亜東印画輯/04
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●固定した水上街(廣東)
廣東に見る蛋族の住居である船は、水上に浮んだまヽ一大群落をなして固定して居る。浮べる町を見渡したところ水上街何丁目といつたやうな文字通りの水路が出來て居る。前景の女の棹を操る屋根船は各家(船)を連絡して歩く渡船である。富裕なものになると階樓のある大船にさへ住んで居るところ全く奇觀である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●飮食店船(廣東)
浮べる町の何丁目の何番地かに赤い布切れを輪に吊して飮食店を標識にした何んとか樓とでも呼びたげな料理屋船がある。出入口を兼ねた艫の方の厨房ではコツクは料理に忙しい。舳先の方の座敷で一杯きこし召したお客は、迎ひに來た渡船で歸ろうとして居る。云ふまでもなく暮夜喉自慢の美しい蛋女は苫屋の下から「鹹水歌」を歌ふことだろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●蛋族の住む船部落(福州)
古來漢民族から賤視された南蠻の末裔に蛋族と稱するものがある。南支閩粤の沿岸に終生を一葉の扁舟に托して水上生活をして居る人種はそれである。昔は賤民として陸居を許されなかつた。彼等の始祖は鯨であるとも云ひ蛇の子孫だともいひ傳へられる。日本の海女を蜑女とも書くのは何にか起原の同じものがあるのではあるまいか。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●炊煙を上げる水上生活者(福州)
磯邊に繫がれた蛋族の蒲鉾船は食事時になると必ず屋根覆ひのアンペラを取つて炊爨の仕事を始める。簡單に天窓を作る形だ。露天に曝し出された住居の内部は至極シンプルである。來るに一竿の棹あり、去るに一挺の櫓がある。今日は此の岸、明日は彼の岸と所定めぬ漂泊の生涯には水中に魚ありて食ふには事を缺かぬ。彼等を陸上より見れば羨しい程の自由生活者である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●雪の朝
雪の沈默[しゞま] 資源は日の光輝におどり人は神のごと動く。 眼に映づる、-心にひゞくものみなのかぎりなき淨化。資源と人生の神秘尊し。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●渓流の朝
黑い、大なる空間がある。-冷氣がながれる。それから小時、黑い空間に太い線が曳かれた。そしてたつた二ツの白と黑との塊が形造された。 それから數秒、そこに鮮かに渓流の朝が描き出された靜かなる音樂が大地の底から起つてくる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●國境の町(二)
(東支線) 東支鐵道の兩終端驛、露西國境の町に東にポグラニーチナヤ、西に滿洲里がある。ポグラニーチナヤは國境を意味した露語で、支那では此地を綏芬河と呼ぶ。限りなき波狀地帶の丘陵の彼方烏蘇里線の走る沿海洲は續く。露支鮮三民族の雜居地密輸の盛んな町として有名である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●新しき移民の村(東支線)
一瀦の水一塊の山も人生の安らふ世界だ。空は限りなく高く展らけて太陽は永遠の光を地上に投げる。寒地の地にも春も來れば夏も來る。そこに開拓者の群れは愛と幸福を求めて自らの生を寄せる。漣の影たつ水面に浮ぶ水鳥の姿にも、淋しくも平和なる開拓者の心が偲ばれる。(ポグラニーチナヤ郊外) (印畫の複製を嚴禁す) -
●一面坡(東支線)
北滿の索莫たる天地に、こゝは又一條の淸流をはさんでこまやかな情趣を作つてゐる。一面坡は本線中の別莊地として聞こゑる。 白系露人の進展は東へ(東へ)と伸びて、安住の生活は彼等の趣味を取り戻して、この北滿の自然に華かに復活させる。夏來れば、一夏を歡樂を盡して過す群によつて、この川沿は濃艷な彩に埋まる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●國境の町(一)(東支線)
昔は女眞靺鞨の地、今は露支勢力の接觸點としての國境の町である。眼に見江ぬ赤い線の彼方はソビエツトの國沿海洲である。國籍なき白系の露人と擾亂と誅求を避ける支那人と祖國を捨てた不逞の鮮人とが落合つて作るポグラニーチナヤの町の空氣は一種もの凄いものだ。そこに日本の娘子軍の赤い色彩を點じた光景を想像したとき更らに恐ろしき國境の渦卷くを感ぜずには居られぬであろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●上海公園(上海)
白く輝く散歩道、淸楚な木立、綠に浮く白亞、安息の喜びをばら撒いてゆくに快適な上海公園は、東洋の地上とは思へない伸々した明るい自然に作られてゐる近年まで『犬と苦力入るべからず』の禁札に上層級に獨占されてゐた。長髪賊鎭定の將軍ゴルドン其他支那近世史に功名赫々たる英の偉人の紀念像並び建ち英國力の伸張を誇りかである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●浦東から見た上海(上海)
巨軀の船体、めまぐるしい戎克、風波、煤煙のあはたゞしい風物の中から覗く大上海は、この亂雜にかき亂されゆく前景の為に一入の生々した雄大さを加へて人間集團の渦のどよめきは先づ心を戰かせる。 霞めるは税關棧橋で、特に東洋的な玄關口の喧猥さを示してゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●大上海の夜(上海)
ひの街、光の洪水、華かなれば華なる丈けそこには高き近代文化が燃江る。大上海の夜、人を吸ふ目貫南京路の一角、耀く光りには各國のモダーンな色調を溶かして急速なテンポに剌戟をかもす。先施、永安、新新の大百貨店は戯場までも備へて自動車のペツトライトを悉く吸收して新時代を大膽に呼吸する (印畫の複製を嚴禁す) -
●競馬(上海)
支那人の射倖好きは日常生活迄喰ひ入つて習性をなしてゐる。人口の過剩に自然生活の程度が運命づけられてゆく沒法子の諦めを、何かしら反撥したい鬱積した焦燥から、一生を一瞬に賭けた強い刺戟を求めることは斥け得られない彼等の生活の溜息かも知れない。春秋の上海賽馬は、割戻し最高數十萬弗の幸運を繞つて全市を沸騰する。一大賭博が人身を一摑にさらつて狂体を極める。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●水上の行商(廣東)
水上の聚落に取つて必要な商賣は言ふ迄もなく飮食物の行商でなければならぬ。小舟の中に皿、小鉢を適當に列べて廣東言葉で何んとかふれ聲上げ乍ら水上の大路小路を呼び歩く商賣も一寸變つたものである。恐らく飮食物のみならず吳服、小間物、僧侶、賣卜、按摩の類まで陸上でみる商賣もなくてはならぬ譯であるが遂見當らなかつた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●海神を祭る咒符(香港)
水上生活者の蛋民族にも宗敎はなければならぬ。殊に海の神秘に絡んで彼等は色々な迷信や傳説の所有者である。艫に飾れるマドロスの神に献ぐる咒符の紙片は何を意味するか知らぬ。水面に臨んで吊された竹籠は家畜の置場だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●暮れ近き蛋の部落(廣東)
橋上から見れば大阪の牡蠣船といつた恰構で、幾百艘の蛋民の船家は暮れ近き河岸に群落して居る。夜となれば船内には電燈さへ灯つてドス黑い水面に美しい火の影を流す。一日を波の上に稼いだ彼等は櫂とる手を暫し休めて、今宵も浮寢の夢を安らかに見ることであろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●福州の碼頭(福建省)
福省の河邊一体に集ふ蛋族の蒲鉾船は移動的であるだけ輕快で美しい。大ていの操舟の仕事は女の受もちだ潮の干滿に依つて閩江の通船はなか(なか)容易でない。 大きい船と埠頭の間の連絡に活躍するものはみな彼等である。江岸に立ちならぶ古い鬱蒼たる並木を見るにつけても福州の港の古い歷史が思ひ出される。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●水賣舟(香港)
香港の海濱に見出される蛋族の船の屋根は福州や廣東で見るそれよりも一層複雜で固定的だ。一艘の船から横に他の一艘を繼ぎ足して別室を拵へて居るところなど更に奇觀である。官許のローマ字番號は何町の何番地といふ格だ。入口の艫部には水賣の小舟が朝夕訪づれて來る。屋根上は倉庫兼用の物乾場である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●歌に生きる蛋女(福州)
靑疊のやうな波上に浮ぶ美しい網代屋根の船が蛋族の女の棹とる姿によつて更らに美しくクラシツクな情景を呈する。蛋族の中に昔から「鹹水歌」と稱する民謠がある。素朴で熱情的で如何にも赤裸々なところ愛するに足る。 白菜開花白抛々。囉 妹當胸前二粒瘤。囉 兄當伸手擲一下。囉 親像肉餅兼肉包。囉 (印畫の複製を嚴禁す) -
●三把簪(福建省)
福建風俗の異色として他では見られぬものに、女の髪飾り三把簪がある。長さ七八寸の兩刄の懷劍風の簪左右二本を×形に後頭の髪に括つて、眞中には手裡劍風のものを差し込み落ちないやうに組合せる。昔敵に備ふるための用意であつたとの傳説、女だてらにそれは物騒とあつてか昨今國民政府では禁止して居る相だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●郊外風景(福建省)
福州は柑橘の産地として名高いだけ如何にも暖國的光景がある。郊外の森は春いまだ淺きに常綠の色に木の葉は輝いてをる。壠畝に通ふ畦路が森のトンネルに接して牛糞拾ひがノツコリ出て來たところなどいかにも善いポーズだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●皷山(福建省)
皷山の松林萬翠をあつめて、もの靜かにして飽までも淸淨である。福州東門外三十支里全く塵界を脱した風景の勝地である。涌泉寺の外に喝水泉、更衣亭、國師巖、天風海濤亭等の名所あり、盛夏避暑の好適地として知られる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●共同墓地(福建省)
福州には貧人は墓地を購ふことが出來ないので屍棺を格納する共同の墓地がある、從來の漢人にはあり得ない風習である。それでも火葬しないところに彼等の特色を見る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●竹の筏(福建省)
福建は竹の名所で古來から竹材の輸出は盛んであつた。支那料理の筍は福建産が多い。 福州の市街には閩江の支流が運河のやうに四方に分かれて、潮の干滿によつて水が盈虛する。勞役をいとはぬ福建女は竹筏を流してゆくのも地方色である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●涌泉寺(福建省)
涌泉寺は皷山々中にある唐代勅建の名刹で、日本佛敎史上にも由緒深い寺である。林間の幽境些の俗塵を交へないところ自ら閑寂の禪諦生活を彷彿する。寒山の詩に。 碧澗泉水淸 寒山月華白 點知神自明 觀空境逾寂 (印畫の複製を嚴禁す) -
●閩江の萬壽橋(福建省)
閩江の流れを挾んだ福州の街は、河上蛋家の網代船を浮べ、南北の兩岸を萬壽、洪山の二大橋で結びつける。隅田川に架せられた兩國橋を思はするやうな萬壽橋を渡れば馬路の盛り場である。三把簪の髪飾りをした福建女や水牛のノソリ(ノソリ)歩く姿を見るのも南國情緒であらねばならぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●福建の女(福建省)
古來福建の女は良く働く、大体此の地方は男が他鄕に出稼ぐ風があつて女は深窓の生活を許さない。福建人は昔から航海に長じ船員となつたり海外植民を企てた。殊に支那の海軍將校は殆んど皆此地の出身だと言はれて居る。從て女も稼穡の業に努めたものであらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●水鄕の一斷想(福建省)
河中の一小出島、傳説でもありそうな場所がら、建物の密集した曲線の交錯に魅惑されたカメラ氏の収獲である。ソリのある線の屋根をみせて居る建物は謂ふまでもなく水神を祠る廟である。石垣の上に棚がけにはみ出した廂風の洗面場、屋上の物乾臺の恰構にもどことなく水鄕らしい情景だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●福州市街(福建省)
閩江々口を遡る三十浬、大船は馬尾の造船所下で小輪船に乘替へ漸く福州に達する。人口六十万の市府、廣東に次ぐ南海の古い商市である。先賢石室の丘陵に美しい塔影を投じて左右に展開した街衢は、凸字形の民家の瓦屋を參差せしむるところに古雅な印象を與へる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●延平の樓門(福建省
延平) 延平は人口三萬計りの市街である。山に倚り河に沿ふた此の城市は、浙江、江西に接近して元末に陳友定の割據した土地として知られる。城壁とその樓門の恰構からしてもその古きを語る。今は國民軍の駐屯所として、あたら名所も洗濯ものに瀆されて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●閩江の上流
(福建省 延平) 閩江を遡る百數十哩にして建安道の延平に達する。沙溪と建溪の合流するところである。こヽ迄來ると山迫り水激して閩江上流の奥深きを察する。薪炭の供給地で遙かの山峽から立ち昇る炭燒の白い煙も鄙びいて見江る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●明翠閣(福建省
延平) 江岸の斷崖程よきところに如何にも數寄をこらした茶舘、楣端をそり代へした幾つもの廂の層に建築美の効果を見せて、樓上靑簾を垂れたところ晴れによく、雨によく、殊に月明の夜の景色を思はせる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●前嶺山の墓地(福建省
福州) 福州の郊外前嶺山の小丘に古くからの共同墓地がある。道の邊に龍舌蘭などの生繁る景色を見れば熱い南の國を思はせる。圖らずも此の墳墓の中に日本人の名や台灣人の名を見出した時、今更の如く國戰爺の故事が思ひ出されて福州の名の吾々に襯炙されて居ることを覺江た。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●福州郊外(福建省
福州) 城外南郊の田舍道、春まだ淺いが常綠の色尚ほこまやかなるところ南國を思はしむる。桃源の平和鄕にも似た暢びやかな谿谷の空氣は、春待ち顔の桃林を擁して花の日の賑やかさを語る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●閩江の防砂工事(福建省
福州) 福州から閩江を遡つて延平にゆく途中、河上往々にして寫眞のような護岸のための防砂工事に蛋民の女達がさんざめく光景を見る。何んのことはない竹竿を水中に突差して矢來まがいの竹柵を作るところ頗る原始的だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●家鴨飼(福建省
福州) 水鄕の生活にあひる飼といふ職業が点景される。丸太を網代に組み上げた筏の上に、蒲鉾形の大箱を造つて、そこに數百羽の家鴨を飼つて居る。朝夕此の格納されたあひるは水に放されて自由に水中の餌を拾ふ。一本の竹杖はよく數百の家鴨群を操るところ頗る奇觀だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●福州女(福建省
福州) 福州女の勞働力は恐らく支那でも随一のものであろう。男手の少ない地方として婦人が野外に或は水上に働く習慣は古い此の地の特色である。四斗樽にも比すべき天秤棒に擔いだ水桶に加露の口を取りつけて自由自在に操縦する彼等の臂力も偉いものだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鎭海樓(福建省
福州) 城壁を取り懷はされた福州の城市は坊子のように淋しく現代の新しい風に吹き曝される。城北の越王山に築かれた鎭海樓の古廟が、城壁の斷礎頽石と共にとり殘された形は、新舊の過渡期に見る哀れなる支那の姿である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●閩江の潮(福建省
福州) 閩江の水は潮の干滿によりて時に三十尺も增減を示す。ヒタ(ヒタ)と押しよせる潮の力は河水を逆流せしめて幾十里に渉る江岸を洗ひ浸す。河心をゆく長閑かなる船の櫓聲を聞きながら岸に慈姑を洗ふ蛋女の姿も春の風情である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●中山陵(南京)
孫文逝いて四年、北京の碧雲寺に眠つて居た遺靈が六月一日愈々南京の中山陵に葬られることになる。紫金山上壯麗な輪廓を以てモダン化された廟宮は國民革命の祖、三民主義の權化、近代支那の生んだ偉人の第一人者としての孫氏の靈を祭るに適はしい。その經費六百萬圓と稱せらる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●淮南の春光(楊州)
江南の春は今や闌である。落花流水に浮んで新綠の楊柳は白陽を碎ひてあざやかである。目路のかなた翠綠の煙れる中に聳ゆるは法海寺の喇嘛の古塔である。昔煬帝が榮華の夢を極めたるも此の地であるが、扁舟の棹人獨り恍惚として春水に浮べる姿も春の情景にふさわしい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●五亭橋(楊州)
南の楊州、北の天津とを結ぶ大運河は隋の煬帝の開鑿したもので所謂「京口瓜州一水間」である。古來楊州は美人の産地、雅懷風流の水都である。五亭橋は小金山から蜀崗に通ずる濠溝に架せられた石橋で、橋上五ツの亭子をしつらへたところからの名だ。淸の乾隆南巡の際楊州美人を徵發して錦綉の䌫をもつて乘御の畫舫を曳かしめたところである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●村の小學校(南京郊外)
春霞たち罩めた南京以外の田野は黃花綠葉に彩られて遠く燕子磯の邊りにまで續く。會つては乾隆帝の幸遊で名高い場所だけに暢び(暢び)とした平和なる春の光景だ。ポーズの前景に見ゆる書院式の建物は此の部落の小學校だ。屋根の恰構と校庭に嬉々する學童の稚態とは春を飽迄もユモリスクなものとする。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●玄武湖の畫舫(南京)
南京の城外を環ぐる湖水、大平門外から神策門外の間に橫はる。蒼古たる城壁の色に映じて碧水を湛へた湖面は畫舫の風流と相俟つて南京人士の遊樂地である蒼々たる水草の翠綠を分けて丹靑に色彩られた畫舫は楊州美人と紹興酒を乘せて船子の一棹に湖心へと滑べる。春花秋月は言はずもがな殊に夏の夕の納凉によい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●中山陵の堭闕(南京)
圓形のヘルメツト型のものは孫文氏の遺骸を安置する堭闕で總て花崗石で出來て居る。近代支那革命の魂神格化され偶像化されて支那四萬々の民衆に之れら靑天白日旗と共に君臨し統治し支配しやうとして居る革命の父としてロシアにレニンあり支那に孫文がある民國の前途よ、幸に三民の守護神に依つて永しへに祝福されよ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●中山道路(南京)
舊都南京の市街は今や國民政府の手によつて大攺正が行はれて居る。下關より紫金山への約二里に餘る一直線の中山紀念道路は新興支那をシンボライズするかの如く素睛しい勢で築造されて居る。左方煉瓦燒の窯のやうな建築物は明の故宮の趾である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●秦淮(南京)
往昔秦の始皇が穿鑿して淮水を通じた運河である。兩岸は千數百年以來柳暗花明の巷として知られ、秦淮の商女が後庭の歌を唱し桃葉の曲を彈じて畫舫の風流を味はぬものは江寧南京を語る資格なしと謂はれたのも古い話ではない。今は首都が南京に移つてから住宅難に苦んだ市民は畫舫を賃借して住居するに至つて此の風は廢れた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●南京南門大街通(江蘇省)
南京城内のメイン・ストリート南門大街の熱閙は國民政府の首都とも思へない舊態依然の狭苦しく猥雜な色彩に塗りつぶされる。アノすし詰めのやうな肩摩轂撃の間を自動車だけはモダンな音を立てヽ民衆を尻目にかけて通るところに、何んだかむづかゆい革命意識が感ぜられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●茶舘の晝(南京にて)
春の日の午下り巷の塵は陽光をボカして路上の行人をして倦怠と渇きを覺江しめる。その頃から街の雜閙をさけた客人に茶舘の内部は賑はふ。一杯の苦茗、一握の瓜子に暫しの勞苦を癒して心ゆたかに憩らふ。ジヤズもなければ女氣もない支那の茶舘は長閑かに春の日は暮れる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●珠江(廣東)
香港から西江を遡る八十浬、江岸をギツシリとさし挟んだ廣東の市街は約百万の人口を擁して南に勇飛する。英佛の租界沙面は翠綠の森を負ふて美しい島影を珠水に浸して居る。ドームのある時計台は廣東税關で碼頭からは悟州、通州通ひの民船が出る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●海珠公園(廣東)
珠江を狹んで廣東市街の主要地域、對岸の河南街と相對して某々の大デパートを始め、大厦高樓水に臨んで櫛比する。河中の海珠公園は大阪の中の嶋公園と云つた形で、その周圍には數千を數ふる蛋族の水上群落がある。水陸兩棲の自由勞働者の居住區、漢民族と對立する人種的差別も奇異なる情景であるが、陸上都市の寄生部落として特殊の興味を惹く。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鳥瞰した廣東市街(廣東)
太平路といへば廣東の中央市街だ。支那極南の開港場として最も早く外國勢力に接觸した地方だけに支那固有の色彩が薄く、塔もなければそり返つた屋根もない。豆腐を重ねたやうな平屋根ばかりだ。おまけに暑い土地だけに飛んでもないところに空氣抜きの穴があく。鳥瞰した廣東は如何にも雜然とした醜い街と云はなければならぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●雨後の街裏(廣東)
雨の多い廣東の空氣は何時もジメ(ジメ)した感じだ。無氣味な逆光線に浮き出された街頭の建物は怪物屋敷のやうな印象である。此邊と相對する沙面租界地には常に鐵條網を張り散らされて居るところだけ水にも陸にも殺氣の漲るものがある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●大馬路(廣東)
大馬路の朝景色、緩るく曲つたコーナーを通して見た廣東のメンストリートは可なり活氣を呈して居る。朝靄の中に聳ゆるは大新公司の大デパートである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●胡同の居住者(廣東)
市街の表通りを横にそれたしもた屋町下級の給料生活者[サラリーマン]の居住區は、働き人の男手を送り出した後に妻君達悠び(悠び)とした氣分で街頭の景物をのぞく。動物の檻を思はするやうな横に渡した格子戸も變な印象を與へるが、暑熱の烈しい土地柄通風採光には無くてならない出入口の構造である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●街頭の行進(廣東)
都會の街頭を上から鳥瞰した光景は一種のユウモリスクな構圖でなければならぬ。東洋車上の男よ女よ、長柄を握つて駆け出す苦力の足取姿にも都會の行進曲のリズムはある。一群の兵隊さんの通過は革命の廣東を彩どつて愈々多事だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●市街の防暑設備(廣東)
上から見た廣東市街の稚雜さに對して、下から見た中央市街の太平路邊りの光景も旅のものには奇妙な印象を與へる。五層六層の高樓大厦も總て建築場に架けられる足場やうのものに圍まれる。之は夏季の暑熱を避くる防暑設備で此の高い足場には簀ノ子の莚を懸けて家屋全体を覆ふて了ふのである。必要のためには市街の美觀も建物の体裁も顧みないところに支那人らしい無頓着さがある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●果物屋の店頭(廣東)
マンゴー、メロン、バナナ、ザボンの美果珍果は南國らしい色と香を放つてところ狹きまで店一杯に陳列される。廣東の果物屋は常に必然的に煙草屋を兼ねて居るのも面白い。店頭の多彩にして異香を放てる行人の味覺と視覺とを唆らずには惜かない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●廣東の質屋(廣東)
廣東の質屋は周圍の矮屋を眼下に壓して恐しい高層の建物が多い。昔外國軍艦は珠江を溯つて廣東の町を眺めた時、質屋の建物を見て砲台と間違へたといふ話もある。品物の出入口の如何にも小さく警戒的な恰構に對比して此の物々しい高屋は細民の膏血を搾取しての蓄積でなければならぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●船家屋の内部(廣東)
蛋族普通の船家屋の内部光景である。艫部のアーチ型の軒先から室内を窺けば柱も横木も金や紺色の唐草文樣に飾り立てられ右方に螺鈿など鏤めた佛壇があつて卓子の上には茶道具が並べられる。夕方になれば電燈迄つく便利な世の中だ。間仕切の奥は炊事場である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●花舫(廣東)
水上の夜の街、横列に並んだ方船の一つ(一つ)は謂ゆるフラワーボートだ。何々亭の代りに何んとか舫の看板も廣東水鄕には無くてならぬ風情である。ケバ(ケバ)しい色彩に飾り立てられた出入口から窺く部屋の中には古風な釣ランプが下がつて、脂粉の女と共に嫖客の影が怪げにうごめく。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●花舫の内部(廣東)
暑苦しい陸上の廣東から凉を追ふ水上の散策は、是非水に紅燈の影を映す花舫の邊でなければならぬ。板子一枚の下は地獄とも知らずに酒の香と絃歌の音につり込まれて、浮船の巢にうつゝをぬかす。 廣東には恁ふした水上の歡樂郷は四五ヶ所ある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●渡し船(廣東)
舷側をコテ(コテ)と塗り立てた民船と稱する渡し船、それ自身では動かない、曳船に引張られて行くのだ。廣東バンドに客待ち民船の姿を見ると、文字を白ぬきにした赤い幟を押し立てたところ、恰も桃太郞の鬼界ケ島からの凱旋といふ格好だ (印畫の複製を嚴禁す) -
●武裝した民船(廣東)
珠江を上下する民船には陸上の土匪に備へるために銃眼を作つてホンものらしい砲口がのぞく。船體の下部はもの(もの)しい原始的なペンキ畫で彩色される。 之れで乗客は安心して此頃の物騒な梧州や韶州邊りに通船するのも面白い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●浮船の巢(廣東)
船といふよりは陸上の家屋そのまゝの構造、裏口の出格子には植木鉢さへ置かれて、窓の戸は洋風のブラインドが取つけられる。水中に突つ立てられた電柱からは電燈さへ灯されるといふわが浮船の巢は、商賣はと聞けば待合稼業といふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●浮木を背負ふ小供(廣東)
初午の太鼓を背負つたといふ格好の小兒、豈はからんや之れは水上生活者蛋族の小兒で偶々陸に上がつたところ、居常船の上から水に落ちても浮び上がれるやうに腰に丸木の浮木を結いつけられる。チリン(チリン)鳴る鈴をつけたのも小供らしい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●大家族の蛋族(廣東)
蛋族も大家族制度の社會組織を有つて居る。子供が生長する毎に船の間數が殖やされる。それは極まつて上層に繼ぎ足されて如何にも不格好な形に船は膨れ上がる。謂ふ迄もなく分家する子孫は小さい子船に移つて分離して行く。水上だけに陸上の家族關係よりは分家するにも容易らしい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●日よけの廣東(廣東)
廣東は四月の聲を聞けば最早盛夏に入る。街頭の商店は一齊にアンペラ張の日覆ひをする。堂々たる高厦大屋が建築の時の足場のやうなものを掛け渡してアンペラ製の大簾を垂れたところ餘り感服の出來ない格好だ。窓の部分は採光の必要から簾の編み方は荒目に出來て居るか、卷上げ式の加工かが施されて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●奇異なる女風俗(廣東)
三度笠に紺色の布で緣取つた垂れが下がる。手甲をはめて足は大てい裸足だ。謂ふまでもなく一見して漢民でないことが知れる。韶州地方の山地に住む苗族の一種だ。市街に出ては石割りの勞働に從事する。鳥渡日本の住吉踊の風俗を思はするもの、輕蔑される階級に屬する。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●朝陽の街(熱河省)
世は國民政府となつて熱河特別區域も省制を布かれて、從來の東北三省が今は四省と變つた。 朝陽は熱河省内の主要縣城の所在地、古來から東蒙の故地として三座塔の名に依つて知られる。夏の白日に烈しく照りつけられた古るぼけた朝陽の街は、乾からびた黃塵を浴びながら一路西北の方赤峰街道へと通ずる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●武裝せる當舖(打通線新立屯)
打通線の開通以來眼ざましい發展を見せて居る新立屯の街の形相に、特に目立つものは武裝した當舖(質屋)だ。銃眼を刻んだもの(もの)しい城砦造りの石疊みいかめしい住家の構へは、言ふまでもなく遼西の馬賊に備ふるための用意である。通用門は平日と雖も嚴重に閉鎖して、質を入れようとする程のお客樣は側らの小窓から僅かに取引される。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●龍卷(熱河省)
蒙地から吹き送られる熱風、ギラ(ギラ)する白刃のような眞夏の日光は、時々旅人を眩惑させる程の暑さだ。北票の街は苦熱の下にあ江ひで居る。 忽ち彼方に聳ゆる醫巫閭山の山嶺に一團の黑雲が颯乎と流れたかと見る間に、暴風雨を含んだ天邊の熱風は地上に吹き落されると同時に、天地は全く晦瞑に陷つて恐ろしい大龍卷が地の一角から捲き上げられる。蒙古地帶によくある大旋風の光景である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●醫巫閭山(1)(遼西)
遼西の醫巫閭山は古來幽州の北鎭と稱せられ支那十二名山の一にして名高い。高さ十餘里、周圍二百四十里とは支那の數字的説明だから當にならないが、北興安嶺山彙の支脈として遼西に蟠崛して居る範圍は可なり廣い。山中奇巖怪石に富み、古來寺觀廟閣の美も相當あつたものだ相だが、近來遼西馬賊の巢窟となつて發頽見るべきものもない、 (印畫の複製を嚴禁す) -
●醫巫閭山(2)(遼西)
古い山だけに色々傳説なども傳へられて居るものゝ中に、契丹の耶津突欲がその山容の奇秀を愛して萬卷の書を山中に藏し、絕頂に堂を築いて之れを望海と銘名したと謂はれる。蓋し山上より渤海の大觀を眺められるに依るのである、耶津卒するに及んで茲に葬り山下に北鎭廟を造つたとある。此邊最も奇勝煙霞の景に富む。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●錦縣(京奉線)
錦縣廣濟寺の古塔は唐代の建設に係る。高さ約三百九十尺、基抵の台座には六面佛が彫刻されて居る。錦縣は東蒙物資の集散地で毛皮、甘草、棉花、雜穀類を取引する商賣は可なりに多い。在留日本人も相當に居る、會つて日本の商品陳列所さへ在つた土地であつたが今は無い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●城内へ(義縣)
京奉線から別れる錦朝鐵路の中間に義縣がある。往昔遼東への重要なる交通路であつたらしいこの一帶は今も古城壁に大塔に榮へた名殘を止めて居る。 蒙古路からの幌馬車か、城壁のもとを黄塵を立てゝ過ぎゆく光景は蒙古口という關係を最も氣安く感ぜしめる。錦縣よりも商業に活氣を呈してゐるわけも又自ら肯かれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●市中の古門(京奉線錦縣)
錦縣は京奉線の主要驛遼西の大市場である。此地は昔幽州の時代からの都城で古來蒙古貿易の關門であつた。今は茲から北票といふ炭礦の在る地方迄鐵道の支線さへある。錦縣で有名なのは廣濟寺の古塔であるが寫眞のアーチはハンゴーメンと稱し、高麗時代の遺跡として今に東關街の眞中に保存されて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●朝陽の三座塔の一(熱河省)
昔三つ塔があつたそうだが一基は崩れて今その二座を殘して居る。 朝陽は晋代に慕容皝が都した所謂龍城である。唐代には營州柳城郡、遼金に興中府と稱した三座塔も此時代の築造である。此地元蒙古の所領ではあるが古くから漢人の移住を見た土地で、街の格構には蒙古風がない。たゞ佑順寺の喇嘛廟は當時を語る唯一の遺物である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●旅藝人(京奉線新立屯にて)
遼西から東蒙の漢人部落を廻り歩く旅藝人、猿一匹が飯の種子といふ先生である。手に持つた猿殿のお玩具、ラマ塔の格構したものゝあるところから察すれば蒙古人にもお得意があるのか、肩にした木箱は彼及猿の全財産である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●安奉線の山嶽美(南滿安奉線)
平原の滿洲から足一ト度安奉線に入れば、所謂山嶽地帶となつて四圍の風光は全く一變する。一は橋頭附近釣魚台の景觀で細河の峡谷美は既に人口に膾炙された。他は東行安東に近く高麗門、鳳凰城驛の邊り山迫り水狹まつて秀巒奇峰の美を展開して車窓に入る。秋によく春によい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●高麗山の遠望(南滿安奉線)
磊塊の奇巒高麗山の雄姿は朝の空に雲烟の間から黑繪のやうに浮出されて居る。驛頭から眺めた山の容姿は如何にも此方に向つて呼びかけて來るやうな心持で切に魅惑を感ずる。喞々の蛩の聲、啾々たる風の音、山に對して心に秋を懷ふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●高麗山中の奇勝(南滿安奉線)
摩雲嶺の上から見た高麗の山肌が突几として綠衣を脱いで六百七十米突の天空に露出したところ處女の肌にも似て美しい。四圍の山靈は淸く靜かなる抱擁の中に永遠に此の美を守る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●高麗城跡(南滿安奉線)
高麗の古城は昔開州城とも云つた。東邊地方に蟠居して勢威を朝鮮半島に振つた高勾麗旺盛時代の遺跡である。遼東志に四面石崖峭壁、東北二門、城随山舗砌、可容十萬衆。その規模の雄大を察するに足る。唐の太宗の此の地に來征したことは附會に過ぎないが薛仁貴の軍がこゝで戰つたのは事實であろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鳳凰山中の道觀(南滿安奉線)
紫陽觀はまた三官廟ともいふ。鳳凰山中の巨刹である。三官とは道家の天地水の三官の神仙を祭るもので五斗米を供して治病長壽の法を修したものである。淺黃色の道服を着た道士の姿は支那の山嶽崇拝にはなくてならぬ景物である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●裏高麗の奇勝(南滿安奉線)
高麗山は鬱蒼たる樹林の間に奇巖怪石の峭立する花崗岩式勝景に在る。その幽寂奥𨗉の趣は岩の肌、樹木の色、山の姿と共に渓谷に響く鼕々たる水籟の音でなければならない。秋滿山の紅葉美に至つては滿洲の第一觀たるに耻ぢぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鳳凰山上の觀音洞(南滿安奉線)
縣城の南一邦里鳳凰山上に一大洞窟がある。明代禪林の修したところ今は觀音閣を祀る。洞門の額上に自然の大磐石を摩して「佛之洞天。我之宇土。唯佛與我。長此修古」の文字が美しい書体で書かれて居るのも奇觀である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●湯山城の温泉鄕(南滿安奉線)
湯山城の驛から三邦里半を距てたる靉河の支流湯河の河岸にある溫泉部落だ。俚俗五龍背の溫泉を指して西湯と稱し此の地を東湯と云つてその源泉を一にして居る。湯元は聖泉寺の境内に湧出して稍々靑味を帶た透明の滑かな溫泉である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●温泉の朝(南滿安奉線)
遙かに鳳凰、高麗の翠微を仰いで秋の朝の溫泉村はしつとり湯烟に霞んで居る。例の支那部落の猥雜な混渾たる印象からすれば何んと正常で平和なシーンであろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鳳凰城(南滿安奉線)
鳳凰城驛から小半道、縣城の城壁が蒼古として鳳凰山麓に聳江て居る。古來滿韓兩民族の勢力接衝の重要地点、支那が朝鮮半島の咽喉を扼して高麗民族を支配した歴史を語るもの、日淸、日露の役に於ても有名な戰跡である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●惡魔除けの咒符(熱河省二郎廟)
人骨を麥粉でコネ上げた三角形屋根型の護符は、喇嘛の祭式にはなくてならぬもので、一切の惡魔除け鎭魂厭咒の標識である。金銀多彩の彫刻花紋で飾り立てた此の咒符は大祭の際に引出されて式後野邊に送られて燒却されるのが習慣である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●ラマ寺の本堂(熱河省佛ラマ寺)
同じく蒙古といつても東蒙は既に漢人化された地方である。辛ふじて蒙古風俗を傳統して居るものは喇嘛僧の世界だけである。 索寞たる高原の宗敎生活の根源として喇嘛廟は陰慘で神秘である。佛ラマ寺は遼西地方から近い代表的寺廟の一つである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●僧房の街(熱河省佛ラマ寺)
喇嘛廟の周圍には附屬のラマの僧房が建ち列ぶ。幾百幾千の獨身苦行の喇嘛僧が枯淡純重にして砂漠の中にふさはしい生活をして居る。蒙古の平原に寂滅の世界を觀じて無為の相を求めんとするものは此の密敎の行者を見るがよい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●ラマの法要(熱河省佛ラマ寺)
年中行事としての季節々々の喇嘛の法要は、嚴肅でもの(もの)しくて頗るエキゾチツクなものである。 房で飾つた鶏のトサカのやうな毛冠を頭上に頂いて、マントを羽織つた喇嘛の服裝と長さ二間もある喇叭、太鼓の音樂、旗、差ものの行列、すべて異形の姿、神秘の音に依つて行はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●活佛の住居(熱河省佛ラマ寺)
喇嘛廟は西藏風の建築を多分にその要素として居るが、活佛の住居は大低支那式の建築だ。 淸朝時代には同化政策のために利用しただけ活佛の懐柔には苦心を拂つたものである。一年おきに北京に参觀交代せしめたので活佛は殆んど支那式生活に慣れ切つて居る。從つてその居住も支那の貴族式になつたのも自然であろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●活佛(熱河省佛ラマ寺)
活佛の制度は淸朝時代に始まる。活佛は一山の法主として絕大の敎權を保有する。その總本山の大法王は西藏拉薩の達賴喇嘛である。活佛は原初に於ては世襲であつたが弊害の伴ふものあるがため後には轉生降神の法を設けて法統の後繼者を決めることになつた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●轉經(熱河省佛ラマ寺)
喇嘛廟には何處でも轉經と稱する器具が備付けられる。圖のやうな西藏文を刻した金屬製の圓筒で廻轉される構造で、大小色々な形がある。 喇嘛敎徒は居常何事にも唱名して尊奉する六字の名號にオンマニパタマホンと稱する言葉がある。之れを誦唱する數の多いだけそれだけ無上法慈の結緣となるので、此轉經に依つて百万遍の唱號に値しやうといふ工夫である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●喇嘛の本尊(熱河省佛ラマ寺)
喇嘛の本尊は如來、菩薩、觀音各種各樣の佛像を安置するが、特に變つたものもない。唯だ別格に飾られる偶像には奇怪異形のものが多い。此の阿彌陀の坐像を飾る背光の彫刻を仔細に觀察すれば喇嘛特種の意匠が細かに彫みつけられて居る。合掌の兩腕に掛けられたハツタカ稱する細長い布は禮拝を具象するラマの供物である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●屋上の式壇(熱河省佛ラマ寺)
喇嘛廟の屋上は平たい陸屋根になつて居て、朝夕ラマの衆僧が集つて讀經をする式場になつて居る。 表面中央の法輪を挾んで金色の神獸が一對左右に安置されてハツタカを付けた圓旛の翻へるところが即ち式壇である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●喇嘛塔(熱河省蒙古鎭王府ラマ廟にて)
喇嘛廟には廟前必ずラマ塔を建立する。或は一對、或は一個の美しい白塔が飾られる。方形の台座に冠風の圓座が安置されて上部の三角形は法輪である。彫刻は粗雜な作であるけれ共黃金色多彩の塗料を施したるところ莊嚴である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●羅暖堡の瀧(鴨綠江)
鴨江の全長百四十里の間には激湍急流の難所決して鮮くない。朝鮮よりは長津江を滿洲よりは渾河を合せて水量とみに增さる。命がけの筏師のなりはひは惠山鎭を起点とするが、羅暖堡の瀧と稱する急湍はその下流十里程のところにある。奔流白馬のやうな浪を立て渦を卷いて、筏一度流れに入れば瞬時矢の如き勢を以て下流數里のところに在る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●上流の原始林(鴨綠江)
鴨綠江材の種類は紅松、落葉松、胡桃、鹽地、榀木等々の各種を産するが、山下には𤄃葉樹が多く、山上には針葉樹が多い。 惠山鎭より十五邦里を奥に入れば大鎭坪の原始林が見られる。落葉松の密林で頗る見事なもの、蓄材容積も決して鮮くない。昔この邊の地帶は四禁の地として伐採耕牧獵漁開堀を禁じて居たので、今に此の原始林を殘して居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●運材軌道(鴨綠江)
山深く採木運材の路を開くために軌道が設けられる。鬱蒼たる濶葉樹の密林はイキ苦しい程の勢で繁茂する秋十月万山の紅葉が錦繍を織りなす頃、川の方では流筏が終りを告げて伐木の山入りが始まる。 伐採個所の選定、小屋掛け、運搬、管流、編筏、流筏の順序で來年の夏まで伐採作業がつゞけられるのだ (印畫の複製を嚴禁す) -
●好仁面附近の風光(鴨綠江)
江水緩かに流れて、兩岸の風光フヰルムの如く展開する間を筏は悠々とながれ下る。筏夫は命をまかせた一本の棹を操つり乍ら、時には奔湍の早瀨を通り、時には瀞のやうな深淵を渡つて、興來れば一曲の筏節に己が身の苦勞を忘れる。好仁面附近の河水は未だ淺いので長大の流筏は通せないが、一度長津江の水を合流すれば急に水量を增して江山の趣一變する。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●葛田里の勝景(鴨綠江)
江中第一の勝景葛田里は、新乫坡より二十五邦里の下流に在る。嵐峡に似た山せまり水よどむ麗凉の境で緩く流るゝ筏の景色も畫中の一点景である。 筏夫の唄ふいかだ節のメロデイにつれて𧮾の鷲の交響樂を聞くものは鴨江自分にして詩あるを悟るであろう (印畫の複製を嚴禁す) -
●鴨綠江の上流境(鴨綠江)
鴨綠江の上流區域に入るには、朝鮮路を採つて惠山鎭に達するのが最も便利である。山迫まり𧮾狹まつて潺緩たる鈿流僅かに筏を浮べるに足る。 靜寂の中に滴水を集めて、淸く滑かに流るゝ川の源流境はさながらに自然の處女の姿である。幾百里を流れゆく水の心に先づ一棹を試むる筏師は、たしかに風流人であらねばならぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●堰(鴨綠江)
流筏には處々に堰を設けて江流を導き、流れ來たる筏の整理場所とする。堰には鐵砲堰と稱する水量の少ない淺瀨に設けるのと、普通の堰を二通りある。 堰では流筏が一時貯溜されて筏が編み直され、筏師が一ト息入れる場所として、惠山鎭から江口里迄三ヶ所ある。朝鮮の山ぎしと支那領の谿合ひから同じ鷲の鳴く音を聞くによい所だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●國境の鮮人部落(鴨綠江)
鴨綠江を挾んで南に朝鮮、北に滿洲を對峙した日支の國際線は昔から安全ではない。滿洲側から來る土匪や馬賊の襲來に備ふるために日本は蟻も這ひ出せぬ嚴しい警備線をその江岸に布いて居る。荒凉たる山谷に沿ふて点々として見出さるヽ鮮人部落から上る溫突の煙にも、何か國境らしい無氣味な威カツいものが感ぜられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●火田(鴨綠江)
朝鮮火田民の習俗は古來から名高い。原始民族の面影を傳へた彼等の生活は、山岳地帶を征服する特異の能力を持つて居る。森林を燒拂つてそこに粗放なる農業を營むところから火田と稱せられたものであるが、彼等は必ずしも一地に定着せない。次ぎから次ぎに移動性を有するために、火田民の行くところ千古斧鉞を容れぬ鴨江自然の處女林も一夜に暴さてしまふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●輯安の大將軍塚(鴨綠江)
朝鮮民族の始祖高勾麗族侵出の系路は史上にも明かであるが、滿鮮國境の鴨綠江岸輯安(支那側)の地の大將軍塚と稱するものは、同地に現存する高麗王碑と共に同民族の一大遺跡である。今日滿蒙到る處俗に高麗城と稱せられるもの必ずしも高勾麗民族の遺跡とのみ斷じ難いが輯安の古都は滿鮮を一丸とした往事最も偉大なる民族の史跡を語るものであらねばならぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●支那側の防備台(鴨綠江)
臨江は鴨江流域にある支那側の一市邑、山群水廓の常に平和なるに似ず、江岸到るところ物騒がしい。圓塔の如き建物は言はずして國境防備の見張台である二つ三つ四つ銃眼を作つて朝鮮側を睨らんで居る恰好も物々しいが、これを守る巡警先生のだらしなさも情けない。支那側江岸には新乫坡より下流、怎ふした見張台は幾十百を以て數へるが、昔萬里の長城を築いた支那の亞流だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●國境の守備
(鴨綠江) 滿浦鎭は鴨江上流の朝鮮側にある一都邑である。新義州を去る百七十餘浬、山いよ(いよ)深く水ます(ます)淸い地点にして、江流の廻る突角の斷崖上に建てられた洗劍亭と名づけられたる附近の古屋は、國境守備隊の酒保なりと聞くもいさゝか血なま臭い。 北韓の山奥にも風聲鶴唳ならぬ外患の守備に國防の任に當る同胞の勞苦は辛らい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●新乫坡鎭(鴨綠江)
新乫坡鎭は新義州から上流三百四十餘浬、赴戰江の合流点で、ここより鴨綠江の水量は頓に增加する。先年鴨水の溯江に一新紀元を劃したと謂はれるプロペラ船は此地を終点とする。上流から流下する筏は此處で編み代へられる。從つて筏師たちの休養場として可なり賑かなところで、時に谿間の鶯は筏節の情調を聞かせて吳れる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●捩木造り(鴨綠江)
鴨綠江の森林といふのは今日では餘程上流の山奥に入らなければ良い林場は得られなくなつた。江岸の雜木林では上流から流されて來る木材を編筏するための捩木製作の枝條位を産するだけだ。 捩木は樽の枝條を生まのまゝにねぢり柔げて、結締を容易にする。白衣の鮮人の作業姿を江岸到るところの山の中で見出さるゝのは、皆この捩木造りだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●上流の水車(鴨綠江)
鴨綠江上流の農業は所謂火田で主に燕麥のやうなものが産する。側筋一体によく見る水車で、頗る原始的な動力利用であるが、鮮人としては相當な工夫であろう。河向ひの支那では水車は餘り見受けないがその代り驢馬を多く用ゐて居るのも鮮支の對象である (印畫の複製を嚴禁す) -
●鴨綠江鐵橋
ありなれの水を挾んで安東も新義州も共にその生命とするところは鴨綠江である。東洋一の鐵橋、全長三千〇九十呎に依つて連結された鮮滿の直通列車は歐亞の國際交通路だ。橋の中央は自働裝置に依つて十字に開けば眞帆片帆の水運にも便して居る。 安東も新義州も鴨綠江の上流森林伐採によつて、流す筏の大市場であるが、外に安東は柞蠶工場に新義州は製紙工業に依り自ら特色を發揮する。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●國境の町(新義州)
國境の町新義州は日本領土の先端を意味する地点だけに、エキゾチツクの空氣が滿ちて居る。白衣の鮮人菜葉服の支那人、金ボタンの日本官憲、何れもそれ(それ)の特色ではあるが、調和しない姿である。横はる一葦帶水の鴨綠江は、かくて幾百千年の間、鮮支兩民族を差別して反目爭鬪の白線を引いた。そこに今は日本の勢力がノシかゝつて三つ巴の渦を卷いて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●新義州の街頭
同じく日本化されて行く新義州の町と、對岸の安東縣とは國境線上の好い對象である。日本の勢力が鮮人に作用する力と、支那人に作用する力と如何なる結果を齎らすか興味ある問題である。 街頭に見る朝鮮人の男の鈍重にしてのろ臭い感じに比して女の白衣姿の如何に颯爽としてキビ(キビ)して居ることよ。そこに下駄ばきの裙の邊りのダラしなき日本婦人を点綴することは甚しき惡趣味でなければならなぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●貯木場光景(新義州)
鴨綠江材の大市場は從來何んと云つても安東であつた。然るに四五年この方上流支那側の林場が、土匪や馬賊に荒されて採木が出來ないため著しく出材を減少せしめた結果、最近は朝鮮側の新義州は嶄然安東を凌ぐやうになつた。營林廠一年間の取扱高百四十万メ尺に比して安東採木公司の三十万メ尺の數を見てもその盛衰は察せられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●製紙工場(新義州)
年々歳々文化の進展に伴つて紙の消費は恐ろしい勢で增加する。日本内地の一ケ年使用高は一億五千萬圓に上る。此の製紙原料として五十萬噸の木材をパルプにつぶす。此の趨勢で進んだら内地、北海道、樺太、朝鮮の山まで切盡しても、紙の饑饉は早晩來なくてはならぬと謂はれる。鴨綠江材を原料として製紙して居るものに新義州に八王子製紙の分工場がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●黃河の皮筏子(綏遠省)
支那五千年の歷史の中に流るゝものは黃河である。黃河は支那の生命であり、民族發祥の源泉であらねばならぬ。河南、直隷、山東の謂ゆる中原地帶をその搖籃地として發達した支那文化は、要するに黃河の水に培はれたのだ。 今日尚ほ甘肅地方から黃河の水路を利用して包頭地方に流下される皮筏子の光景を見るものは、民族の故土としての西域の香高支那の原始的面影を知ることが出來る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●羊皮筏子(綏遠省)
皮筏子に牛皮筏と羊皮筏の二種類がある。皮筏は要するに牛羊の臀部から後肢を切斷して皮を丸剝にし、前肢を結束して頸部(首は切落される)のところを緊縛するやうにした自然の皮囊である。 羊皮筏は羊の丸ムキの皮囊に空氣を吹込んで、膨ました個々の浮囊を數十百個聯結して、水上に浮揚せしめたものである。その上に獸毛皮革の類を積込んで運搬するのだが、筏夫は殆んど回敎徒の専業になつて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●牛皮筏子(綏遠省)
牛皮筏は羊皮筏と異り、牛の丸ムキにした革囊には羊毛や駱駝の毛を充塡して、すつかり輸送用に梱包した個々のものを聯結して筏に造つたものである。 皮筏子の一連の數は大約二百八十前後から八百個を組合せの一回の輸送數量は五千斤から多い時には二三万斤に及ぶ。皮筏の航行する水路は甘肅の蘭州から包頭までの間に限られ、此の區間を流下する日數約一ケ月を要する。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●陸揚した牛皮筏(綏遠省)
黃河の皮筏子を流下せしむる時期は春解氷後の四五月頃或は秋の十月前後の二回しかない。平沙萬里に渉る綏遠の原頭、洋々として流るゝ黃水の上に浮ぶ河筏子の光景はたしかに偉觀である。 塞外の市場包頭鎭の河岸に着いた皮筏は時を移さず陸揚される。ゴロ(ゴロ)轉がした首のない牛といへば奇怪でもあるが、それにしても完全な梱包法であり原始的な香の高い壯觀でないか。革囊一個の斤量百五六十斤市場では中味の毛ばかりではなく袋もそのまゝ賣放してゆくのも面白い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●黃河の船人(綏遠省)
包頭附近に見る黃河の船は普通團平船と稱すべき種類のもので、長方形の箱を浮べたような船足のない船だ。遠くは寧夏近くは五原あたりから雜穀や紅柳を積んで下りて來る。秋の収穫後農産物の出廻期となれば幾十艘となく群をなして流下する。河岸は一時に市場化して、糧棧の番頭達は原始的な枡をかつぎ出して盛んな取引が始まる。馬車が來る、駱駝は去る、犬は吠江る、子供が泣く、喧燥なる人馬の雜閙も一時、取引が濟めば後は人影をとゞめぬ淋しい河岸に、秋は徒らに更ける。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●羊毛を織る群(綏遠省包頭)
綏遠はいふ迄もなく蒙古一帶では麻袋の代りに羊毛で織つた袋を使用する。強靱で耐久力のあることは麻袋の比ではない。 包頭の裏町通り風なくしてあか(あか)と照る秋の日向に、袋の材料とする羊毛織が初まる。彼等は時に幼稚な手法で緞通をも織る。原人の生活には謂ふまでもなく棉を用ゆる前に獸毛を紡織に用ひたのだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●駱駝隊(綏遠省)
陰山山脈の崢嶸たる姿が彼方の空に脈々として連なり、黃色の砂原が漠々として外蒙に續くところに駱駝の一隊が風の如くに來り風の如くに去る。 西域の交通路見出さるゝ運輸機關として、水には黃河の皮筏あり陸には駱駝の船があるのも面白き對照であらねばならぬ。駱駝の怪奇なるその風貌と恰好が沙漠の主として如何に適はしく且つ賴もしきかよ。穀物の運搬は多く駝背により獸毛は主として皮筏に依る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●包頭鎭(綏遠省)
黃河の中流逶迤として流るゝところ、北に陰山々脈を負ふた西夷の街、昔は包頭を闕塞と稱し、斷江ずに韃靻人に冐された地である。漢人の勢力を得たのは咸豊年間のことで、初め近郊の腦包村に移住した時以來のことである。 今は京綏線の終端、蒙古の奥、甘肅、新疆方面からの物資が集散される。如何にも塞外の街として灰白色の土城に圍まれた淋しい町である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●土城(綏遠省包頭)
漢人が綏遠方面に移住したのは、滿洲人が中央侵畧してからのことである。包頭が城邑の形をなしたのは淸代のことで、現存する土城もその當時の築造に依る。遙に光る黃河の水の白線を引きたるが如きが僅かに黃褐の沙漠の單調を破つて地平線のかなたへと消江るところに、大自然の一点景として泥塼をつみ上げて一劃毎に窓穴を設けた謂ゆる女墻は、平原の町を一種の嚴めしいものにする。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●塞外の露天市場(綏遠省包頭)
包頭の街上には可なりに西域型の人間や建物や風俗が見出される。タタールの血、回敎徒の寺院、喇嘛の廟、それに錯綜する蒙族、漢人の色彩は、塞外でなければ見られぬ一種の氛圍氣である。 城内の中央街に何時からともなく開かれたる露天市場の殷賑は、毎朝喧燥と混雜の渦卷を起して凄まじい光景を呈する。而して革命には遠いかに見ゆる此の地にも今は既に三民主義の宣傳ビラを見る。大支那はかくて同化する而して擴大する。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●陰山(綏遠省・五原)
陰山は土人之れを大靑に呼稱する。綏遠の正北から始まつて五原の曠野を西に走つて居る。東西數百支里の間一直線の斷層を形成して恰かも一大障壁の如く蒙古と綏遠平原との自然の防備線となつて居る。 陰山は最高三百米突、白道嶺の要害は趙の武靈王が雲中を防護した所として傳はる。包頭から五原への所謂古來の西域路は陰山麓を通ふて、下には黃河の流を瞰下し上には峯上の白雪を仰ぐところ塞外凄慘の光景である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●五原街道の宿屋(綏遠省・五原)
五原街道は陰山々下を傳ふて包頭から五原城へと落寞として續く。その間數十支里の合間(合間)に一二軒の宿屋がある。看板には留人店、車馬大店などと大書したのがぶら下がつて、土壁に圍まれた院子は牛馬車の泊場だ。 日が陰山に傾むく頃になれば何處ともなく旅人や牛馬車の群が此の店に集る。そして侘びしき一夜を此の宿に過して翌る日の旅路につくのである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●土屋の木賃宿(綏遠省・五原)
店は謂ふまでもなく宿屋だ、小店は一段下がつた木賃宿である。土屋の入口を入ると突當りは炊事場でその兩側が炕になつて旅人の寢所だ。夜具も食料も旅客持參のもので、宿賃は人間も馬も銅子兒の三十枚と決まつて居る。 カンテラに照らされた夜の土窟の光景は何んたるグロテスクなことよ。前後左右に雜魚寢の姿は、鈍よりと重く濁つた異臭の空氣の中にもの凄く橫つて、旅人の夢は地獄をさまよふ感がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●穴居の入口(察哈爾省・卓資山)
綏遠地方の穴居には院子を設けて作られるものが多い。卓資山南面黃土のスロープを利用して、先づ溝道を掘る。而して之れを入ると露天の空地(院子)を設けてその奥に土屋を掘鑿する。地上に突出た二本の突起狀のものは煙突で、光線は院子に面した側面の窓から採る。溝道の奥手には出入りの門扉さへ作つて、院子には驢馬や牛やが飼はれ、農作物の取込み場だ、穴居は夏凉く、冬暖かで土人には山西人が多い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●穴居の鞴(察哈爾省・卓資山)
穴居の内側正面のところには炕が作られる。見たところ廣さ二坪ばかり、天床の突抜け窓からは異樣な外光が穴の中に差し込んで、怪奇な部屋の光景を現出せしめる。くすぶつた土色の老媼が默念として器械的に左手を運動せしめて居るのは、鞴を用ゐて炕の火力を起さんとして居るのだ。此邊には木の燃料といふものがない。焚ものとなるのは僅かに草ばかりである。地上に立登る細々とした白煙の悲しきことよ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●大仙廟(察哈爾省・卓資山)
五原城外に紅柳の生繁る小丘を背にして大仙廟の奇異なる祠がある。圓形の土台を築いた南面に竈の焚口のやうな格構のところは、大仙の鎭座する聖所だ。丸い土台の上には木の根ツ子が山積されて奉納してある其れはまた珍らしい賽物でなければならぬ。恐らく部落の百姓達が掘返した燃料の共同置場といふ形、恁ふして置けばお互ひに盗んだり隱したりする心配はない大仙を番人にして盗難を避けやうといふのだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●圓倉(察哈爾省・官村)
滿洲で見るアンペラ倉庫の囤の代りに察哈爾地方には固定的な圓倉がある。高さ一丈、直徑八尺、泥土を塗り固めただけの簡單さではあるが、基底に通風の構造さへある。大抵部落の各戸では院子の南隅に一個宛は備へられて、秋の収穫期には栗、麥の穀類が保存される。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●五原平原(綏遠省)
五原平原は南に黃河の流域を控へ、北は蜿蜓數百里に渉る烏拉山脈を屏風の如く引き廻はした自然の沃野で、嘗つて綏遠督軍馬福祥が裁兵を使用して五原の曠野を開墾すれば二十万の壯丁を容るるに足ると建言した豊饒地である。 水渠は明代すでに黄河の水を引いて灌漑に利用した農耕用の水路で、東西一百支里の間、大小の水渠は縦横に掘鑿されて現に殘つて居る。此の地方栗、麥を以て主産物とする。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●土砲(察哈爾省・官村)
察哈爾官村付近の部落には恁ふした中世紀的大砲の二三門が備付けてある。謂ふ迄もなく夏期に出沒する土匪を威嚇する代物である。 村の保衛團は柏子木や釋杖位を鳴らして見廻つたのでは匪賊の橫行には到底追付かぬ。此處に大砲ありと空音のみ高き大砲を鳴らして終夜警戒するところ、如何にも人間の心が此の大砲以上の中世紀的な感がする (印畫の複製を嚴禁す) -
●殖民都市(綏遠省・五原)
五原城は古い塞外の要鎭である。南門郊外三支里に隆興長の商業地區があつて、五原平原に産出する雜穀の集散地として可なりの殷盛を見せて居る。十數年唯一戸の油房隆興長が忽然として出現した以來、漸次に植民の數が增加して今は一万の人口を有する都邑にまで發達したところの支那の典型的植民都市である。その名も最初の油房名をそのまゝ附けたる處に支那の自然さと無頓着さがある。交通機關としては包頭からの毎日自働車の便がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●綏遠城(綏遠省)
歸化城の商業地街に對して行政蕃理の町として綏遠城がある。先年馮玉祥が此の地に據つて西域屯墾を策した當時、城内を整理して邊塞に似合はぬモダンな道路を修築した。中央が人道で兩側が馬車道になつて居るのも風變りな行方である。現下閣の勢力範圍に屬しその軍隊が駐屯して居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●商家(歸化城)
歸化城は外蒙古、關粛、陝西地方への貿易の中心として古來行商人の根據地であつた。今日では汽車が包頭まで開通された結果、昔の殷盛を見られないが、古風の商店が尚ほその面影をとゞめて居る。 入口に牌樓式の屋根飾りを見せて朱塗の金看板をブラ下げたところ、如何にも美しいポーヅだ。北門の城壁には三民主義の諭告など黑々と大書されて居るのも好き對象でなければならぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●歸化城内の牌樓(綏遠省)
歸化城内延壽寺の門前にある牌樓は面白い屋根の建築美を現はして居る。謂ふまでもなく蒙族同化の宗敎政策から來たものであろう。創建の年代は詳かならざるも康煕年間に重修された記錄がある。牌樓の附近カマボコ馬車の客待所となつて、西域往還の旅人に異樣な印象を與へて居るのも、歸化城名所の一たるに耻ぢない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●歸化城外(綏遠省)
西域に於ける歸化城の歷史は可なりに古い、由來漢民族は北蒙西夷の異民族と接觸して、それが征服同化のために拂つた犧牲は鮮少でない。魏の拓跋族が起つて大同に根據を占めるまで、綏遠の地は彼等の策源地であつた。漢族が萬里の長城をこの邊まで延長したのは隋朝のことであり、明が歸化城を此の地に築いたのは蒙古の土默特族を威壓するためであつた。今日でも城内には土默特管理署を設けて特別扱をして居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●王昭君の墓(歸化城附近)
運命の人王昭君の生涯は古來支那に於ける悲劇傳説の代表的なものとして世に傳はる、天性傾國の美を有しながら漢宮に寵を得ず、黃沙萬里の胡國に入りて、千秋の恨を琵琶に托して訴へた故事は、今も尚有情詩人の好題目である。 歸化城の西南二十支里、秋風落寞の平原の中に見る小山の如き塚墳は、之れ王昭君の永しへに眠る奥つきとして口碑に殘る、これも支那の西邊の華夷爭鬪史上のエピソードであらねばならぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●ラマの宿舍(綏遠省五當召)
本堂の左右兩側には數十棟のラマの宿舍が立並ぶ。一山の喇嘛千五百を數へ禁斷の聖地に修道専念するそのラマの日常は枯淡忍苦の形式に依て去勢された活佛、大喇嘛への階級生活である。漢人は蒙族の潑溂たる生命をかくして喇嘛に封じて了つたのである。此の点に於て支那は北方の蠻族を制御することに於て萬里の長城を築くよりもより容易に成功したと謂はねばならぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●五當召のラマ寺(綏遠省)
包頭の東北九十支里、陰山々脈の彼方に五當召のラマ寺が在る。寺名を廣覺寺を稱して淸朝が蒙古懷柔のために建立したもの、堂塔伽藍の規模すべて西藏拉薩の本山に則り、佛殿精舍七十餘棟の白堊宮が、山隘の寂光に展開されたところ確かに偉觀である。 包頭で此の聖地の噂を耳にしたカメラ氏は高原の初冬既に霜雪を見る頃、敢江て陰山越江の大冒險を試み無人の山中陰慘なる一夜を破れ小屋にて明かして撮影したのが此の収獲である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●念經堂(綏遠省五当當召)
喇嘛敎には紅禪と黃禪の二種類がある。五當召のラマ廟は紅禪に屬して拉薩の本流を汲むものである。念經堂はラマ朝夕の道場で百万遍の念經稱名を修しなければ眞の一人前の喇嘛僧にはなれない。堂内異形怪奇の壁畫を以て飾られ。立列ぶ柱や天井には赤と靑との曼荼羅を吊して異樣の空氣が漂ふ。銅鑼と鐘と太鼓の音に和して哮江るやうな讀經の聲を聞くものは此の世ながらにして寂滅の世界を思はするものがある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●藥屋の店頭(歸化城所見)
支那の藥屋ほどグロテスクなものも珍らしい。歸化城内の藥屋のシヨオウインドと想像しただけでも仙丹秘藥の陳列が察せられる、熊の剝製を中心として犀角鹿陰は謂うふに及ばず蛇、蟇、蜥蜴の干物、骨や牙や蹄の類まで凡ゆる生物の珍品が雜然と陳べられて、練金術の鍋まで店先に置かるる以上、百姓の好奇心をそゝらずには措かない。原始的な臭ひ如何にも山海經を目の當り見るやうな心地がする。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●五塔(歸化城)
歸化城内東門の所謂五塔寺にあつて、蒙古名は塔布斯普爾罕招[タフスフルハンチヤオ]と呼んで居る。塔の形式が北平の五塔寺のそれを模したもので磚を以て材料とし、各塔四方に佛像を刻む。その巧緻輪奐の美に至りては到底北平の比ではない。建立の年代も恐らく明代の頃のものであろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●本屋
支那にも此頃は活版刷り洋裝金文字入りの本が店頭を飾るやうになつたが、北京の本屋街に行くと未だ(未だ)書架一杯に靑帙黃表の諸子百家をつめ込んで二千年來の支那文化を誇るかに見江る。 本屋の店は決して吳服屋や點心屋のように間口を金ピカに飾り立てない、見るから簡素で奥ゆかしく、格子窓の障子紙にあか(あか)と春の日ざしを受けた店の内部は、森閑と納まつて客も自らのびやかな心持で半日を漁書の樂に暮す。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●蜂蜜屋
支那人は蜂蜜を砂糖の代用とし或は之を藥用にしことは巳に舊い話である。北京では山西産のものが珍重される。蜜屋の店頭には蜜餞と稱して果物を蜜に漬けたお菓子を賣つて居るが、その容器の小瓶は可愛らしい。支那では蜜餞は必ずしも果物ばかりを漬るとも限らぬ、南史に宋の明帝が蜜を以て鱁鮧を漬け一食數升を平げたといふ記事が見ゑる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●點心屋
支那の街で古來店舗の華美を競ふのは菓子屋の店頭に如くものはない。欄間を透彫の極彩色にして軒にはお菓子の恰好した美術的な彫牌を下げ、赤色の文字で飾るところ如何にも賣品の甘美を思はする。北京ではお菓子を點心と云ふ、その意味は主食物ではないが食事の合間に一寸空腹を押へるために食ふものといふ心持らしい。日本のお八ツに類するが必らずしも然らず點心とは面白き言葉である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●藥屋
支那の藥屋は同じ商賣でも他に比して何處となく品位がある。それは神農數千年來の仁術救命の傳統を受けついで、巢窩のやうな小簞笥の中には草根木皮の秘藥が藏されるところに尊さがある。 入口の横合ひから神仙超俗の有難い文字を列べて、店に這入ると薄暗い空氣の中に、プンと鼻覺を刺激する藥の臭がする。奥の間に太夫が控へて應病與藥の仁術をも兼ねて、藥九そう倍の營業をするといふのが支那の藥屋の特色である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●莨屋
支那に初めて煙草の輸入されたのがたしか十五世紀頃かと察せられる。謂ふまでもなく西域路を傳へて來たものであろう。それが朝鮮に入り日本に傳はつたのである。あの長い煙管に刻莨をつめてパク(パク)やり出した當時の有閑階級のことを想像しても、煙草の嗜好は支那の國民性にピツタリと合つた趣味だ。今日では葉卷の洋煙も廣く普及して來たが、獨特の水煙草や嗅煙草もあつて、莨屋では煙草の葉を賣つて居る煙草の産地としては江西、湖北、山東、安徽、福建が名高い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●料理屋
軒先に錫の德利に紅布を吊してプラ下げた看板を見ると言はずしてそれは支那料理屋たることが知れる。入口を這ると左右にカウンターがあつて、アバタ顔の掌櫃が恭しく頭を下げて客を歡迎する。斗型に圍んだ中庭式のところから金ピカ飾りのある階段があつて、樓上の房子に導くが支那料理屋の一定した構造らしい開筵坐花、飛觴醉月など書いた景氣のよい對聯のかけ列ぶ廊下にシヤンの女の影がチラつき、客を送り出すボーイ達の頓狂な叫び聲を聽くのも華かな料理屋らしい空氣だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●膀胱屋
牛羊の膀胱は古來支那では酒の容器として用ゐられたものである。強靱で運搬に利便で且つ廢物の利用といふのだから可なりに重寳がられたものである。アラビア地方から西域方面にかけて酒を革囊に容れるといふ習慣は舊く殘されて居るが、或は此の膀胱容器を指したものであるかも知れぬ。北京地方では年十數万の輸出を見る相であるが、之れは日本邊りに來て氷囊に用ゐられるものである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●茶莊
茶は昔から支那人の嗜好物で茶經がある位だ。從つて茶の製産についても喧しく選擇吟味されたものである。茶の産地としては湖南地方が最も名高い。種類にも綠、紅、磚等がある。 支那人の茶の趣味は可なり個人主義だ、彼等は自がじゝ好な種類の凞春とか玉露とか雨前とかを一二匁の少量を厭はず、茶莊の店頭で買求めて、書齊に公園の散策に或は觀劇に己が欲するところで開水を求めて、茶の芳香と甘美と爽快の味を樂しむ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●銀細工屋
北京の銀細工は可なりに舊い工藝美術である。一体支那では銀が愛好される。裝身具、食器、煙具、花瓶置物類に至迄各種の加工製作品があるが、支那の銀製品は餘り精巧だと云ひ得ない。薄ペラで安ぽい感じのするものが多い。 銀細工屋は一名銀爐とも云ふ、金店、銀行などいふ店の名が一般に行はれて居る。商賣抦他の店に比すれば銀店は明るく派手に出來で居るのも自然な譯だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●米屋
支那は世界でも有數な米産國である。楊子江流域を主たる産地とするが、江蘇省は最も盛んである。滿洲の支那人を見て一概に彼等の主食物が高梁や唐黍であるかの如く斷ずるのは廣支那を支那を知らないものである 支那の米屋を粮行と稱し粮石倶全批發などといふ看板をぶら下げて、店の軒先に箕に盛り上げた白米を列べて居るのは日本の米屋と變りはない、支那は升で量らずに天秤で計量するところに相異がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●普陀の碼頭(浙江省)
寧波から海上二十四浬ばかり、波間に舟山列島の美しい島影が浮ぶ。その中の一つに普陀山がある。古來支那佛敎史上に著名な靈場として聞江たところ、風光明眉にして近頃は江南第一の避暑地である。 春の晦日ねもすのたり(のたり)波打つ岸に、三丈に餘る石坊の屋根が、狹霞の中にポツと浮んで、普陀山通ひの小蒸汽船が靜かに碼頭に導かれる。上陸の參詣者を待つ轎夫、挑夬の群れが、鞭持ち僧侶に指揮されるのも佛の島らしい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●路傍の修行僧
雨の日も風の日もあろう、地べたに座するには聊さか乞食らしい。苟くも修行僧としての態度は石上か木台の上か座禪を組むだけの方尺の天地が必要である。喜捨を目的とするのではない悟達を専念するのたなど理窟をこねたか何うか、四脚の台座に座禪して長閑かな春の海を去來する眞帆片帆の景色を眺めて、今日も一日を木魚を叩いて暮す修行者の心には、諦觀止水の姿がなければならぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●轎子の參詣人
轎子に搖られながら信仰の人だちが夢見心地に山路を登る。雨に洗れた谷の流砂が河原の路を阻むと、修行僧は丹念に路普請をしては參詣者の足元を樂にして吳れる。その代り路傍に竹笟を列べて勞力の代償に喜捨を要求する、如何にその笟の數の多いことよ。僧堂の近くに來れば木魚を叩く讀經僧に轎子の上からお題目を唱ひて喜捨して通る。與ふるものも受くるものも觀音の利益に依りて慈悲忍辱の生活の營まれるところに普陀の特色がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●普陀の山道(浙江省)
普陀の本尊は山上の佛頂寺に祁られる。こゝに行くには七百階の石段を登らねばならぬ。普陀詣の善男善女は首からかけた黃色の頭陀袋に、香木や線香や銅錢を納れて道々路傍の修行僧に喜捨して行く。 纏足をしたヨチ(ヨチ)の老婆達が、喘ぎ(喘ぎ)念佛を唱へ乍ら石階を拾ふ姿のいじらしさよ。山下の谿谷には禪傍の甍がおちこちに見江て、階段を一つ登る毎に眼下に春の海が展開する。人も自然も蕩漾として法悦の姿だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●法悦の老媼(浙江省)
蒼古として香煙立ち迷ふ大圓通殿の本堂内では、木魚の音につれて唱へられる讀經の聲が恐ろしく南方音の響のあるのも怪しむに足らぬ、須爾壇の前に林立して供へられた蠟燭の中に、それはまた如何にももの(もの)しい朱紅の大蠟燭に寄進者の省名や人名など金文字で麗々と書いたのも支那らしい。 遠い山東のはてから一生の思出に春の彼岸の普陀山詣に渡り來れる老媼が、赤褐色に染めた麻の法衣をまとふて、法悦に輝く面もちして唱名合掌の姿も神々しいではないか。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●短姑古跡
碼頭の横手に見ゆる海中の岩に短姑古跡と刻したる場所がある。何にか美しい乙女のローマンスを止めたところであろう、梵字の御經をその側に刻めるも如何なる由緒かを知らぬ。僧堂の白壁に禪院と大書した文字が春の海にその影を投じて居るのも長閑な佛の島らしい印象でなければならぬ。普陀は全島佛寺によりて支配され、國民政府になる迄は警察權まで僧侶が握つて居た相だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●普濟寺本堂(浙江省)
普陀の靈場は日本佛敎にも因緣の淺からぬところである。日僧慧鍔といふ人あり五台で修行しての歸途、船にて普陀の海を通りしに怪しくも船俄かに動かず、色々詮議したるに携へ來たれる一座の觀音あり、此の地に留ることを欲し給ふと知り、此の靈像を普陀の山上に祭ることにしければ、船再び進行を始めたといふ傳説がある。 普濟寺の開基は宋の紹興元年である。觀音の靈驗に依りて、世々廣く信仰されて今日に至つて居るが、山中の堂塔伽藍の中でも大圓通殿は最も莊麗な建物である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●墓の形式
山の中腹から僅かにそれた林間の幽邃境に信眞和尚の奥つきがある。三重の石塔を廻ぐりて半圓の石壁が二重に築かれる。中央の祭壇を擁して前面の半圓と合したところに美しい構圖の建築樣式を示して居る。北方には餘り見られぬ墳墓の形式であるが南方には可なり此の樣式を見るのは、海洋を傳はつて來た安南緬甸方面の影響でもあろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●座禪僧
文字の國支那では大きな巖石とさへ見れば兎角有難い文句を彫りたがる。之れはまた修行僧の好奇から斷崖に座禪して、鈴を鳴らし乍ら念佛三昧の姿も、普陀でなくてはみられぬ圖である。岩の下には大きな笟を置いて募化香金、随綠樂助など書いて居るのも、座してばかりでは食へない僧行の悲哀である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●珠數賣り
普濟寺の前に諸國から集る參詣人を目當に土産ものの店がズラリと並ぶ。香木をもて造つた珠數(普提子)の數々、普陀名産の石細工や香木の筓等、遠近から海路を經て此の佛島に詣てたる善男善女が、一生の思出をふる鄕への語り草にと、買ひ求むる土産ものには記念としてふさはしい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●東浦(浙江省紹興)
紹興の街から十五支里の海岸に東浦といふところがある。大体紹興酒の本場は此地であるが、古來から集散地の紹興地名で聞江て居る。人口僅か五六千の一部落であるが、町全体は殆んど釀造に終始して居る。縦横に引き込まれた水路の兩岸は酒の空瓶に埋れて、酒庫の白壁には長い間の酒香が滲み込んで居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●空瓶繕ひ(浙江省紹興)
白い瓶は大体上等酒の容器となつて居る。所謂銀甌を山䕃に貯へて酒を舐めたといふ話は、蓋しこの紹興の上酒を云つたものであろう。 東浦の大路小路の酒屋街に、軒下や壁側に堆く積みかさねられた古瓶は、遠近の地方から空になつて返つて來る。二度のつとめに出る前の修理にカスガヒ屋の儞爺が小さい金槌を手にし乍らコツ(コツ)させる音が如何にも長閑だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●酒糟(浙江省紹興)
紹興酒は糯米から採る。あの褐色を帶びて居るのは麥を混じて居るからで稍々ビールにも似たところがある。酒糟は篩にかけて甕の中に貯へられ、之れを醗酵せしむるには水を適當に加へて寢かして置く。やがて白泡の立つ頃、酒締めにかけて絞り出される。酒倉の中には日本ならば杉の香のする酒樽といふのであろうが此の地では大甕の中に容れて糯米の藁で覆ふて置くだけだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●瓶詰(浙江省紹興)
酒庫に貯藏された酒は謂はゞ地酒と云つた程度のもの、之を市場に賣出すには一度大釜に入れて煮沸する而して愈々酒瓶につめる時少量の燒酒が混ぜられるのだ。紹興酒の一種に竹葉靑と稱して黃金色に澄んだ酒がある。之れは笹の葉を入れて造つてものと稱せられる。古來日本にも釀造には竹の葉を用ゐることは杜子の秘傳とされたものだが、或はその起源が紹興から傳へたものかも知れぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●泥頭(浙江省紹興)
瓶に酒が詰められると口は荷葉で蓋をされ、その上に素燒の皿(燈盞頭)を置き、更に竹の皮で包裝する。燈盞頭には自家の屋號を印刷した紙片が貼られるかくて五十斤入れの酒瓶は泥で泥頭を作つて密封し、鏝できれいに整形して酒造元の商標蕾紅印が押捺される。瓶口を荷葉で覆ふのは酒の芳香を好くするのだとも謂はれ、腐敗を防ぐ効もあるらしい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●貯藏(浙江省紹興)
酒屋の院子に列べられた酒瓶は、蕾紅印を押された幾百個の泥頭を行儀良く整列せしめて、簡單に屋根を覆ふて風雨と日光の直射を防ぐ。飾り氣のない粗野な此の酒瓶の中の狐色の水は、年數を經れば經る程ボルドーの葡萄酒のやうに甘美な芳醺を自然に釀して聲價を上げる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●城内(浙江省紹興)
紹興城内は水路縦横に通じて、至るところ川端に列ぶ酒屋街の氣分が横溢して居る。支那東西南北紹興酒の酒甕を見ないところは無い程名高い彼の狐色の水が此の南陬の水都で醸造されるのだ。人口二十万、なか(なか)富裕な町だけに、革命軍あたりの財源には何時も痛い程搾られる。昔此の町は倭寇の攻略にも可なり目に合つた歷史を有する。今に尚その遺跡を偲ぶに足るといふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●禹陵(浙江省紹興郊外)
禹帝治水の功成つて南越國の地を巡遊して、途中病を得て殁(部首が歺)し、會稽山に葬つたといふ傳説がある。後世その陵趾を明かにしなかつたが、明の嘉靖年間にその跡を探して此の大禹陵の墓碑を建立した。廟の近くに窆石亭と稱する素朴な亭がある。即ち太古禹陵に使用した盤石として傳はるもの、蒼古たる色を現はして居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●曲水(浙江省紹興郊外)
古い都だけに紹興には古雅な遺跡がある。殊にそれは酒の都にふさわしい名所の一つとして、曲水の宴の餘芳を今に傳ふるもの、ゆかしき限りである。曲水の故事は頗る古くして何時の時代に始まつたか知らないが、古詩に羽觴随波の句がある。 今は荒廢した流觴亭の庭に、昔を偲ぶ曲水の礎石が苔にむされて梅樹のかげに横はる。此の故事隋唐の頃日本にも傳來して、大宮人の風流を援けた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●紹興城(浙江省)
紹興は史上にも古い都の一つとして、戰國時代越國の首城、忠臣范蠡が越王勾踐に献身した美談は、早くから日本人にも噲灸されて居る。 城廓の周囲二十支里、水陸三門ありて西門を迎恩門と稱し、唐代錢鏐が兵三万を率いて董昌を討伐した時水上から樓を仰いで再拝之を諭したといふ史實がある。如何にも水門の構造からしてもロマンテイクな情景である。 (印畫の複製を嚴禁す)