亜東印画輯/05
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●民家の源流(浙江省・寗波)
木造の民家の家並み、煤紅塗の羽目格子から狹まい出入口の格構まで、何んと云つても京の町大阪の裏通りその儘のものを甯波の町に見出すとは、今更に支那文化の我が日本への浸潤が深く且つ遠いことに驚かざるを得ぬ。萬豊とか云う屋號の額板を軒に斜にかけたところも、今に未だ日本に殘る唐ようであらねばならぬ。なつかしき我等が文化の故鄕である甯波よ、汝の姿は向後何時まで續くであろう乎。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●寗波の問屋町(浙江省)
寗波の町には土藏造りと木造家屋の二種類がある。家の構造が餘り他の地方には見當らない華奢な形で、入口の格子戸などは京大阪邊のものとそつくりだ。遣唐使以來寗波は古くから日本との交通の開けた土地柄だけ、舊い日本文化の源流が今でも此の地方に存在して居る。如何にも非開放的な封建時代の臭ひのするあの問屋の店の格子戸から算盤玉の彈く音の聞江るのも古典趣味だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●寗波の町(浙江省)
甯波のメンストリートと云へば大きいが、實は田舍の三四流町、吳服屋、紙屋、傘屋と云つた商店の軒先に支那流のケバ(ケバ)しい看板のないのも他所の國のやうだが、白木綿の日除や淺黃色の暖簾、屋上には物干台さへ設けられたところ、何う見ても日本の安旅宿といふ感じである。日本の民家には廂といふ出張りがどこにも附ものだが、此の邊りの家屋にはそれがないのが特色である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●水鄕の廟(浙江省・甯波)
甯波の城内は到るところ水路縦横、小船に依つて交通する。舊い町だけに大路小路の水路には、小さな廟が祭られる。廟のあるところ大抵水上に家根のソリ反つた舞台が建てられて居るのも水鄕らしい一小風景である。祭禮の日奉納芝居に翩翻として舞ふ伶人の姿が絃歌につれて水面に映つて動くのも一しほの眺めであろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●寗波碼頭(浙江省)
甯波の港は古來南支の一大貿易港として殷盛を極めたものである。隋唐時代の日支の國使が相往來したのもこゝ、五百石船に乘り込んで腰にダンビラを提げ、赤褌であばれ廻つた倭寇の姿も、属々此地に於て見出された。 今は上海、香港に壓せられて對外貿易は衰へたが、沿岸貿易港として、殊に上海方面への生魚の供給地として、碼頭に建つ木造の三層樓は今に昔を物語るものである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●氷墻(浙江省・甯波)
日本の東北地方に行くと雪納屋といふものが見られる。土中に穴を掘つて藁で屋根を覆ふた中に雪を格納して置いて夏季の冷却用に保存される。甯波の郊外甬江の兩岸にも之れに似た氷を貯藏する氷墻が幾つも建つて居る。魚類の集散地である甯波としてはなくてならぬ設備であろう、冬期附近の水田や水溜りに張りつめた僅かに厚さ二三寸の氷を取入れて貯藏するのである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●水鄕点景(浙江省・錢塘江)
江南には河川湖沼が多い、到るところ水郷風景を点綴する。浙江省の中心を縦斷する錢塘江の兩岸に斷續する大小の部落都邑には、水に生きる人生の種々相が展開する。 彼方の水神の森に祠られた廟の下には夏の日に午睡をしたやうな民船が横はる。油蟬の聲が水聲の淙々とハーモナイズして夏日の長きに倦む閑寂の境地だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●蘭谿[ランチイ](浙江省・錢塘江)
西流する東陽江と北流する衢江と錢塘江に注ぐところに蘭谿の町がある。浙省西南部の一大都邑で杭州から上游約四〇〇支里の地点にある。往年長髪賊の亂に全部見る影もなきまで戰禍に見舞はれたが、その後漸く恢復して今日を見るに至つた。それ以來此地の商權は多く他省人に掌握せられて了つたと言はれる。城東の大雲山上に覽勝亭の名地がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●桐廬[トンロウ](浙江省・錢塘江)
桐廬は錢塘江の中流天目溪の會流点にある都邑で、杭州から此の地まで川蒸滊船の溯航が可能であるため相當繁榮して居る。 桐廬の地はもと山嶮しく水迫つて山紫水明の境ではあるが、山谷の地形狹くして且磽确である。從つて此地の産物は蠶糸製漆の業が盛んである以外他に見るべきものがない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●東陽江の竹筏(浙江省・錢塘江)
蘭谿で錢塘江に會流する東陽江は水淺くして船航に不便であることから、金華方面からの交通は主として竹筏が用ゐられる。舳先の方の彎曲した竹材を巧みに編んで造られた筏は可なりの積載量を有する。棹一本で渡世する筏夫達は竹の皮のアンペラを引廻はして此の上で生活をする。荷物は上江は雜貨、下江には火腿を積む。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●雲海(湖南省・南岳)
南岳の壯美は雲海の景観につきる。湘江平原に盤屈する衡山連峯の崔嵬たる姿が、天風の一虛に峽谷から湧き起る雲霞に包み隱されて、倐忽の間に天涯万里の雲海と化する。 天上の烈日と雲層に障ぎられたる下界の薄明とは、波濤の如く起伏する雲海を境として千變万化する光景は、蓋し登高の行者にのみ許されたる特權である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●南岳七十二峯(湖南省・南岳)
南岳七十二峯の中最も高きを祝融峯といふ。標高四千五六百尺、之を廻つて天柱、紫葢、石廩、芙蓉の各峯と併せて南岳の五峯と稱し、古來崇敬の中心となつて居る。敢江て高峻摩天の姿はないが、群峯の蓮亘する範圍數百里に連なる。遠く望めば潚湘の水北に流れて、紫紺の山色美しく、近く白雲の搖曳する峽谷の寺觀からは、碧霞の中に木魚打鐘の聲を聞く。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●望日台(湖南省・南岳)
祝融峯の山頂に望日台がある。前夜祝融寺の宿坊に泊つた登山者は必ず早曉此の台から朝暾を拝するのが山のならはしとなつて居る。東方前面の朝日峯は丁度此の山から登ぼつて來るのでその名がある。遙かに山下の平原に白龍の如く逶迤として見ゆるのは湘江の水である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●山中の農家(湖南省・南岳)
紅米[ホンミイ]を作る谷間の水田は南岳風景の特殊なものゝ一つだ。此方の峯と彼方の峯に圍まれた盆地には山の勾配を適當に利用して不正形な耕地が作られる。それが一つ(一つ)水を湛江られて、あちらこちらに浮き出して見ゆる光景は奇觀である。月夜山上より眺望すれば、數千百の田毎の月が此の水面に浮ぶことであらう。 湘江の水である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●苗とり(湖南省)
山中の水田耕作は大抵山麓の農家が稼行して居るもので、山中餘り農家の部落を見ない。年二回収穫する紅米の植付は二三月と五六月に行はれる。麓の村の苗田に出來た早苗は、かくて採取されて山の田に運ばれる。不恰好な籠のやうな上半身を覆ふ編み笠の異樣な姿も珍しいが、雨にも陽にも之れなれば眞箇に役に立つ、頭だけに被る三度笠よりは合理的だといふものである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●念菴松(湖南省・南岳)
祝融寺の奥の殿に參詣する善男善女は數里に渉る石階を拾つて山路を辿ると、樹木の少ない山上に數株の翠の松の老樹を見る。念菴松と呼ぶ。路傍に立てられた高い竿には夜な(夜な)燈明が灯される、最高祝融峯への目じるしである。念菴松から谿谷へ下ると觀音洞の名所がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●山中の水田(湖南省・南岳)
高峯に登つて晴れたる日の南岳の鳥瞰は可なり壯觀である。峯巒重疊の山波は目もはるに四方に展開して峽谷の間には上から下へ段ダラの水田が日の光を映發して鏡の面のやうに美しい。之れは紅米を作る水田で年二回の収穫をする。山中の水田は南面した谷間を利用して可なり奥深く耕作されて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●南岳廟の石坊(湖南省・南岳)
南岳の登り口に南岳廟を中心として御坊町が立列ぶ。その入口に建てられた石坊は赤に靑に美しい極彩色が施される。町の兩側には土産ものの珠數や泥人形や線香の類を賣つて居る。如何にも寺で食つて居るといふつゝましやかな町だ。 町を通り抜けると突當りが方廟の大殿堂で、今でも參詣者は絕江ない。奥の殿祝融峯への登山路には石段が長く續いて途中南天門、勅建上封寺の諸寺を經て山頂に達する。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●南岳本廟(湖南省・南岳)
支那五岳の一、東に泰山、西に華山、南に衡山、北に恒山、中央に蒿山がある。所謂衡山は即ち南岳を指すもので、堯舜以來天下の鎭として歷代皇帝の祭祀を奉じた名山である。 南岳本廟は山麓にあつて宋代の建立と傳へられるが明かでない。壯麗雄大なる古建築で支那でも屈指の寺廟である。南岳には今でもナマグサ坊子は餘り居ないその戒律的訓練の嚴格なことに於ては支那随一である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●平和さうな麓の村(湖南省・南岳)
湖南省は南岳を省立公園にする計劃で、山麓の御坊街に公園局など設置して居たが、今度の共匪事件で此の村も荒されなかつたか。カメラ子が此地方を通過した頃も既に江西省境を脅かして居た匪賊は官道に出沒して居るので間道を廻つて漸く逃れたが、南岳下山後數日にして反革軍に占領されたと聞いた。其後長沙の共匪襲來を聞くにつけ、今更らに吾等の撮影旅行の危險さを思出される。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●洞庭湖(湖南省)
岳州寄りの洞庭湖上の名勝地君山は、古來傳説の多い小島である。遠く湖岸の微翠模糊として煙るところ波間民船の去來を望む景色は美しい。君山は一名湘山とも云つて居る。山上娥皇女英の二妃を祀る。蓋し堯の女にして舜の妃である。古來君山茶と稱する紅茶を産し、また方竹班竹を産するので有名である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●長沙(湖南省)
長沙は湘江の沿岸にある湘南の首都、粤漢線中漢口に次ぐ大驛である。もと人口五十萬を抱容する城廓都市であつたが、國民革命後城壁を撤去して近代的に攺造された。河中の三角州は對岸の商埠地と共に各國人の居留して居るところで、水上には常に日英米の警備艦が浮んで居る。古來水利陸運の便を借りて長江の心臟武漢に近い土地柄だけに、擾亂に禍されることが多い。過般共匪のために全市が燒打に遭つたといふのは寫眞の中央部である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●天心閣(湖南省・長沙)
明代に造られた天文台の遺跡である。長沙城壁の東南隅にあつたものであるが、今日は城壁を壞はして市區改正を行つた結果取り殘されて遊覽場に利用されて居る。長沙市中第一の高閣で全市を双眸の中に眺められる新しい名所だ。境内に岳飛の文字なりと稱する石刻がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●長沙の街(湖南省)
共匪に禍された長沙のメインストリート、街幅が狹くつて如何にもせゝこましい感じを與へるが、一面充實した古い繁榮の歴史を物語る。湖南省は北に洞庭の水に依つて揚子江流域の諸勢力に觸れ、南境は廣東、廣西の革命熱に刺激されて人心自ら激越である、由來長沙は敎育機關の發達した新思想の盛な土地であるだけ今度の共産の赤賊に禍されたのも或は民情の然らしめたものであらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●物々しい標語處(湖南省・長沙)
市中公安局の門前に標語處と稱する揭示場がある。宣傳好な支那人は何かと云へば標語を作る、曾つては排日、排英、討馮、倒閻と標語は次ぎ(つぎ)に繪入色刷で張り出された。カメラ子の此の地を訪れた頃は切りに共産黨の襲來について警戒を與へられて居た。旬日を出でずして共匪亦賊の犠牲となつた長沙市民は、此寫眞を見て何んと考へるであらうか。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●汨羅水(湖南省)
粤漢鐵道の汨羅站に近く昔屈原の入水したと傳へらるゝ汨羅江がある。湖東平野を逶迤として流れて洞庭湖に入る汨水が、江岸遠く白沙綠蔭を作つて水色の飽まで淸きを眺むるものは、今さらに屈原が離騒の詩意を解するであらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●岳麓山(湖南省・長沙)
南岳七十二峯の一である岳麓山の勝地は長沙の對岸約四支里にある。喬松楓樹の鬱蒼として泉澗渓流の盤繞するところ、錦繍を彩どる秋の景色は最も好い。 文廟の前に湛江られた池中の亭は吹香亭と名づけられて宋代の創建で、ソリのある屋根の姿が淸冽の水にその影を映して居る景色は如何にも美はしい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●岳麓書院(湖南省・長沙)
岳麓は樹林澗泉の美しいところで、山下に宋時代の遺跡として有名な岳麓書院がある。今日は湖南大學になつて居る。門壁に宋の鴻儒朱文公の筆になる忠孝節義の大文字を刻したるものや學界の至寳なる唐の李北海の古碑、その他貴重なるものを藏して居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●賈太傅故宅(湖南省・長沙)
長沙には古い建物が保存されて居るもの一二に止まらぬ。賈太傅宅などその一である。賈誼は漢の長沙王吳苪の太傅にして名儒だ。漢代のものとは思はれぬが建築の樣式がその當時の面影を止むるに足るもので、蒼古たる色は掬すべきものがある。邸内一個の井戸がある、誼の穿つところなりと傳はる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●湘潭(湖南省)
湘潭は湘江上流の開市場で長沙より遡ること尚ほ百支里、日淸汽船の終航地點である。人口約三十万、以前は兩廣地方との交易の要路であつたが、鐵道が出來てからはその繁榮は長沙に奪はれた形である。 古來湘潭には七大幇と稱するものがあつて各地の商人が組合を作つて、各々商權を擁護して地方的色彩を發揮したものであるが、今日はその勢力も衰へた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●袁州城外の舟橋(江西省)
袁江の水が東から西へ流れるところに面白き恰構の舟橋がある。長さ二三間づゝのセクシヨンが鐵鎖に接續されたもので、中央部分が民船の通る毎に取外づされる。 淸末迄は石造の立派な橋が架けられて居たが、攺命以來破壞されたまゝで攺築の力がない程此の地方は擾亂に惱まされて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●玉山の町(江西省)
玉山の町は錦江(信江ともいふ)を距てゝ浙江省界に接して居る。江岸の商家は雨期の出水を慮かり土台を高く築いて家並に石段がある。水淺くして淸く、遠近の楊樹、桐樹の影が水に落して流るゝ風情は靜かだ。人口一万、古來から江西浙江の仲斷交易の要衝である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●袁州(江西省)
袁州城は袁州(秀江とも云ふ)の本流と飛瀑水の支流の會流点にある。如何にもせゝこましい町で、道幅の狹い路面が軒先に覆はれて居る樣な町並は呼吸苦しい程窮屈だ。近年頻々として共匪土匪の來襲に會ふのも悲慘である。古來李覯の袁州學記で有名な州學は今中學校に利用されて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●萍鄕炭礦(江西省)
漢冶萍公司の所屬事業に萍鄕炭礦がある。埋藏量五億噸と稱せらる。光緖二十四年盛宣懷が之れを經營してから盛んになつて、一時は五千の坑夫を使役して一日四千噸の出炭を見たこともあつたが、近時は國内の政變 擾亂に禍ひされてそれ程の事はない。炭質は無煙炭にして硫黃分の少い良質炭で、兩三年前には骸炭製造もして居た。武功山を背景にした萍鄕の街は如何にも炭礦地らしい風景である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●南昌(江西省)
南昌は江西省の首都にして贛江の右岸にある。日本の借款鐵道である南潯線は九江と此地を結ぶ七十哩の鐵路で、その驛站は贛江の對岸にある。 近頃支那中央地方の國民政府の革命的勢力は恐ろしいテンポで進んで居る。城壁は撤去されて中山路の名の下に市區改正はドン(ドン)行はれて、到るところ近代都市が實現されて居る。南昌もその一つだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●婁妃の墓(江西省)
南昌の市中民家の間に殘る。明太祖の子王權の後裔と稱する震濠なるもの南昌王となつて陰かに宗家に謀反す。妃婁氏泣いて之れを諫止すれども聽かず、遂に囚へられて死するや、婁妃は滕王閣上より贛江の流れに投じて殉死した。他人その賢にして烈なる婦人の德を仰いで葬つたのが此の墓である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●南昌の一点景(江西省)
南昌の街は市區攺正に依つて日々舊態を破壞されつゝある。新興支那を表徴するかの如き中山道路の走るところ、嚴めしい公安局の門前に安平作りの草根木皮屋が陣取つて、南昌の近代都市の横顏に皮肉なお化粧を施して居る。南昌は古來南藥と稱して草根木皮の本場だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●南昌の百花園(江西省)
南昌舊城内の東南隅に東湖公園の名所がある。贛江の水を引いて造られた池塘で周廻二哩ばかり、中に小島があつて風致を添へて居る。 島中に亭を設けて中山亭と名けたところ、國民政府らしい。近頃は洋式の珈琲館などといふものが出來てモボモガの類、江畔の樹䕃を徘徊する樣もモダンチヤイナの姿だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●文筆塔(江西省)
袁州城外の水田隴畝の彼方、筆の穗先の型したる塔が中空に立つのが異樣に目を牽く、里人之れを文筆塔と呼んで居る。宋時代のものと傳ふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●表忠塔(江西省)
民國十五年蔣介石の率ゆる北伐軍が南昌に據つて居た孫傳芳の兵と戰ひ兩軍各十余萬の兵を擁して激戰五ヶ月に渉り、遂に蔣の勝に歸して國民革命に一轉機を與へたことは今に尚新たなる記憶である。當時の戰死者二千名のために國民政府は南昌の郊外蓮塔の高地に紀念塔を建てゝ表忠したのが之れだ。鐵筋コンクリートの高さ百尺の高塔、贛江平原を一望の中に収むる景勝の地にある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●大漢陽峯(江西省、廬山)
廬山は峯巒の雄大、谿谷の深邃に於て、その自然美の特長を有するものであろうが、鄱陽湖の水と長江の流れに臨んだ水畔の地形から來る雲霧蒸成は、一段と此の山を生かす。 大漢陽峯は廬山中の最高峯として海抜約四千尺、群峯諸嶽の盟主である。併し此の山の姿は四時白雲の搖曳に閉ざされて、未だその眞面目を現はしたことがない。そこに神秘があり、神仙が生れ、傳説が生ずる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●廬山より眺めた鄱水(江西省)
廬山の東南に鄱陽湖の泓波を湛ふ。湖畔南康の正面に巉巖の壁立するもの、五老峯の大觀がある。山麓白鹿洞の大道を行けば、峯影至るところ緣をなして雲煙の去來する毎に千變萬化する。斷崖の間より眺むる鄱陽の大觀は蓋し天下の絕勝である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●大月山(江西省、廬山)
五老峰の西方、尖鋭の山形、犬牙の組合せたらんが如き姿して特立するものは大月山にして奇勝秀麗である、南に含鄱口の名所がある。含鄱嶺、太乙峯の鞍部にして峻坂削立の狀恰も鄱陽湖に對して呑湖の勢ありと謂はれる。廬山東南部の登り口である。民國七年山麓から此處に到る石階を修築して登山に便した。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●石門澗(江西省、廬山)
石門澗は廬山西部の高峯、天地山と鐵船峯との對峙した谿谷の飛瀑に名づけたもので、その幽邃豪宕の景は他の及ぶところでない。神竜宮、白龍潭、竜頭石、天池の四水が合流して、百數十丈の一大巨巖の直立せる鐵船峯下に至れば、天空より落下し來る飛瀑は、雪と散り、玉と碎けて、壯觀言はん方なし。近頃水力電氣の計劃あるやに聞く。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●廬山(江西省)
雲煙漂茫の廬山は南畫の發祥である。唐宋文華の淵叢として詩人墨客の遺跡が到るところに多い。 張九齡の詩に 萬丈紅泉落 迢々半紫氛 奔飛下雜樹 灑落出重雲 日照虹霓似 天晴風雨間 靈山多秀色 空水共氳■(气の中に田) (印畫の複製を嚴禁す) -
●廬山高石坊(江西省)
天池山への登攀の坂路に、嶮はしく築かれた石階の盡くるところ、苔蒸して蔦蘿の絡らめる石坊の建てるがあり、傍らの大石岩に歐陽修の刻せりと傳はる廬山高詩の磨崖がある。附近文珠台の奇勝に題する詩に、 老夫高臥文珠台 桂杖夜撞靑天閣 撤落星辰滿平野 山僧盡道佛燈來 (印畫の複製を嚴禁す) -
●香爐峯(江西省、廬山)
白樂天、香爐峯下に草堂を營み、その成るの日に於て賦したる詩、 日高睡足猶慵起 小閣重裘不怕寒 遺爰寺泉欹枕聽 香爐峰雪捲簾看 匡廬便是逃名地 司馬仍爲送老官 心泰身寧是歸處 故鄕何獨在長安 (印畫の複製を嚴禁す) -
●暮れゆく廬山(江西省)
秋の日の短きを嘆ずる暇もなく、蒼茫として暮れ行くみ山路のかそけくも靜かなる姿よ。今宵の宿りはまたしても寺坊の夜に秋の聲を聞くことであらう。 雍陶の詩に 窻燈欲滅夜愁生 螢火飛來促織鳴 宿客幾廻眠又起 一溪秋水枕邊聲 (印畫の複製を嚴禁す) -
●天池山(江西省、廬山)
東に佛手崖を控へ、西に白雲峯を望むところに、天池山の崔嵬を見る。附近文珠台、御碑亭、白鹿昇仙台の名勝がある。山上方二丈ばかりの天池ありて、淸泉斷へて涸るゝことなく、流れて山下石門澗の瀑水となる。峰頭遙かに江西の平蕪に網の目の如き水田を俯瞰した大觀は蓋し天下の絕勝であろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●五老嶺(江西省、廬山)
李白 廬山東南五老峯 靑天削出金芙蓉 九江秀色可攬結 吾將此地巢雲松 (印畫の複製を嚴禁す) -
●媳婆塔(江西省廬山)
廬山は唐宋以來老莊儒佛の諸學淵叢の地として支那思想史上興味の深い地である。虎溪の近くに道家の所謂詠眞洞天と稱する太平宮の古趾がある。その後方を老君崖といふ。今は僅かに媳婆塔の廢墟を殘すに止るも尚當時の盛觀を偲ぶに足る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●牯嶺の登山路(江西省廬山)
牯嶺の避暑地開設以來、蓮花洞から山上へと十數支里の山路を石階を刻んで新登山路が造られた。轎上から千仭の斷崖の緣を傳ひ胸つく急阪を峯から傳ふる蜿々たる登山路は谿を渉り林を縫ひ岩蔭にかくれて山上へと續く。挑夫は巧に之れを上下するのである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
牯嶺の避暑地(江西省廬山)
山上に牛の首のやうな石のあるところから牯嶺と呼ぶ。標高三千六百尺、廬山の群峯に圍繞せられて眼下鄱陽の翠波を望む景色は雄大である。山上歐米各國人の別荘千餘を數ふ、廬山一帶の氣候は盛夏と雖も華氏八十度を昇らぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●文珠台(江西省廬山)
廬山の秋は尾花が末に蘭けて文珠台の邊り千紫萬江の錦を織るも近い。會昌破佛の際東林寺の僧が文珠像を此山に隱匿してその難を免かれたといふ以來の名である。王陽明の詩に 昨夜月明峰頂宿 隱々雷聲翻山麓 曉來却問山下人 風雨三更捲茅屋 (印畫の複製を嚴禁す) -
●虎溪(江西省廬山)
烏龍潭から落ちる水が虎溪の淸流となつて、香爐峯下林叢を縫ふところに、西林寺の古塔が山麓の景觀を一つにまとめて美しく建つてゐる。昔慧遠法師、陶淵明、陸修靜の二詩人を送つて溪畔を過ぐれば偶猛虎の放吼に逢ふ、浮世離れた三人呵々大笑して別れてから虎溪三笑の傳説がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●白鹿洞書院(江西省廬山)
五老峯の南麓、樹木鬱蒼たる中に溪流に添ふて書院がある。唐の李渤白鹿を飼つて此の地に悠々自適したるに發端して白鹿洞と名けた。その後此地に國學を興して天下の學生を薫陶したが宋學の四書院の一として有名である。院内の文會堂に朱子の孝俤忠信禮義廉恥の八大字を銘刻した大石がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●仙人洞(江西省廬山)
巉岩奇峭參差として手を廣げたらんが如きは天池山附近の佛手巖である。巖下一洞窟あり、仙人洞と名づく。曾つて周顚仙人の住するところ、明の太祖廬山々中に於て病を得るや仙人の秘法で癒つたといふ傳説がある、今尚ほ道士があつて練金の秘藥をねる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●慧遠禪師塔(江西省廬山)
廬山は晋代佛敎の根本道場で、東林寺の慧遠禪師は白蓮蓮社を組織してその牛耳を取つた。慧遠の戒律は非常に嚴格なもので後世を統ゆるに足る勢力を有して居た。八十三歳の高齡を以て入寂したが印度の塔婆を型取つて之れに葬つた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●海會寺(江西省廬山)
五老峯の奇勝を背景にした海會寺の僧院は幽𨗉である。廬山五大叢林の一にして、寺内に僧普超掌が十五年を費して血書したと稱する華嚴經八十一巻の藏經閣がある。松林の間から鄱陽湖の水を隱見するのも明快な景色だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●蓮花洞登山口(江西省廬山)
九江より自動車十三哩にして峽谷の部落蓮花洞に達する。こゝから轎子に乘つて登山するのであるが、夏季の最盛期には外人避暑客が殺到する。山莊の生活に必要なる物資は皆この地から運ぶので、挑夫等唯一の書入れ時である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●モダン漢口(湖北省)
南方支那の主要都市には到るところ中山紀念道路として素晴しく立派にアスフアルトの大道が築かれて居る。そこには最早昔乍らの城壁が影を沒し、カビ臭い隘路の支那街は姿を消して、モダンな堂々たる建築物を兩側に控へたブロードウエーが出現する。漢口も三年前と今とを較べれば桑田變じて碧海となる程の變り方だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●武漢三鎭(湖北省)
長江と漢水を挾んで相對する武漢の三鎭は三都にして實は一所だ。漢陽の街は鐵廠の林立する煙筒や江岸に建つクレーンの姿は如何にも工業都市らしい。左方煤煙に模湖たるは漢口で、河を距てた向岸は武昌である。漢口の商業都市たるに對し、武昌の政治都市もよきコントラストであるが、武漢を制するは支那を制する所以も亦自からうなづかれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●黃鶴樓趾を望む(湖北省・武昌)
河を距てたる對岸の丘陵は謂ふ迄もなく武昌の黃鶴樓趾である。長江を挾んで漢陽の大別山に對し左方漢口の市街を望んだところ實に雄大な景觀である。崔灝が黃鶴樓の詩に「昔人己乘白雲去 黃鶴一去不復返」といふ句がある。長髪賊の亂に烏有に歸した此の樓閣のための挽歌であつた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●漢陽城趾(湖北省)
漢陽の古都は歷史を溯れば禹の時代に及ぶ。滅滿興漢の旗幟をかゝげて辛亥革命の烽火を上げたときには黃興が此の地に據つて北洋軍と戰つた。此城壁はその當時の名殘をとゞむるもの、革命の裏には此の廢墟がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●黃鵠山下の萬年燈(湖北省・武昌)
長江を上下する船客は武昌に近く此の白塔を望むであらう。黃鶴樓下の萬年燈と稱し、高さ三丈に餘り大理石造である。元の威順王の太子の墓なりと傳ふ。此所より江水を距てゝ漢陽を望めば 晴川歷々漢陽樹 芳草萋々鸚鵡洲 日暮鄕關何處是 煙波江上使人愁 の感に堪江ない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●武昌の大路(湖北省)
武昌は兩湖總督張之洞が新文化の淵叢地であつた。と同時に又辛亥革命の發祥地として黎元洪の名と共に日本にも因緣の淺からぬ土地である。昌街は武昌目拔の大路で靑天白日旗を揭ぐる今日となつても尚舊支那の面影を傳へて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●革命紀念堂(湖北省・武昌)
武昌城外十支里にして洪山の名所がある。山上寳通寺の寳塔は古來有名なものであるが、今は塔下に建てられた革命紀念堂にその名を讓つた形である。古式を取入れた建築物で孫文の靈と革命志士を祀る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●漢口バンド(湖北省)
漢水が長江に合するところ北岸に漢口のバンドがある。對岸の武昌、漢陽の二都を併せて古來武漢の三鎭と稱し九省の會と呼ばるゝ程水陸の要衝である。一八六〇年租界開設以來長足の進歩を示して東洋のシカゴの名がある。北は平漢鐵路に依りて北平に通じ、南は粤漢鐵道に依りて長沙、萍鄕に通じ、やがて廣東に達するの日も近いであろう。人口八十萬上海大連に次いでの大貿易港である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●漢陽鐵廠(湖北省)
漢陽大別山下に展開する煙突群によつて取圍まれたるモダン工場は漢冶萍公司の一事業である漢陽鐵廠である。一時は四基の熔礦爐に依つて、銑、鋼の年産額二十萬屯から製出されたが近來は戰亂と政變に禍されて全く荒廢に歸して居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●中山公園(湖北省・漢口)
國民政府の成立後、支那各地には人間の頭が三民主義に變ろうが變るまいがそんな事には頓着なく、孫中山の紀念事業として度偉い道路と公園とが到るところに出来た。それは國民へのデモンストレーシヨンでもあり、訓政期の威壓でもあつた。 日曜日の公園にはモボモガも居るかと見れば纏足の奶々も交つて、新装の支那の橫顔を見せながら、泰平の民の如く嬉々として遊ぶ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●長江を望む(石鐘山)(江西省)
深潭に臨んで微風浪に鼓すれば、水石相搏つて洪鐘の如き響があると傳へられる石鐘山は、南廬山を仰ぎ北長江の流れを望んで雄渾なる景觀だ。山上の廟閣榭亭の趣また頗る古雅なものがある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鄱陽湖口(江西省)
九江の下游四十支里にして鄱陽湖の水が長江に注ぐところ湖口縣の一都邑がある。北に長江の大觀を控へ湖畔に聳江る五老峯を背景として眺望頗る雄大である古來軍事上要害の地として重きをなし、今でも長江艦隊の中國砲艦が一二隻常泊してゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●石鐘山(江西省)
湖口縣城の北に石鐘山の勝景がある。江中に瀕峙したる丘陵が城壁の延長に取りまかれて、黝瓦白壁の寺廟が江水に倒影するところ蒼古として美しい。廬山の奇峭鄱陽湖の優麗と對照して、張治の詩に 廬山高々翠萬里 縣泉千尺挂飛龍 石鐘山下江如鏡 映出靑天五老峯 (印畫の複製を嚴禁す) -
●坯房の内部(江西省・景德鎭)
景德鎭燒の土法は淘泥(原料土を捏ねて軟かにする)做坯(ロクロで原土から素型を作る)印坯(整形)利坯(蔭乾にした素型を更にロクロにかける)上釉(上藥を塗る)五段の作業に分れる。 軒先の長い坯房の中には陶工の手心一つで轆轤の廻り次第に型とり(どり)の瓶盃盤器の類が創り出されて乾燥棚の上に列べられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●九江人形(江西省)
九江人形は支那の家庭には装飾用の置物として一つや二つは必ず室内に飾られて居るが、近來は外人邊りからも愛玩される。これを製作する陶工は安物の食器類を作るのとは異り相當な藝術的プライドを以て居つて自分の製作品には銘を刻する習慣がある。隘路の薄暗い店先で羊皮の上に上繪の彩筆を握る彼等もたしかに藝術家に相違ない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●藍摺り(江西省・景德鎭)
九江燒の上繪に使用する顏料は從來南昌地方から産したもので法翠、松綠、磯紅、牙黃、稻靑等の種類がある。併し近來は可なり外國製顏料の輸入されるもの鮮くない。うす暗い小屋の片隅で藍摺りの仕事も景德鎭にはなくてはならぬ一風景である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●燒窰(江西省・景德鎭)
燒窰には柴窰と草窰の二種がある。柴窰とは大型窰で松薪を燃料とし、草窰は雜木雜草を使用する小窰型である。耐火煉瓦で築き上げ窰内約二十疊敷、高さ四間餘にも及ぶ。素陶を匣鉢に容れて窰の中に入れ。火入れ後三日目に開窰して匣鉢から取出す。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●長江の筏(江西省)
楊子江《揚子江》の夏季謂ゆる增水期を利用して、長江特有の大筏が湖南の洞庭湖と江西の鄱陽湖方面から下つて來る。長江筋では木牌と稱して居るが、その大きいものは橫幅七八間、長さ一町に及び、筏の上には數十戸のアンペラ張りの小屋がかりで筏夫の家族が鷄や豚を飼ひ乍ら一小部落を成して流れ行く態は奇觀である。 一筏數千元南京や上海方面で猫の子一匹殘さず賣拂はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●筏索の轆轤巻き(江西省)
筏の舳先には竹竿高く赤の三角旗が翻げへる。艫部のアンぺラ小屋には異樣な提灯がブラ下り、丸太の柱には紅紙に書かれた吉祥文句が貼り付けられる。こゝは竹索を轆轤巻きする機關部といつた形だ。竹で編まれた數十丈のロープは筏の繫留用にはなくてならぬ道具である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●景德鎭(江西省)
九江燒として名を得た景德鎭は現在支那随一のものである。昌江のほとり數百本の煙突から上がる黒煙に空一杯をぼかした有樣は如何にも窯業地らしい人口五萬何れも陶器製作で生活する。此地の窯業は宋代に創り明淸を經て發達し康熈乾隆時代にその盛を極めた。現在は共匪の變亂に災されて衰運の徴がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
長江スナップ(江西省)
西空の雲間より落ちた夕陽の日足が、長江の流れに碎けて銀鱗をたゞよわしたやうな水面に、ヒヨツコリと帆船が浮ぶ。南京の下流江幅一千米餘。廣漠として水天に連らなる長江の大景を掴かんだスナツプの一つではある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●甘棠湖(江西省、九江)
九江城外にあり、周廻四哩に餘り湖面に廬山の秀峯を倒映し、中央の長堤に垂柳煙り、城内能仁寺の高塔美しい影を浮べて居る。今は上海、漢口間の旅客航空路が開始以來九江着水場として毎日煙波標茫の湖上に銀翼の飛行機が着水するのもモダンな風景である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●九江(江西省)
九江は潯陽の故地にして江西省唯一の開市場である南昌、九江間七十哩の南潯鐵道は省中部地方の物資を輸送して長江の水路と結ぶ。同治年間英國は此處に租界を設けて以來外國貿易にも相當の繁榮を來たし景德鎭の陶器も海外に紹介されたものであるが、先年漢口事件後英租界は撤回された。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●南康の衙門(江西省)
近頃のモダン支那には珍しい縣衙門風景である。南康は昔乍らの舊學府白鹿書院の所在地として有名である土地柄だけの特色はある。嚴めしい樓門の前には幾つかの石坊が建つて中門、正門の兩側に立ち列ぶ平屋にも封建の臭がある。併し各部屋の入口に見る三民主義の標語には新しい時の歩みを示す。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●潯陽江頭(江西省)
昔の潯陽江は今は龍開河と云つて居る。白樂天が貶謫されて江州の司馬となつて此地に居た頃、一夜客を送つて河上に浮ぶと、隣りの船から切々たる琵琶の聲が聞江て來るのに詩興油然として湧き、有名な琵琶行を作した。今は四ツ手網の漁師に當時の面影を尋ねるよしもない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●長江の漁撈(江西省)
減水期の長江は愈々黃褐色を帶びて水は濁る。洋々たる江上に大罩網を舳に取つけたる小船が漁撈して居る。長江の魚類は鮭、鮒、鮠魚、鯰等多種の淡水魚を産する。時に二三尺もある巨鱗が網中に躍る。江岸の土民は大抵半農半漁の生活をして居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●共匪を見張る兵隊(江西省)
これは呑氣な兵隊さん 日傘をさす程色男 だてにかゝ江た鐵砲の 打ちかた知らねど耻ぢやない 何をくよ(くよ)土堤の上 立つた歩哨が欠伸して 交替時間が待遠し 城内の女が戀しいな (印畫の複製を嚴禁す) -
●南康城内(江西省)
西北に廬山を仰ぎ、南東は鄱陽湖の水に臨んだ南康の街は古來山紫水明の地として名高い。夏季廬山の避暑客を送迎するのが町の生命で今は昔ほどの繁榮もなく亡び行く封建都市の殘骸をとゞめるに過ぎない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●民家の竈(江西省)
支那中部地方の民家にはどこでも立派な竈が取りつけられる。三疊敷もあろうかと思はれる大きな漆喰塗りで三ツ四ツの大鍋が架けられる。その上部の壁には必ず竈神を祭る。支那では臘月の二十三日此のカマドの神様が上天して家人の善惡を上帝に告げると信じて飴を供へて祀る習慣がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●九江の陶器商(江西省)
景德鎭で製作される陶器は九江がその集散市場になつて居る。一般には九江燒とさへ言はれる程此の土地と陶器とは緣が深い。江岸の大通りから全市の重なる商店は總て燒物で埋められて居る。毎年九江より各地に移出される陶磁器の額は五百万元と稱せられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●芝罘港
渤海灣をめぐる四港の一で、支那では煙台と稱して居る。住昔倭寇が山東沿岸を荒掠した當時、狼煙台を設けて防備したところがら起源する。對岸遼東の各地とは戎克貿易に依つて密接の關係を有する。都城内外の人口十万、レース、ヘイアネツト、絹紬の特種工場と共に葡萄酒釀造で有名である。毎年夏季アメリカの東洋艦隊が來舶して殷盛を極めるのも此地の一情景である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●山東角燈台
山東半島東北部最端の突角に建つ。遠く黃海に出張つて朝鮮半島とは最短距離の地点、内地大連間の定期船で一番早く呼びかける支那大陸への視影は此の岬角である。 燈台建設以來七十余年を經過し、海關の管理するところ、白人の燈台守が常置されて居る。霧多く風波常に高い航海の難所だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●渤海灣頭
北支那海を航行するものに魔の海のやうに恐れられる山東角突端の海のスナツプ。激流渦巻き湧いて潮騒の音もの凄ぐ、遠く渤海の岸を洗ふところ、時に石島の燈台から霧的信號を聞く。漢の武帝の誌に大風吹起渤海波の句があるのもさこそと思はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●碾臼の街
山東は古い土地だけに到るところ民族の生活史跡が遺存される。碾臼は紡き車と共に吾々の祖先の經濟生活を物語る最もなつかしき古董物でなければならぬ。 城壁に圍まれた街衢の道路が碾臼の廢物に依つて■(石に甫)裝されて居るなどは噺話の國を思はせるもの、古い萊州の街はその■(石に甫)道の碾臼に於て自らその歷史を物語るものである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●登州の水城
遼東の突角から廟島列島を布石傳へに山東に渡れば登州府である。旅順とは一葦帶水の地、蓬萊とも稱し古來から遼東方面への最捷徑路である。蓬萊山下潮水を利用して築造された水城がある、明朝時代海軍の根據地にして高麗並に倭寇の防備に築かれたもの往昔水門上に樓閣の參差たる壯觀を偲ぶに足る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●牟平城外
露天市は支那蒙古何れの地にも現存するが、山東の市日は特に有名なものである。牟平の邑は張宗昌の沒落後、今では劉珍年軍の根據地ではあるが封建の歷史を物語るかの加き城壁を背景として、淺黃色の農民の群が、驢馬の背に荷物を積んだその姿の如何に原始的であるかよ。露天市の光景はたしかに現實の支那の一斷面を描くものでなければならぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●萊州城
掖縣は昔の萊州で煙濰自動車路の中間都邑である、古い都城だけに頗る整つた感じのする邑で、目貫の大通りには代々の官吏を頌德した石碑が立列ぶ景色は如何にも古雅である。 縣城の東北渤海の濱に萬里沙と稱する沙場がある。その長さ三百支里に及ぶ。秦の始皇東巡の故趾である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●風旗子
山東の海岸を旅したものは、誰れでもが民船發着場の空に龍王の型した赤い細旗が風になびいて居るのを見るであろう。それは風旗子といつて風の方向を表示するもので、水神の迷信と絡みついて運船業者には懷かしい思出を與へる。戎克の帆柱の頭に取附けられるのも此の風旗子である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●娘々尾
舊歷二月二日は龍抬節といつて龍王廟のお祭りだ。山東角一帶の地方では此の日娘々尾と稱するタブー(護符)を小兒、牛、馬、犬等に着けさせる。赤、靑、白の色紙や布片を丸形に切り、玉蜀黍か或はその他の穀粒を炒りはじかせて紐に通したものである。一年中の病氣や虫害からのがれると信ぜられて居る。此の地方特有の土俗らしい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●威海衛劉公島
英國が久しい間無用の長物の如く租借して居た威海衛を、漸く支那に返還(一九三〇年)してから今は張學良の東北海軍の管理に屬して居るが特別な施設も見ない。日淸戰爭當時支那北洋艦隊の根據地たりし頃、獨人顧問ハンネツケンの施設が舊態尚ほ依然として居る。海軍棧橋に貧弱な東北海軍の軍艦が、一艘シヨンボリと繫がれて居るのも昔の夢を見て居る樣な心持である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
牟平縣城(山東省)
山東には到るところ城壁で圍まれた舊都城市が在る。牟平もその一つで芝罘、威海衛の中間にあつて往昔寧海州城と稱した。縣城の規模割合に宏壯なるところから、先年來劉珍年の根據地となり、張宗昌の盛んなりし頃は常に對峙して兵禍を蒙つた。今は靑天白旗の下に安平であるが、割合に古い封建的氣分の濃厚さを印象される。 (印畫の複製を嚴禁す) -
養馬島(山東省)
牟平縣城の北十支里の海中に養馬島といふのがある。瓢箪形の島で東西十二支里、南北僅かに二支里、島中十三箇村に分かれ、二千の住民は半漁半農の生活をして居る。昔揚子江方面と天津との戎克貿易は中途此の島を碇泊地としてもので、煙臺の發展以前には相當繁榮を見たものであつた。島人には今も海運業に從事して居るものが鮮くない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
石島(山東省)
山東半島の東南角に石島の部落がある。東方の海中に■(鐏の寸が大)鎯島と稱する自然の一大防波堤が橫はつて港灣を形造つて居るが、水淺くして僅かに民船の碇泊地たるに過ぎない。 石島は戸數五六百、殆んど漁業を以て生計し、年額二百萬元からの水揚がある。土地柄岩石多く石材の産地だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
括網の打印(山東省・榮城灣)
漁村は舊正月が濟むとソロ(ソロ)出漁準備にとりかゝる、どこへ行つても納屋から引出された網は軒先一杯に擴げられて日の目に乾かす。破れが修理されて澁の塗り上げが終ると打印といふものをして自家用の記號を捺す。記號には總て吉祥語を擇ぶのが習慣だ。括網は日本の地引網のやうなものである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
山東白菜(山東省・芝罘)
山東は苦力と白菜の産地だ。秋から冬にかけて芝罘や靑島あたりの碼頭は常に白菜の山を見る。彼の白哲の結球をした乙女の柔肌のやうに水々しく美しい白菜は、山東の赭土に栽培されて、驢馬の背から戎克に積み移されて滿洲に來るのも、苦力と同じ運命にあるかに見える。而して吾々の臺所の隅に白菜の轉がつてゐる姿は、野菜の缺乏してゐる冬に取つては喜ばしいものであらねばならぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
小蓬萊(山東省・芝罘)
煙臺の各所に小蓬萊と稱する景勝地がある。市の西南臺地毓璜頂に天后宮を祭る寺觀であるが、鬱蒼たる樹林の間に奇巖怪石を布置し牌樓、鐘樓等小規模乍ら纏つた景色である。蓋し登州の蓬萊閣に因んで命名したものであらう。山上から煙臺の全市街を望み、海中遙かに崆嵱島煙臺山を眺めた風景は絕佳だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
福山縣城(山東省)
福山縣城は小さい乍ら古い城市で、漢代旣に記錄に存して居るだけ、城内には古い樹木が多く、文廟の牌樓にも何處か古雅な所がある。葡萄、苹果、梨等果物の産地で芝罘を經由して南北支那の各地へ輸送される。煙臺との距離四十支里乘合自動車の便がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
蓬萊閣(山東省)
登州の水城北隅に屹立した巉岩數十丈の懸崖上に蓬萊閣の古名勝がある。海中より之れを眺むれば碧楹丹壁の樓閣、空中に浮べるが如く、境内望日樓、鏡石亭、避風亭、賓日樓等高低參差として、如何にも蓬萊の美觀を呈して居る、漢の武帝東海に蓬萊を夢みて此の地に築城したとの傳説はあるが、現存のものは明代の築造を基礎としたものである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
春近き漁村(山東省・榮城灣)
漁村の冬は森閑として春待ち顏である。山東角の海岸には到るところ石造茅屋の漁家が群落をなして居る。海草で葺いた急角度の屋根が、寂光に輝くところに、網する漁師の姿は長閑である。日に乾す括網に澁塗る準備も旣に整へて、水溫む春の出漁も早や近づいたらしい。(印畫の複製を嚴禁す) -
芝罘市街(山東省)
煙台よりも芝罘の名で通つて居る此の地は靑島出現以前は山東の唯一貿易港であつた。街並にも何處か居留地臭ひ趣味が漂ふて人間もスマートに見える、煙台山上には各國の領事館があつて芝罘灣を一望の中に俯瞰して居る。毎年夏季には米國の東洋艦隊か避暑に來航するので、朝陽街邊りはバーやレストランで賑ふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●捕鯨砲
(南滿・長山列島) 捕鯨船の軸部に取付けられた大砲の筒先には銛の穗先が怪しくも光る。海洋島の根據地を出發した捕鯨船は一直線に朝鮮沖の漁場へと急ぐ。大海原の波間に端なくも潮吹く鯨の黑影を見出すや否やズドンと打出された銛が岩のやうな鯨體に當つて、結び付けられた何百尋のロープが海中にたぐり込まれて、鯨の死體が浮び上る迄甲板上はさながらの戰場である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●捕鯨船
(南滿・長山列島) 春四五月頃になれば海流の關係から黃海に出沒する鯨群の捕獲が開始される。八百噸の捕鯨船の根據地である海洋島の島かげには袋のやうな小港灣がある。そこには季節時には捕鯨工場の浦山つたいひに、絃歌のさんざめく船員相手の怪しげな飮食店さへ開かれて、島の景氣を賑やかにする。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●捕鯨船の司令塔(南滿・長山列島)
捕鯨船の檣上に設けられた司令塔には、幾十年潮風に錬へ上げられたやうな船長の偉かつい姿が、爽壯として白波を蹴つて立つ。彼の視線は遠く水平線の彼方にその獲ものの所在を見極めなければ止まない。巨鯨の潮吹く姿を見出した瞬間の彼の緊張さを見よ!司令塔からの命令の一下に動く砲手は大抵ノルウエー人だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●捕鯨作業場(南滿・長山列島)
海洋島の小海灣に面したバラツク建の作業場は、捕鯨船が獲物の合圖にけたゝましい汽笛を鳴らして入港して來ると、陸でも早やボイラーに火が入つて作業準備が整ふ、やがて船よりも大きい位の巨鯨の體軀がウインチに引き揚げられて俎板代りの棧橋に仰向けに横へられると一時間を俟たずに解體されて了ふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●解體(滿洲・長山列島)
ボイラー室から吐き出される白煙の蒸汽は忙しさうに切りに呼吸を續ける每に、ウインチの音、人の聲、靴の音の錯綜した交響樂の中に巨鯨の腹部は口邊から尾端まで一直線に立割れて、白臘のやうな脂肪皮は美しい線條を描いて左右に開扉される。軈て臟腑が取去られ、肉が切取られ、骨骸が鋸引にされると山のやうな鯨形は悉かり解體を終る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●海洋島海岸(滿洲・長山列島)
海洋島は東洋捕鯨會社の根據地であるばかりでなく、島民は殆んど海産に依つてその生活を營んで居る。初春平目の漁を手始めに蝦、鯛の漁季には捕鯨期節と共に最も島民の潤ふ時である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●海洋島(南滿・長山列島)
關東州半島の東側黃海寄りの海岸線に近く、長山列島や海洋島の群島が海中に羅布する。昔朝鮮半島傳ひに遼東を襲ふた倭寇も恐らく此の島傳ひに來たものであらう。海洋島は今は黃海を遊戈する捕鯨船の根據地となつて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●大長山四塊石屯(南滿・長山列島)
貔子窩の南方十六浬の海上に在る島嶼で、四塊石屯は此の島の中心部落である。大日本鹽業會社の貯鹽場があつて海濱常に戎克の淀舶に賑つて居る。遙かに見ゆる半拉山への海岸は遠淺にして干潮時蜆貝の採集が盛んである、また海鼠の産地として島民の生活の資たる所多い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●大長山戰跡記念碑(南滿・長山列島)
日露戰爭の際我が海軍の根據地として大長山島は重要な役割をつとめた。四塊石の南方南路砣子の丘上高く戰跡記念碑が樹つ。戰時列島周圍の海上に材木を聯結して敵艦の潜入に備へたと傳へられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●海洋島斷崖(南滿・長山列島)
大連から毎月二回定期船が通ふて、海洋島、大小長山列島、貔子窟の各地を巡航する。島の地勢は南岸に於て斷岸絕壁の箇所多く碧潭深淵に臨んで巉巖の聳立する態もの凄い景色である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●平和記念塔(上海)
黃浦江パンドの南端に女神の立像を安置した、平和記念塔がある。歐洲大戰の終局に於て在滬各國民の發起で建造されたものである。 各國利權爭覇の國際市場に風雲を宿して雨となるか風となるか、支那人の自覺が大きな衝動に動かされる毎に女神は一喜一憂に惱む。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●上海港(一)(上海)
八十餘年前迄は黃浦江岸の一漁村部落にしか過ぎなかつた上海が、今に三十億の貿易年額を算する支那第一の商埠頭にならうとは、誰れもが夢想だもしないところであつた。大上海の人口二百四十萬、二十數箇國の異國民族を包して支那四百餘洲の表玄關を承つて居る上海港は偉大である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●上海港(二)(上海)
パンドと名くる一帶の江岸は上海港の中樞をなすべきオフイス街である。大厦高樓を連ねたその偉觀は半面に國際競爭場裡に於ける列國威力の現勢を物語る。浦東方面は所謂工業地區で無數の紡績工場を始め幾多の工場の建て列らなる態は正に大上海の橫顏である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●上海河南路(上海)
舊英租界内に何時頃からか蟠つた支那商店街の物凄い殷賑ぶりは全く赤毛布連を壓倒させずには置かない。赤と靑の原色交りの廣告旗は街頭の中空を覆ふて晝尚暗い光景、その間から支那特有のジヤズが賣出し宣傳の樂隊を囃し立てるところ全く行人の頭が攪亂させられて了ふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●小鳥屋(上海)
喧騒と擾亂そのものゝ樣な上海の街に、それは又呑氣な悠長な商賣ではある。舊城門湖心亭の附近、とある横町を曲がるとそこには隘路を挾んで小鳥屋の店が立ち並ぶ。支那人の愛禽趣味は南北を問はず遊閑階級の通有僻らしい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●大道書舖(上海)
上海大道り自動車、無軌道電車、人力の錯綜して疾驅する喧囂裡に大道書舖が泰然と呑氣に張店して居るのも上海スナツプの一つだ。四書百家の靑表紙のかげは最早見る事を得ない、活版本の三國誌封神演義の大衆ものを始め三民主義や通俗革命書は淫本とゴツタに列んで民衆を敎育して居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●虹口マーケツト(上海)
國際都市上海の胃の腑の問題を解決する機關に虹口マーケツトがある租界内に工部局が建設した食料品市場は十一箇所ある。而してマーケツトは最大の規模を有するもの二十數箇國の異人種が雜居する都市だけに賣る品も買ふ人も多種多樣のコスモポリタンなところに、驚異的興味がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●佛蘭西租界(上海)
フランス租界は各國租界に比して取締の手が、萬事寛大だといふのが特色で、阿片窟や淫賣窟の多いので有名だ。先年支那舊城内の城壁を撤去して以來、交通の便利につけ込んでエロ、グロの氾濫は一層激しい。白晝のピストル騒ぎ、自動車での人搔ひ等の横行するのも此の界隈だ。ダーク上海の心臟部である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●湖心亭(上海)
上海舊城内の歡樂境、湖畔に建ち列んだ茶舘料亭は八ツ橋式の曲橋を渡して常に客を呼んで居る。昔潘充庵といふ數寄屋の官僚が、築造した庭園の跡で、石を集め池を鑿ちて彈心點綴二十餘の功を積んで出來たものと称せられる。蓋し上海の一名物だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●靑蓮閣(上海)
上海の四馬路といへば柳暗花明の上のに街として有名なところ、そこに靑蓮閣といふ茶舘がある。野雞の出入するので名高い。茶舘はもと社交機關としての遊び場所だが商人の取引所にも利用されて居る。野雞は説明する迄もなく野放しの牝雞である赤い褲子は危險だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●山東省政府(濟南)
濟南七十二泉の一なる珍珠泉のあるところ舊城内中央に建てられた省政府の建物は以前督辨公署であつた。昭和三年の濟南事件で破壞されて今は三民主義のペンキ塗でゴマかされて居る。孫文の肖像入りの靑色の影壁も現代支那そのものゝ表現だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●濟南市街
濟南は一名歷城とも云つて居る。泰山支脉の歷山下にあるからで、内外二重の城壁に圍まれ、城内には大明湖の湖水を取入れて居る。城北黃河の水運あり、津浦、膠濟兩線の接續地點として市勢なか〱盛んであるが、近頃幾度かの動亂に禍されて商民振はざる感がある。先年張宗昌時代に市街の整理道路の改修行はれ堂々たる面目を呈して居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●黃河の鐵橋(濟南附近)
濟南の東北里餘のところ黃河に架けられた津浦鐵道の鐵橋は、四千八百呎の長を以て虹の樣にあの濁流を横切つて南北に走つて居る。獨逸人の設計したもので橋脚の基礎工事に工費の六百萬元の大半を費したと謂はれてる。近年南北戰亂のある每に此の鐵橋の破壞に依つて交通路を斷つための戰禍を受けて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●濟南の環城道路
濟南内城を圍む總延長三里二十町の城壁は、濟南事變の際灤源門の附近大破壞をされて以來、大改修を加へられ環城遊歩道路として開放された。近代支那の都市改修に封建的の城壁を撒去するのも去る事乍ら、濟南の如きは頗る思付の好利用法と言はなければならぬ。アスファルトの環城道路から大明湖の水景を俯瞰し彼方歷山の秀峯を眺むるところたしかに勝景である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●大明湖(濟南)
大明湖は濟南七十二泉の水が滙流して出來た周廻十支里の湖である。湖畔楡柳の翠綠に圍まれ、水中荷葉蘆葦の間に行々子の鳴く聲を聞くも趣深い水鄕の景色だ。 乾隆の誌に 大明豈是銀河畔 何事居然駕鵲華 秋月春風初較量 白楡應讓柳千條 (印畫の複製を嚴禁す) -
●模範監獄(濟南)
濟南の新式模範監獄は支那としては珍らしい名施設だ。如何にも明るに淸々しい此の建物から受ける印象は、牢獄と云ふ陰慘な暗黑さを與へない。白服の若い看守君も玩具のやうな感じで親しみ易い。治外法權撤廢を叫ばれて居る昨今の支那に斯ふした施設は心強い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●監獄内の裁縫場(濟南)
監獄内には裁縫場、木工場、紡綿場、印刷場等の作業設備がある外、音樂室、敎化室、醫療室、病室、浴室、炊事室等が備わつて居る。此の裁縫室では國旗や黨旗を製作して居る光景であるが、囚人にはその出來高に從つて勞銀を與へる事になつて居る。 (印畫の複製を(「を」が上下逆転している)嚴禁す) -
●監獄内の音樂敎化(濟南)
囚人敎化の一方法として音樂を練習させる、師匠の看守は朗らな顔付で笛や胡弓の類を敎へる。如何にも和やかな氣持で笛吹く囚徒の顔にも罪惡に虐げられた陰欝な表情がない。支那として思切つた進歩的な施設で世界にも稀れなやり方と云ふに憚らない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●監獄内の武術稽古(濟南)
近頃支那の團體的訓練の上に支那固有の武術の復興が各方面に唱道されて居る。今は僅かに大道の藝人に依つてその面影を殘されて居た武術の型が、體育獎勵の運動となつて學校に軍隊に警察、監獄に盛んに行はれ出した。之れは看守の日課として與へられて居る武術稽古の光景である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●黃河の渡船(濟南)
黃河の兩岸を眺むれば廣茫たる平蕉そのものである。黃褐色の土も水も晝夜を分たず動いて居る光景は一種の奇觀たるを失はぬ。黃帝の神代より此の川には橋といふものがない、團平船のやうな渡船に人も馬も一緒になつて渡るのだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●岱廟の無字碑(山東泰山)
泰安城の北隅、岱廟と稱する泰山遙拜所がある。境内老柏古槐欝蒼として繁る中に二丈に餘る泰山自然石の石幢が建つて居る。何にも書いてないので無字の碑と呼んで居るが、秦の始皇の立てたものだと傳はる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●雲煙の美
その一(山東泰山) 古來泰山信仰は支那民衆に取つては根深い力を有つ。碧霞元君廟は謂ふ迄もなく全支にある道敎の本山だ、老子を祖述して佛敎、耶蘇敎まで織交ぜた神韻漂茫の神樣である。黃河平原に聳ゆる泰山は雲煙の間に隱顯して旦暮に神秘の姿を示す。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●雲煙の美
その二(山東泰山) 泰山の標高四千五百尺、頂上の日觀峯から俯瞰した黃河平原の大觀は素晴しい景色だ、而して時に大黃河が蒸發する水蒸氣は雲となり霧となりて、山上から見た雲海の千變萬化は泰山の一名物たるを失はない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●雪歩橋(山東泰山)
中天門の手前、山漸く迫りて、道愈々險しく、斷巖危崖のゆき詰るところ護駕泉の瀑壺となる。山雨一過すれば淙々の飛瀑懸崖にかゝりて御帳崖の勝地となり、宋の眞宗の休憩したところと傳はる。谿谷に架せる朱塗の欄干した雪歩橋を渡れば道更に急である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●五太夫松(山東泰山)
山半ばを登つて、愈々十八連盤の險所にかゝらうといふ所に、五十坪ばかりの平地がある。松の茶屋といつた休憩所の在るところ、昔秦の始皇帝が登山の砌、山中風雨に逢つて老松の下に休んだお蔭で、その松を五太夫に封じたといふ傳説の老樹だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●南天門(山東泰山)
泰山登攀の最後の難路である。十八連盤一千八百級の石階を上りつめたところに南天門の樓臺がある。山中第三の門で之れから碧霞元君廟の奧院は數丁のところに在る。脚下の泰安城を超えて濟南平野に蛇行する汶河の流れが遠く視野の中に消えて行く景色は大きい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●泰山(山東泰山)
泰山は東西の二峯に分れる。西泰山には濟南附近の外國宣敎師等が建て居る夏期の別莊などを見る。視界殆ど障きるものなき黃河平原の日沒の光景は比類なき莊嚴そのものである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●泰安府(山東泰山)
泰山の南麓泰安の街は蒼古として黴臭い城市だ。東西十町南北十二町の城壁に圍まれ、四時登山者の群れで賑はつて居る。津浦線の要驛で落花生集散の大市場として支那全産額の半は此驛で取扱はれると言はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●天柱の尖頭(山東泰山)
泰山の絕巓に玉皇閣の道院がある。門内に瘤のやうなる巖石の露出したるを、もつたい振つた石垣で圍むだところ、天柱の尖頭だと傳説される。古來の帝王が天地神明を祭祀する聖壇として尊崇される。傍らに「古登封臺」の古碑あり。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●岱宗坊(山東泰山)
泰安城の北門から爪先上りの坂道にさしかゝれば、岱宗坊の石碑がある。泰山登道の第一關である。はるかに泰山を仰げば遠く雲煙の中にその嶽影を見ないが樹林の間に隱見する山麓の景觀は、人の心を登高の快味に引きつける。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●淄川礦鑛(山東)
旣開礦區面積十六平方基、炭層平均六米突、夾雜物なく、稀れに見る理想的の炭質であつて、獨逸當局の預想炭量六億餘と註されてゐる處。五箇の竪坑を有し、出炭量一日二千噸乃至四千噸と云はれ、滿洲撫順と共に得難い礦區である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●坑夫街(淄川)
炭礦によつてその生計を保證さるゝ人々の安息所は炭礦の盛衰興亡と至大の關聯を有つものと云へる。 此の意味に於て淄川炭礦の坑夫の宿舎は甚だ惠まれたものと云へぬまでも、合辦事業の平和境であることは爭はれない事だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●周村鎭(山東省)
濰縣の富と周村の富とは山東經濟界を左右する處と云はれる。端正なその市街、轣轆として續く運炭の一輪車も繁く、近代都市の慌しさを外に、古都の靜寂さは限りなく懐しまれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●淄川郊外(山東省)
石炭の都淄川の城市は長髮賊以來今も尚舊觀に復し得ない。が然し旣往のおも影は郊外の一風景からも偲ばれないではない。見よ其整つた橋梁を、其點綴する民屋を。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●博山
その一(山東省) 博山の陶磁器は硝子工業と共に著名にして山東唯一の工業地として目すべき處である。軒別なく戸每々々に壘々として軒を埋める陶器の山はその大衆向のものである事を語るものではなくて何であろうか。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●博山
その二(山東省) 博山の街は孝婦河によつて東西兩圍子に區劃づけられる。東のそれは右岸にあつて周圍四哩に餘る城壁を繞らし、西のそれも亦別に城壁に圍はれてゐる。今しがたの驟雨は孝婦河の水勢を增して馬背による運炭を脅かし、交通文明から取り殘された惱みは舊態依然として繰返されて、水と尚且つ怪しむ者もないかの如くである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●博山
その三(山東省) 稀れに去來する行人を捉えて、農村の収穫をひさぐ。彼れに詩なく、是れに風趣なし。孝婦河は悠々千古も尚新たにして流れ、此處博山の平和境は、軈て生るゝだらう大詩聖を待望するかの如くである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●周村城外風景(山東省)
富の周村と背か合はせの郊外風趣の一つである。城内をブルの圏内とすれば、郊外は正しくプロの安住地であらねばならぬ。甜瓜に梨に収穫の秋は遍く此のあたりにも其喜びを割いてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●周村の非常門(山東省)
繞る墻壁のみで足らずに街路要所に鐵門を設けて匪賊の難に備へてゐる周村は古來から絹絲布の名織地として四百餘州に喧傳されてゐる處である。非常門は然しさは云ふものゝ彼等の富を守るべくあまりにも貪しく見えるのは何故であろうか。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●張店驛前(山東省)
出稼人夫の衆團によつて自ら發達した張店の街は見るからに雜然たるものがある。都會と都會を結ぶ一輪車のペーブは宿驛らしい幾分かを覗はせて、あまにりも不規則な街路に一沫の生命線を投げかけてゐるかの樣である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●貝子廟の祭典へ(東部蒙古)
貝子廟は張家口を東北に距る八百支里、東部蒙古平原の中に在る喇嘛寺で、僧侶約四千人、年中行事として正月と八月とに祭典が行はれる。その都度善男善女の集るもの萬餘、その殷盛は筆につくせない。これは盛装して參詣する騎馬の夫婦。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●旛旂と跳鬼(東部蒙古)
跳場正面參殿の兩側に、立てゝ飾つた嘛呢旛や旂は、日本の古式に用ふるものに似てゐる。牛頭佛が出て、跳舞幾回の後、群鬼悉く總出となつてこれに随ひ、圓圏跳舞すること數次、廟に歸る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●福の神(東部蒙古)
跳鬼には、讀經に次いで樂が奏されると、男女二體の神と福の神とが出て、正面に座して舞を觀る。跳鬼の催しは、福神を喜こばすためのものであらう。中央のお面を被つたのが福神で、左が女神、右が、男神である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●跳る天王母(東部蒙古)
寶冠を戴いた天王母即ち天女が、群鬼とともに踊る。それがすむと二十一位の天王母だけで踊る。大きな寶冠を被つた天女が、圓陣を描いて靜々と踊る樣は、如何にも優美なものがある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●喇嘛の樂器(東部蒙古)
跳舞に用ひる樂器の主なるものは、小喇叭、大喇叭、搖皷、銅羅、法羅などで、大喇叭の如きは長さ十二尺もある。大皷は立てたまゝ座つて敲き、撥は?型となつてゐる。曲によつて調子に緩急の變化がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●正劇と喜劇(東部蒙古)
跳鬼は一種の宗敎的野外劇で、正劇とこの間に加へられる喜劇との二種に分けることが出來る。これは喜劇といふべきものゝ一つ、菩提和尚と少年和尚との間に、色々の所作事があつて大衆を喜こばせる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●盛装の貴婦人(東部蒙古)
跳舞を夢中で見とれてゐる盛装の貴婦人、纓帽を冠り、金銀珊瑚や珠玉を鏤めた飾り、彩布を垂れたところ、何ともいへぬ原始味がある。これが察哈爾地方婦人風俗の特徴であつて、右方無帽の婦人は未婚者である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●參詣の大衆(東部蒙古)
盛装して集つた大衆は『跳鬼』をみる。唐の時代、西藏王郎多爾瑪[ラントルマ]は喇嘛敎を迫害して敎徒を虐殺した。それに憤慨した若冠の拉拉木巴勒多爾濟は、山に落ちてゐた有頭の鹿皮を纏ひ、跳舞に言寄せて王に近づき、袖箭を以つて王を斃した。敎徒はこれを徳として、紀念のために跳鬼の行事を爲すと言ひ傳へる。勿論附會の説に過ぎない (印畫の複製を嚴禁す) -
●焼き捨てる巴靈(東部蒙古)
跳鬼が濟むと、廟裡にあつた白麵製三角形の巴靈といふんものを持ち出して、讀經祈禱すると、惡鬼は皆この中に追ひ込まれる。惡鬼を追ひ込めた巴靈は、場外に運んで焼き捨てられ、祭典の式が閉ぢられる。一種の追灘の式である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●緣喜の幕を潜る
(東部蒙古) 巴靈が運び出されるとともに緞帳が下ろされて、正面にゐた福神は退席する。これと同時に大衆はドツと押しよせて、帳を割つて中を潜り、福の神の惠みに浴する。我勝ちに先を爭ふてこの緣起を祝ふ大衆は全く死物狂ひである。一種の胎内潜りともみるべきか。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●草原を越ゆれば沙漠(東部蒙古)
際崖なき沙漠の旅には、馬や牛では堪へられない。是非とも駱駝によらねばならぬ。無格好な姿ではあるが案外持久に耐へる。草原を越へれば沙漠だ。夏の日はまだ高い。いま一息と行く手を急ぐ。これを見ただけでも壯大な大陸氣分が味はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●牛糞拾ひ(東部蒙古)
蒙古の半沙漠地乃至草原には、勿論一本の樹木も見られない。東邊地方の濕地には、僅かに倭性の柳條があるのみで、唯一の燃料は牛糞である。柴刈りの代に牛糞拾ひが老人や子供の役となつてゐる。曠原を背景に、牛糞籠を脊負つて、熊手を手に牛糞拾ふ姿は、これ一幅の畫だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●牛糞の貯藏(東部蒙古)
遊牧移動の民にとつては、家畜は何よりの財産であるが、その家畜から得るところの牛糞もまた、燃料として大した價値をもつ。乾けば何の臭ひもなくよく燃えて火力も相當ある。日本の北國にみる薪のやうに、山と積みあげた牛糞は、一面その資產の標尺ともなり、一つの誇りである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●蒙古人の弓(東部蒙古)
蒙古人唯一の武器は、古來弓箭であつた。今では狩獵に鐵砲も用ひられるが、矢張り弓箭を用ひるものもある。背に箭筒を負ひ、特殊の蒙古弓をもつた姿には、強剛をもつて誇り、歐洲の東部にまで武威をとゞろかした成吉思汗の昔を偲ばせるものがある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●蒙古の相撲(東部蒙古)
蒙古の相撲は相當古い歷史をもつ。今でも靑年達が四五人集ると、娛樂として相撲ふの風がある。殊に活佛の轉生や、旗王就任の儀式、その他鄂博祭などの際には、盛大な競技が催されて、活佛や貴人さへ臨場する。力士には喇嘛僧もあれば普通人もあるが、概くて喇嘛僧に強いのが多い。日本の相撲に似たのも面白い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●蒙古包(東部蒙古)
遊牧蒙古人の移動家屋に『包』といふものがる。木骨を羊氈で圍ひ、上から繩で縛ると、三十分もかゝらずに出來上る。頗る簡單ではあるが、世帶道具一切は中に列べられてゐる。屋根の上で二本の桿に張られた布片には『運馬』や經文が書かれて、これが招運や避邪の意に用ひられてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●興安嶺の固定包(東部蒙古)
東北から西南に走る興安嶺の、その西南の裾には林西がある。林西地方の砂丘地はみな砂で覆はれてゐるが、この一帶に住む蒙古人は、高粱殼で固定包を造つて、一部は永住の積りで農耕にさへ從つてゐる。左は假住ひのテント、中央奧に見えるのが固定包で、こゝに住む夫婦ものは、やがて來るべき冬季の、唯一の燃料たる牛糞貯藏所の築造にいそしんでゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●蒲鉾牛車(東部蒙古)
蒙古の交通機關は何といつても馬に駱駝に牛車だ。これは俗にいふ蒲鉾馬車ではなくて、泥で塗つた蒲鉾牛車だ。支那の家屋には屋根に泥を塗つた蒲鉾形のものがある。この家屋の起原は不明とされてゐたが、建築學者の説によると、この蒲鉾形の車から車上の『包』となり、それが發達して蒲鉾形の家となつたものだといつてゐる (印畫の複製を嚴禁す) -
●陸の港(東部蒙古)
人間や家畜にとつて水は生命である。水無き沙漠地では水源は救ひの神である。旅行者はこのオアシスに集り、馬や駱駝にも水を與へる。蒙古の水源はいはば陸の港である。附近の部落からは、馬に水車を曳かせて、こゝから『包』に水を運んで行く。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●曹達を運ぶ牛車の壯觀(東部蒙古)
蒙古各地の沼澤[ノール]から出る天然曹達は、土堿といつて年產額二千萬斤以上に達し、專ら張家口で集散される。察哈爾正藍旗地方は有名な主產地で、こゝから張家口まで七百餘支里もあるが、雨期には迂廻せねばならぬので千支里ともなる。この間を一ヶ月もかゝつて牛車で運ぶのであるが、地平線から地平線を縫つて、幾百臺と續く牛車の列は、蒙古の原野にみる一つの壯觀だ。 (印畫の複製を嚴禁す)