寺はその一般寺院名である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●大板上を望む(大板上)
大板上は興安西省の林西より東方百六十支里の處大興安嶺の一部なだらかなる高原地にあり、元巴林右翼旗の所在地で地方稀に見る整つた町である。年一回催される廟祭には遠近より螺集する善男善女で「牧民市場」が開かれ、靜かな町も暫くは歡樂と雜踏に殷賑の日が續く。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●郊外のオボ(大板上)
永い夏の日脚も傾きかけた郊外の黄昏時、遠くなだらかな丘陵を後に夢のやうに立つオボを徭かす涼風、蒙古の夕暮は靜かに神秘である。オボは境界標識のためと宗敎的な通靈機關として積上げられたものとあり、圖は後者で神靈の搶と使役する鳥とが供へられてある。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●老婆と孫(大板上)
後生をお願ひに町の廟樣に參詣した老婆であらう、盛裝した孫らしいのを連れて嬉しさが皺にのぞかれる。蒙古婦人の服裝は滿洲人に似て寬長だが袖口は少し狭い、腰には銀鎖か紐でメタル樣の物を下げ、靴は大低刺繍された長靴を穿き夏季は頭を布で卷く。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●蒙古の老人(大板上)
祭の日の大板上の街頭で見た老人の群、何を見入るのやら三人一樣の額の皺には長閑な陽が照る。蒙古の男の衣服は滿洲服より寬闊で長い裾を帶で高くしめ上げ夏季は綿布冬は毛皮が用ひられる。皮製の長靴を穿き、嗅煙草、食事用小刀や箸入、煙管などの身廻り品を携へ多く念珠をかけて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●大板上郊外(大板上)
去來する雲の脚も蒼空に凝して動せず、遮るなき漠々たる曠野を端然と起伏する大興安の連丘のたゝずまい、微動のけはひさえも感ぜられぬ秘境の眞晝時、狂燥と喧騒に繊細な神經を焦悴させる都會人には想像だも及ばぬ靜寂味であり嚴肅境である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●北岔子採金場(間島省)
琿春から滿蘇國境の連峰を右に眺め琿春河の上流沿ひを北行すること四十里餘、濱江省に近い胡慮河附近に北岔子の砂金採金場がある。此處は附近一帶の河床を中心として昔から土地の人々の手で砂金を採集された處であるが、滿洲の採金企業化と共に現在は機械化され新らしい方法で採金を續けられて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●採金の試錐作業(北岔子)
綱曳きのやうな格恰で四人の苦力圓盤附パイプを廻すと同時に盤上の四人は鐵管を地中に打込む。これはインパイヤードリルに依る試錐方法で、地下の基盤に達する迄一尺宛沈下する毎にポンプにて地中の砂を上げ砂金の有無を試驗する。最後に平均一立方碼の含有量を算出して價値が決定される。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●砂金採掘狀況(北岔子)
インパイヤードリルに依り試錐せられ含有量を算定され採掘價値のある個所は採砂にとりかゝる。地表下二十四五尺の基盤迄掘下げられて含有砂は採出され愈々洗鑛機にかけられるのであるが、この水溜りの土砂の現場を見るとゴールドラツシユを夢見るには余りに空想離れした感がされる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●砂金洗鑛機(一)(北岔子)
この洗鑛機はゴールドパンに依る淘金作業機で、採出された金含有の土砂は少量づゝパンの投入口である金網の上に入れられる、同時に上部のポンプの口から勢よく降下される水力とパンの自動的な水平運動によりて土砂は完全に洗はれ砂金は下部の銅盤面に沈下される。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●砂金洗鑛機(二)(北岔子)
採掘地からトロツコで運ばれた含金土砂が洗滌されつつある處で、一旦洗はれて金網から銅盤面に沈下された砂金は更に此處にある水銀に吸収せられてアマルガムを作り、かくして含金土砂は完全に洗鑛せられ、最低の盤上に殘される。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●山の朝(北岔子附近)
今の今迄大地を匍ふて居た朝霧もしつきり晴れて、此處老爺嶺の嶺つゞきの連丘は淸々しい朝の陽が柔らな光を投げて居る。 今日の仕事への仕度であらう牛の用意をしてるらしい農夫、道端に建てられた藁葺の家にも田舎らしい山村朝色の長閑さが漂ふ。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●鮮人小屋(北岔子附近)
丘地の勾配を利用して掘下げられ溫突を据付けると簡易な住宅が出來上る。國境を越へて遙か北滿に移る鮮人の群は夥しいもので、隱忍と苦闘の中に孜ととして地盤を築ひて行く努力は淚ぐましいものがある。この穴居に等しい陋屋は附近の採金場に働く彼等の生活狀態である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●楊木溝江岸(一)(吉林省)
北滿特に松花江上流一帶から伐出される木材量は無盡藏と云はれ、吉林江岸に集るものにても年二十萬石余と算出される。伐木から運材、更に編筏にとりかゝり春季晴明の候と共に融雪の出水を利用して遲くも初夏の降雨前には悠々たる巨姿を江面に浮べる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●楊木溝江岸(二)(吉林省)
筏の大きさは凡そ二十本内外の長物が一節として編まれ、小は三四節より大は四十節も連結されて流される。頭棹の筏夫の音頭の下に十人近くの後棹の手が巧に繰られて江上を流るゝ偉觀は北滿の一名物で、數十里の碧潭を迂折曲走して吉林に着き解體される。圖は楊木溝江岸に繫留された筏である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●筏(楊木溝江岸)
編筏が終ると小角材や板などで筏の上に小屋掛されて幾日かの假の起居が出來上る。筏上に立昇る炊煙に移り行く江岸の暮色を惜しみ、渓の鶯に誘はれて筏節を流す風流味はなくもがな、江水湲やかに煙る筏上の朝夕に江山水趣をほしいまゝにする筏夫の生活は一聯の詩のフイルムであらねばならぬ (印畵の複製を嚴禁す) -
●南陽驛(北鮮)
國境を流るゝ圖們江を隔てゝ滿洲國の圖們に對し南陽がある。國際鐵橋に連る日滿連絡最捷路が生れ京圖、圖佳兩線に通ずると共に北鮮の關所として急激な進展を遂げ、先頃迄人煙稀れな寒邑も今は人口二千餘、橋一つ境に朝鮮造りの驛舍を見るのも異つた氣分がされる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●北鮮の陶器(北鮮)
到る處に陶土に惠まれて居る北鮮地方では随所に窯業が盛んに行はれ、特に會寧燒の名聲は逸品とされている 圖は雄基の町端れに拾つた陶器屋の店先きで、この日當りの良い軒先に並べられた陶器も何れは白衣の女の人々の頭の上に緩やかにのせられて歩く日が來るだらう。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●羅津の町(北鮮)
躍る黑潮日本海も 庭の湖水よ一夜の夢路ー 音頭が物語るやうに羅津の港は天惠的好條件と地理的にも絕好の地位にある。未だ市街は物足りないが東支、拉濱、圖佳の三角鐵路に集散される物資は必ず此處を中心として吞吐される可く、町の繁榮も期してまつべきである。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●穰る穗(北鮮)
北鮮の產業は地勢上林野面積廣く兎角農業は遲れ勝ちであつたが、近年漸く盛大になり粟、大豆、麥類、水稻等の生產行はれ、その内粟は彼等の生活必須のものだけにその主位を占めて居る。重たげに垂れた粟の房、見渡す限りの搖ぐ穗波は今収獲を待つて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●特產の積出(山城鎭)
背後に肥沃な大平原を控へた山城鎭は、特產の出廻り盛んで附近一帶の物資の集散地であると共に、市街は東山地方唯一の都市として商賈櫛比し頗る殷盛を極め奉吉沿線中の重要な町である。人口三萬、これは驛構內に積出された大豆の山である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●嚴めしい糧棧(山城鎭)
東邊道一帶は交通關係からか由來匪賊で有名な地方であつた。山城鎭の大きな糧棧は大抵雜貨商や宿屋質屋等を兼業して居るため客の出入も多く彼等の好餌となる事が多かつたのでその警備振りも物々しい。城主の居城にも似た儼然たる墻壁と武裝された望樓はよく事實を物語る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●海龍の街(海龍)
海龍は地方での舊い歷史のある土地で縣公署もあり商業も相當に賑つて見えるが、地形の關係から山城鎭と朝陽鎭の間に挟まれ兎角兩者に押され勝ちで現在市況の活氣は之等に及ばぬ。圖はその商業地域の本通り。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●城門の入口(海龍)
海龍縣は東豐、西安、西豐の各縣と共に淸室の初期に圍場(御獵場)として扱はれて居つた處で、海龍は光緒四年初めて開放せらるゝと共に總官衙門を置かれ今日迄續いた町である。 冷たい北滿の冬は崩壞された歷史を土壁の姿に殘したまゝ、城門には枯草が寒風に戰ひて雪に凍付いて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●輝發城址
輝發城址は吉林省盤石縣と奉天省輝南縣との縣界、朝陽鎭より東北方輝發河左岸に臨んだ丘陵にある。尋ぬれば城壁の跡とおぼしき小高き蜿りに昔を偲ぶのみであるが、嘗ては明代より淸の初め頃迄の間、北邊から來住した扈倫種族の覇になつた輝發國の舊都の壚なのである。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●輝發寺
輝發城跡の丘の背面の勾配にさゝやかな寺廟があり名もその儘に輝發寺と稱へられる。國破れて山河あり、眞新らしげな丹碧はその昔遠く黑龍蒙古地方より來り暫し制覇の夢を結んだ強者共の跡を識るやしらずや、雪に被はれた甍には未だ淡い春の跫音さへも聞かれぬ。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●郊外の雪景(朝陽鎭)
朝陽鎭は最近まで瀋海鐵路の終點として知られた處、地勢上商業都市として目覺しい發達をした新興の町で、過去に於て殆んど全滅の被害を嘗める事兩三回よく起生回復をして今日に至つて居る。交通の要路と云ふ好條件は物資の集散と共に今後の發展を期待される。圖は雪に彩られた郊外の景。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●雪の村落(輝發城附近)
たゞ見る白皚々たる雪野原、眞只中を一筋に遙か消え行く轅の痕、薄墨色の空模樣の彼方に點綴する村落の點景、世の塵も屈托もなく白一色に自然の刷毛に淨化されたカンパス、舊蹟輝發城址を中心とした風景だけに一しほの眺めである。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●柳垣のある路(盤石)
柳條をくみ合はした生垣のある茅屋が靜かに兩側に續いてる路次、トゲ(トゲ)した冷たい感觸のうちに何となくうら枯れた淋しさがある。やがて柳に柔らかな芽が萌出る頃はこの山間の町端れにも春が訪れて、惱まされた匪賊の昔語りに今日の樂土を讚へつゝ苦い思出も語り合はされたことだらう。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●盤石の城門(盤石)
盤石は吉林省の最南端、輝發河支流の北岸にある舊名磨盤山と云はれた町で、舊吉海沿線中では主要な物資の集散地とされて居た。人口約二萬餘、事變以來匪賊の災禍を避けて遠出した商人も漸く歸來し商況も回復しつゝあって、城内は町並も道路も整然とされた一寸した町である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●琿春の城門(琿春)
琿春から三里を隔てる蘇聯との國境方面には今も怪しい妖雲が漂ふ。此地方は地勢上山岳地帶で且つ國境線に近い處から共匪の鎭壓に惱まされて來たがその掃蕩は相當困難な事と云はれる。町は人口二萬餘、何となく沈滯氣分がされる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●町の書店(琿春)
國の文化は敎育の普及がバロメーターとなる。王道治下の恩浴は普く率土の濱にも及び遠く邊陬の地にもそれが覗かれる。琿春のゴミ(ゴミ)した薄汚い陋巷の軒並にふと國定敎科書の看板を見た時、新らしく拓け行く若い國の呼吸が聞きとれるやうで嬉しかつた。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●琿春城内(琿春)
琿春は元來間島地方中では最も早くから鮮人の移住を見た土地で、淸國時代は地方唯一の商埠地として對浦鹽貿易に一時は殷盛を極めた事もあつたが、大正十一年露支國境封鎖以來貿易が杜絕されて今は昔日の面影もないさびれ方である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●燒鍋屋(琿春)
誇張した文字の好きな舊い支那の姿がその儘に殘されて居るやうな業々しい此の招牌は琿春の町で拾つた支那焼酎屋の看板である。此種の華麗な裝飾や美辭麗句を列ねた看板も、若い滿洲では他の因習や舊慣と共に自然に影を潛めて行くものゝ一つで、今は珍らしいものとなりつゝある。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●頌德碑(琿春)
永い歷史の間勸善徵惡を絕對の敎とされて來た舊い支那では、孝子や節婦が崇敬の的とされ或は牌樓の柱に或は石碑にその徳行が宣傳のやうに表彰されて居た。そして寺や廟の境内には必ず官吏の德政を禮讚した頌德碑が並べられて居るがそれも官尊民卑のお手盛りものがあるらしい。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●延吉市街(延吉)
延吉は舊名局子街と稱へ龍井村と共に間島地方を代表する都市で、昔から地方政治の中心地として商業の龍井村と對立して來た町である。事變前は排日運動の策源地で度々血醒い事件が繰返された處、近來平安を見ると共に漸く發展し現在人口二萬五千あり。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●六角堂(延吉)
どこの町を歩いても公園らしい個所には、何々亭、何々樓と四阿やうのものがあり廟が建てられて居る。六角堂もその一つで此處より一望の下に展開せらるゝ沃野はその生產額六十萬石餘と云はれ延吉はその中心として敦圖線開通以來發展し今日に至つた。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●弔魂碑(延吉)
事變前は勿論事變後も有名な匪禍に惱まされ續けて來た此の地方では今の樂土を生む迄に幾多の尊い犠牲の碧血が血ぬられた。延吉高臺新らしく建立せられた此の碑前に額つき、文化開發の先驅を飾る人々の遺業を偲びつつ、現在を感謝すると共にその瞑福に默禱を捧げる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●敦化の町(一)(敦化)
敦化の町は四圍山に包まれた敦化盆地の中央に位し牡丹江の左岸にある。人口二萬二千、遠く渤海時代から阿克敦城として知られ敦化の名稱は淸末に改稱されたもので、最近迄吉長吉敦鐵道の終點として樞要な地位を占めて來た。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●敦化の町(二)(敦化)
敦化は古來間島、寧安方面と密接な關係を持して來た町で、城内は相當整つた市街であるが度々兵匪の慘禍を蒙り市況疲弊し現今漸く稍々恢復に向ひつゝある田舎臭い町である。附近の牡丹江は物資の搬出に利用され木材雜穀等がその主要物である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●元帥陵を望む(奉吉線)
元帥林より約一粁、後に鐵龍山の懸崖を控へ、前に渾河の淸流を望んだ水龍臥と稱へらるゝ丘陵に、靑甍麗はしく陽に映ゆる一廓が元帥陵である。一代の梟雄張作霖が自らその陵墓を建設せんとして此地を選び工事半ばにしてその儘殘されたる地、綠林より出で皇帝を夢想せる豪華を想ひ今日に及ぶ時轉た感慨無量のものがある。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●寢陵の石階(元帥林)
大理石を繞らした外廓の周圍に三門あり、正門より更に山門二基を經て進めばこの石階に達する。結構の壯、規模の大は自から大元帥僭稱しその墳陵を帝王に模した風雲兒の心境を如實に物語るが、今は主なき殘骸を尋ぬる者もなき轉變の世にその末路を曝すのみである。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●廢墟(元帥林)
多額の工費と暴力の強壓とで先考の遺言により建設されんとした陵墓も完了半ばにして滿洲事變は總てを淸算して終つた。山河依然舊態、唯殘るものは雨露に曝された大理石の輪換と、散亂されたグロテスクな石獸の醜骸のみである。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●東豐の公園(西安線)
東豐は昔から東山地方と呼ばるゝ附近一帶に於ける特產の出廻地として知られ、事變後度々匪害を被つたが現在は市況も漸く回復しつゝあり、人口一萬七千餘、縣公署所在地である。これは公園の丘上に建てられた記念の忠魂碑である。(印畵の複製を嚴禁す) -
●街の野菜屋(東豐)
畠から掘出されたまゝの新鮮な味覺、土の香にそゝらるゝ淺春の田園圖譜、餘り商賣もないらしい街頭の野菜屋さんの純朴らしさ、今漸く客に當り付いて何やら世間話の最中である。まだ晝には間のある田舎の町での一風景をそのまゝー東豐にてー (印畵の複製を嚴禁す) -
●西安炭坑(一)(西安線)
西安炭坑は縣城より北方四支里の地にして、礦區は東西十支里、南北四支里あり、埋藏推定量一億一千萬瓲、炭質は瀝靑炭にて粘結性と弱粘結性とあり、出炭年額二十萬乃至三十萬瓲を算して居る。資本金二百萬元、今は滿洲炭礦會社の管理にある。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●西安炭坑(二)(西安線)
西安炭坑は現在斜坑二、露天堀二を有しその採出炭は直接奉吉線を經て遠く哈爾濱其他の北滿の都市及びその沿線各地に販路を擴げて居る。近來近代式採炭法の採用と共に逐次出炭量も增加し、近き將來に南の撫順と共に北に炭都西安を見る日が來る事であろう。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●西安の街(一)(西安線)
西安は奉吉線から分岐した西安線の終驛で、昔此地方は淸室の御獵區に屬せる地である。光緒二十六年解放せられ同二十八年縣城を置かれ爾來地方行政の中心となつて來た。事變後も他の地方と異り兵匪の慘禍を蒙る事少く市況も殷盛を呈して居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●西安の街(二)(西安線)
西安の東南隅にある龍省山上から俯瞰した町の全景でこの山は明末の頃の葉赫東城主の居城の跡と稱はれ、現在頂上の魁星樓の傍にある土臺石がその當時の遺跡と傳へられて居る。この町は全體が比較的整つた、北滿によく見る平ぺつたい黄い氣分の少い落付いた町である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●西安の街(三)(西安線)
西安の町は地勢に惠まれた上に背後地一帶に肥沃な農耕地域を控へ、更に附近にある西安炭坑はその急激な進展を促して今日の盛況を見るに到つた。人口三萬餘、町並も整然とした都市で特に炭坑今後の躍進は町の前途に將來を約するかに思はれる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●農安の古塔(農安)
農安の西端に巨然として聳立する隆安塔は高さ三十丈八角形の矗立した古塔に苔蒸して櫛風沐雨幾星霜、今は頽落したまゝ淋しく古都を物語るのみである。建立年代は確實に不詳であるが由來滿洲の塔は多く遼、金時代の全盛期に建立せられたもので、これも遼の聖宗の頃のものと傳へられて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●小南門外(農安)
農安は昔から松花江に沿ふた肥沃な盆地の農產や畜產の中心地として古い歷史と共に名の現れた町で、近來は國都新京の連接背後地として聯絡あり物資の集散と共に商況殷盛を呈すると共に、更に京白線の連絡はそれに拍車をかけて活氣を呈して居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●農安西大街(農安)
農安と扶餘は共に滿洲に於ける文化の淵叢と云はるゝ町で、遠く扶餘國の昔から渤海、遼、金、元、明の各時代を通じてその政治中心地となつて來た。現在人口二萬五千餘、町を繞る土壁の四圍に四門あり東西南北の四大街に區劃せられ整然とした市街をなして居る。 圖はその商業區西大街である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●藥屋の看板(農安)
これは藥屋の軒先にあつた招牌で、藥屋の看板は元來菱形の白い板の上下に三角の板を吊し、それに黑色を描きその下に瓢簞や魚が下げられるのが普通である。これは少し變つた型で大方瓢簞は神仙が仙丹を藏するに用ひた容器と云ふ處から標識されたものであらう。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●扶餘全景(扶餘)
紀元前此邊一帶に霸を唱へた扶餘國の首要部が此地方に置かれ、その後渤海から淸の雄圖を見る迄その間幾變遷、一時は蒙古人の手に占據せられた時代もあつた。淸の大祖の時代これを撫定し、松花江を淸、蒙の境界と定めその左岸に伯都訥[ペトナ]と命名した町が今の扶餘である。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●扶餘の街(扶餘)
扶餘の町は淸の初期に此處を平定すると共に、松花江岸の豐饒地帶を山東、直隸方面よりの移民に開拓せしめて以來、河流を利用した奧蒙古との貿易が盛んに行はれて來た。近來蒙古の開放と共に對蒙貿易は衰へたかの感もあつたが、京白線の開通はこれを補つて更にその發展を期待される。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●暮近き江岸(扶餘)
松花江も扶餘の邊から漸く大河の水勢となり、河幅三百米、水深八米、更に數キロの下流に嫩江を合せて愈々本流となる。沿岸は漁業行はれ冬期は寒氣を利用した凍魚が滿洲各地や北支に出されて行く。 夕近き川面には明日を待つ苫舟が靜かに波に搖られて靉然と暮色に溶けて行く。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●關帝廟(扶餘)
關帝廟の神位は關羽で劉後主に盡した誠忠を頌する意味で祭祀されたもの、忠義神武の武神と共に俗間には比干と並べられて柄にない財神としても多大の人氣をうけ支那や滿洲には至る處に祠がある。此廟は昔強烈な風のため砂塵に埋もれたが再びその儘出現した靈現のあらたな言傳へが殘されて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●三母廟(扶餘郊外)
扶餘の南門から四滿里程離れた郊外に三母廟がある。古都扶餘の名にふさはしからぬ新らしげな丹碧の甍が三棟整然と並んで居た。立昇る香煙も淡いが、やがて祭の頃になれば參詣に螺集する善男善女の渦に埋もれて人いきれに賑ふ日が來るであらう。建立は民國四五年の頃と云はれて居る。 (印畵の複製を嚴禁す) -
●太陽廟(扶餘)
數多き天の諸星の内で日月を最貴として崇拜祭祀したのが太陽廟で、思想の幼稚な時や處では種々な神樣が繁昌した。三層高樓の屋上高く喇嘛塔を飾つたかたはら『佛光普照』の文字が麗々しく書かれたり、大體に通俗的な宗敎なだけに建築樣式にも敎義にも何敎と區別し難いほど順應性が覗れる。 (印畵の複製を嚴禁す) -
『歸リ路』熱河にて